「年上」ということ――川村邦光さん「退官」に寄せて


 川村邦光さんは、年上である。年上の、と口にして、さてそのあと何と呼べばいいのだろうとなると、そこでちと立ち止まってしまう。

 学者教員研究者、いずれそんな通り一遍のラベルを貼ってすませるのをはばからせる何ものか、があるらしい。友人というほどのおつきあいがあったわけでもなく、知り合い顔見知りというとただそれだけでもないような、何にせよそういう微妙な何ものか、が間にはさまる、そんな「年上」なのである。

 初めてお会いしたのがいつ頃、どんな機会でだったのかは申し訳ない、すでに記憶が定かでない。名のある学会やこれこれこういう研究会の類でご一緒したのがご縁で、などというまっとうな出会いがきっかけだったはずもないのだが、何にせよ、いつの間にやら自分の中で、ただの知り合い顔見知りというだけではない「年上」のひとりとして、名前とその仕事とが記憶されるようになっていた。

 『オトメの祈り』を出した頃、というともう20年以上も前のことになるわけだけれども、その頃まわりにいた同じような「年上」界隈に勝手に持ち回り吹聴して歩いた。おもしろいっしょ、ね? ね? という調子の、はた迷惑な押し売りみたいなもんだったろうが、それでも中には素朴に素直に「おもしろい」と反応してくれる素朴で気のいい学者稼業というのも、確かにまだかろうじてあり得たのだ、その頃は。お堅い歴史学、それも近代史などという最も脂っこく、かつ剣呑で、あたしなんぞはもうあらゆる意味でつきあいたくない世間にマジメに生きるような人などが、へえ、こんな風な歴史へのアプローチの仕方もあるのね、などと眼をまるくしてたのを覚えている。なんかこちらまで一緒くたにほめられたような気分でうれしくなった。寺山修司なら「うれしくてカレーライスを三杯も」喰うところだ。

 その後、歴博の共同研究をダシに、そんな「年上」の人がたに厚かましくも声をかけ、こちとらまわりの悪童連と共に糾合して「遠足」(今は亡き、そんな「年上」のひとりの命名) 含みの愉快な道行きをやらかしたあたりから、初めて生身を伴う「ひとり」として認識できるような距離でのおつきあいになったらしい。もしかしたら先方、当の川村さんの方がこっちの存在を先に、離れたところから何となく見聞きされていたのかも知れないけれども、そのへんは知らぬが花、なんだろう。

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 「年上」というのは一律ではない。自分を基点にしておよそ10年くらいの間尺のうちに、ちゃんと認めることのできる、輪郭確かな「ひとり」として見ることのできるニンゲン、敢えて言葉にすればそういうニュアンスが含まれてくる。そんな「年上」が、駆け出し若い衆の頃にしっかり視野に入ってこれるかどうか。こちとら捨て育ちの野良なもので、そういう「年上」に恵まれたとは正直言えない思えない。学部時代は言わずもがな、間違って大学院にまぎれ込んでからも、ゼミや研究室の先輩連ともそんなつきあい方はしてもらえなかったし、またこちら自身が当時からその程度に外道だったんだろう、「研究」というもの言いが昨今のように縛りのきつい呪文になってはいなかった時期だけれども、でもそういうガクモン世間、研究沙汰を介した仲の良さ、良い意味での「内輪」のありようをいつもよそごととして感じていた。世間並みの年上、先輩後輩な序列を前提にした関係に背を向けた報いはその後の過程で少しずつ思い知ることにもなる。「年上」とのつきあい方を学びながらこちらもオトナになってゆく、そういう関係をある程度歩留まり良く準備してくれる仕掛けが、たとえば若衆宿とかの「民俗」だったのだろうと勝手に思っている。

 けれども、ここは世の中の通例と異なる渡世のありがたいところ、たとえ実際にツラあわせてことば交わすことなどずっとないままでも、本や活字を介したつきあいというのがある。書いたものや発言したことなどは媒体介して見聞きすることはできるし、また何かの拍子に風の噂、又聞きの類にでも消息や最近どんな仕事をしてるのか程度のことは耳に入ったりもする。だから、川村邦光という御仁はずっと変わらず、あたしにとってはほんとに数少ない、そんな「年上」のひとりでありました。

 とは言えこの年上、学者研究者としての通りいっぺんの出自来歴ってのも、実はあまりよく知らないままだった。東北大で宗教学で、ってのは知っていたが、それ以上のあれこれはまともに聞いたこともないし、またこちらも敢えて詮索しようとも思わなかった。思う必要がなかった、という方が正確だろう。そういうおつきあいを自然にできるような「年上」というのもまた、貴重なものだということを本当に思い知るようになるまで、その後だいぶかかった。けれども、ほんとにそうなのだ。

 例の「オトメ…」シリーズ(勝手にそう呼んでいる、お許しあれ)のはじめ一?は、天理大学にいた頃の「仕込み」で形にしたものだな、と思っていたし、それは大筋間違っていないだろう。世間並みの流れから「おりる」ことと仕事の「仕込み」とが人生行路のある時期に、後から振り返れば結構いい頃合いに準備されていた、おそらくご自身もそのことに思い至ったのではないだろうか、とここは勝手に推測しておく。俗世世間的な「評価」だの何だのは知らない。知ったこっちゃないしそんなの、こういう「年上」には関係ない。

 そのような意味で、同じ「年上」でも自分の中では、高橋康雄堀切直人、などと同じ箱に入っている。いずれの御仁も「歴史」に対するにじり寄り方において期せずして同じような認識と方法意識と、その上に立った資料素材テキストとの対峙の仕方やその際の「読む」速度や調子の保ち方、そして何よりそれらを実践する主体、他でもないご本尊のありようそのものもひっくるめて、まさに「まるごと」としてのっぴきならない「そういうもの」感を問答無用、能書きいらずの確かさで示している、そういう知性であり書き手であり読み手であり、ああもうめんどくさい、口はばったいけど言っちまう、要は「初発の民俗学的知性」ってことなんだからして。

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 身すぎ世過ぎ、喰ってゆく手立てとしての大学の教員稼業、そういうモードが日本語環境での人文系にあたりまえに仕込まれていた、おそらくはそのもうかなり最後の時代、どういう経緯があったのか知らないけれども国立の、それも東大や京大などともまた違う、中途半端なしちめんどくささがこってり粘りついてそうな阪大に移られてから、果たしてどういう日々を送られていたのか、そのへんについてもほとんど何も知らない。どんな講義や演習をやっていたのか、どんな若い衆に有形無形の影響を与えていたのか、そんなこともわからないまま。まあ、阪大まわりとおぼしき民俗学文化人類学、いずれ人文系界隈の若い衆世代の仕事に接したり、まれにそういう生身とひょんなことから行き会うこともないではなかったけれども、正直あまり印象に残ってなかったというか、縁なき同時代のその他おおぜい以上の認識を持てない物件がほとんどだったってことは、ああ、同じ阪大ったって広いんだろうな、でもせっかくそこにいたらしいのに、あの川村さんの薫陶というのをうまく受けることのなかったような、そんな気の毒な人がたなんだな、とこれまた勝手に理会してそのまま通り過ぎていた。

 それが数年前、ほんとに藪から棒に研究会みたいなのをやるから出てこい、というお招きを頂戴して、なんでまた、と思っていたら、どうやらそれが川村邦光の若衆宿とその界隈からの呼び出しだったらしい。永らくお会いしてなかったご本尊にもその時、十数年ぶりにお目にかかれたのだが、これまたいい具合に枯れてしなびとられてて(ほめ言葉のつもりであります、為念)、あれこれ大変だったのは確かだろうけれども、でもまあこうやって国立大学の中に身を置かれ、それなりの若い衆世代にも囲まれておられるのをこの眼で確認して、なんかまたひとつこういう「年上」からの学ばせてもらい方について、ちょっと考えさせられるものがありました。

 人文系の知性のスジの通った年老い方、てなことは敢えて問うたところで今さら詮無いこと、ただ、前々から耳にはしていた奥さんとあの猫のコタロウのことなど、身のまわり半径身の丈のことどもについては、もしもまたそんな機会があり、そしてお気持ちがそのように向いたならば、ウダウダ呑みながらで結構ですので聞かせてください。