戦うことと裁くこと

戦うことと裁くこと―中世フランスの紛争・権力・真理

戦うことと裁くこと―中世フランスの紛争・権力・真理

11〜13世紀フランスにおける、騎士から王までの領主と、聖遺物を武器にする方法を編み出した教会という二つの「戦うことができるもの」同士の、お互い「容易に裁かれることができない」状態における紛争解決について。「戦うことができる」=「容易に裁かれない」という図式であるから、領主同士の紛争解決ではそれが「和解」という形が落としどころになる。逆に「戦うことができない」=「容易に裁かれる」という図式になることで、領主裁判権が効いてくるわけで、教会がなにも「貧しく弱いものたちのための組織」ではまったくない、という状況も説得的に説明され得る。
そしてこの状況が13世紀になって「証人尋問」という制度が徐々に裁判に入ってくることによって、社会の大きな変化をもたらす、あるいは13世紀が転換点であることの大きな傍証となっている。
展開としては面白いし(個人的には13世紀に入る当たりから自分の興味から外れていくのだけれど)、なによりも論文ってこう書くんだね、のすばらしい実例を見せてもらった。見せてもらったけれども身に付けるのは難しいね、まったく。

さいはての島

さいはての島へ―ゲド戦記〈3〉 (岩波少年文庫)

さいはての島へ―ゲド戦記〈3〉 (岩波少年文庫)

生は死があってこそであり、死がなければまた生も無し、というのがテーマかな。死を恐れ、死ぬことを拒否し、永遠の生(あるいは死後の蘇り)を狂おしく求めた人物によって生じたなにもないところへの穴へ、生きることそのものが流れ去ることによって、生である魔法や、言葉や、歌詞や、技術が消え去る。それを大賢者として、つまりおっさんとして現れたゲドが、育ちと血筋だけがいいだけの少年をともなって命ともいえる魔法の力をすべて使い尽くすつもりで世界を救いに旅立つ物語。ゲドが力を失う代わりに、そのゲドに従った少年が成長し、その運命であったアースシー全土の王の玉座に800年ぶりに座るにふさわしい少年となって帰ってくる、というところが、主人公がおっさんになったとしてもジュブナイルとして成り立っているんだろう。


しかしなんでわざわざこれを映画化したんだ、パヤオの息子。言葉が失われるという状況がこわいし非常に暗いテーマだし。少年の成長物語であり最後に二人で伝説的な最長老の竜の背中に乗ってひとっ飛びする絵柄がすばらしいからなんだろうか。
原作を読んだことのない人にとっては、それなりに面白かったらしいが、誰が主人公だか分からなかったそうだ。本名はみだりに唱えない世界観だから、ゲド、なんて原作でも5回ぐらいしかでてこなかったわけで、その説明がなければ誰がゲドだか分からないようだ。

妖狐×僕SS・5

妖狐×僕SS(5) (ガンガンコミックスJOKER)

妖狐×僕SS(5) (ガンガンコミックスJOKER)

累計100万部とは知らんかった。
1〜4巻までは登場人物の心情が丁寧に掘り下げられ、彼らの関係についてもじっくり描かれていたのが、5巻では2回目と1回目との「ズレ」を、特にりりちよとみけタン二人の間で延々と繰り広げられているので、少々物足りなさを感じた。ズレは分かるが、そのズレにおける心情部分が、りりちよの部分しか描かれていないのは、あれだけ引っ張られた挙げ句ぽーんと突き放された感が否めなくなってしまっているのだ。が、最後のページを見る限りではそのみけつかみ君の心情がほとんど描かれていないところたが分ポイントになるだろうから、この先を読んでみないと何ともいえない5巻なんだろうな。


しかし5冊しか出てないのにアニメ化とは…。ほぼ全滅エンド→振り出しに戻る(23年後だけど)→俺たちの旅はこれからだ、という終わり方にしかできないじゃないか、原作通りだと。もうテレビ終了したので関係ないけど。