白い靴下

白い靴下を 6足買って、3足450円+税ですから 990円でしょう。6足買ったら 6足処分するという回転で数年か十数年か生きてるのですから靴下かたっぽ 12個足せば 12個減るということですけど、減る個数はつねにかならずいつでも 12 ではない。スクールソックスみたいな商品名なので就学も就労もしておらず職業訓練もうけていない人のための靴下ではないと思う。24-26cm というサイズ展開のある商品の中でもっとも低価格の靴下のうちのひとつです。いつかどこかで耳にした自衛官に支給されている靴下と同価格帯ではないかなと思う。

ときどきハイターとかブリーチとかそういう液体漂白剤を使って真っ白にしようとしたら、まるで真っ白みたいになるのだけど、仕組みがよくわからない。色素を酸化させてこわしてるんだか見えなくさせてるんだか、なんかそんな感じらしいのだけど、真っ白とよべるほどの白色に見えてて白色って色素ないの?と思うのだけどそんなことより、色素をなんかしてるってことは、汚れはついたままということなのかと思って、日々の洗濯で汚れがついたままだからなんだかうす汚ない感じになってると思ってて、漂白したら漂白されるだけだから汚れはついたままなのは当然だと思ったのだけど、水ですすぐだけでもおおまかな汚れは落ちますでしょうから、きちんと洗濯した靴下には汚れはついていないのか。そうか?そんなことあるか?なぜならうす汚なくみえる。しかし清潔と清潔感はちがうからうす汚ないだけで清潔なのか?

さて。

昔の物語には血の気をうしなった顔(色)のことを「紙のように蒼白」とか「紙のように蒼ざめ」などとたとえられるときがあり、なるほど紙は。あおいくらいに白くみえるときがあるし、漂白して乾く前の靴下も真っ白すぎてシアンがかって見えた。しかしぜったい。青い靴下は白い靴下にはならない。漂白してもそれは白ではない。汚れや色素がどうなってもそれは青い靴下だし、白い靴下とはまったくちがう。そもそもちがう。青空文庫にある「走れメロス」を読むまで「走れメロス」を読めたことがなかった。読めなかった理由のほとんどは、ほとんどの「走れメロス」がたてがきだったから。たてがき?上から下にすすんで横に移動する文章はたてがき?それを読むのがうまくない。左から右にすすんで下に移動する文章を読むことにこまることはすくないけど日本語しか読めない。そもそもちがうしいろいろちがうしなにもかもちがう。青い靴下の人々に腹を立ててると書きたかった。本当は。腹を立てるようなことではなかった。わからなくなった。

なかま

海外出張から帰ってきた人が定番のはなしをしたのが聞くに耐えなかったと家人が言ったことがあり、20年とか以前のはなしですけど。そして家人は耐えたのですけど。はてそれはどんなはなしかとたずねた。外国に滞在中。二週間とか。生水と生ものをさけていたため腹をこわすことがなかったが、さいごのさいごに【ココ】帰りのドコソコでナニナニを食ったときのクラッシュアイスで腹をこわしたという語りだそうで、【ココ】のところで「もしかしてクラッシュアイスで腹こわすはなし?」と思うとのことで、なんにんもからなんどもきいたことがあるはなしだということ。へえ生まれてはじめてきいたわいとわたし。本当によくきくはなしで、おもしろくないし本当かどうかもあやしいと家人は言うのです。

 

口淫してたら違和感あってよく見たら【ココ】相手の肛門からなんか出ててひっぱったら糸こんにゃく(もしくはエノキダケ)で、すき焼きとか鍋物とか食べたんだなと思った(またはたずねた)というはなしをなんにんもからなんどもきいたことがある。【ココ】のところでうんざりする気持ちになるよねと家人に言った。20年くらい前。まったくはじめてきくはなしだとおどろかれ、それにこちらもおどろいた。

 

「住む世界がちがう」とか「人種がちがう」とか。お互いそんな感じだったかもしれないし、今もそうかもしれない。「住む世界」や「人種」はよくわからないが、30年くらいいっしょにくらしていて、1日1回は食事もいっしょにする。生まれ育った環境はそれなりにちがうと思うけど、お互いの年齢も親の年齢も似たような感じで、日本で生まれ育って日本で老化してる。なにが言いたいのだろう。なにを書きのこそうとしたのだろう。わからなくなった。「なかま」のことについてのなにか。わからなくなってしまった。

なかま

しばらく以前。患者としてではなく病院に通ったことがあって、被介護者の介護者としてそれの精神科に通院していた。待合スペースにいるとはなしかけられることがしばしばあり、スポーツのゲーム結果がどうとか都会の商業施設がどうとか担当医の卒業した大学がどうとか。興味のもちにくいような詳細が気にならないようなはなしが多く。まるで美容師さんやタクシードライバーさん、近隣住民や親戚がするようなはなしのようでした。

阿倍野にでかいビルできるらしいと伝えたら「またほかの患者さんにはなしかけられたん?」と言って母は笑顔で。「あんたのことなかまやおもてんやわ(あなたのことをなかまと思っているのだろう)」とつづけた。5年とか10年とか経過してることだがずっと。母はなにを言いたかったのか、わたしはなにを言われているのかわからないでいたのだがふと。母はわたしをなかまではないと言いたかったのではないかと思った。

ヒトとか人とか人間とかのこと。←それがなにかだいたいわからない。自分と誰かがちがっていることを「住む世界がちがう」とか「人種がちがう」などと表現することがあると思うが、ないかも。あるとして。自分と誰かを自分のグループと誰かのグループにわけてるということで、おおむねおそらく自分のグループのほうが大きかったり強かったりするのではないか。ですからすなわち自分をメジャーとかマジョリティとかと設定してるのではないかと思った。

 

笑いのツボがおなじ人とは、おなじようなことで笑う人であるしおなじようなことで笑えなくなる人であろう。半世紀以上生きた。笑うようなできごとは多くあるが10代のときに笑っていたことや30代のときに笑っていたことのどれだけかについて笑えなくなっている。自分自身の経年変化でまるで別人のようになっている。当時と「住む世界がちがう」のはそうかもしれないし「人種がちがう」かについてはさっぱりわからない。人種がなにかわからなくなって数年経つけど、そもそもわかっていなかっただろうけどとりとめなく人種を感じていた。来月。カンガルーはヒトですと科学者が発表したとしたときすんなり対応できるか不安だ。トコジラミはシラミ(目)ではないときいたときはああそうなんですねとすんなり思ったのだけど、それはたぶんヒトでないからと思う。

死んだ人と死んでない人々

「地デジ」は「チデジ」とよむのでしょうが母がぜったい「ジデジ」と発音するのだけど「ヂデジ」かもしれない。

多い数の人々がひとつの事象で死んだときに、なんかぼわっと全体みたいにとらえることになってしまうかもしれないのでとても注意しないといけないと思っていて「ひとつの事象」ですらひとつ事象でないということで、それは。「オカンて「DVD」のことぜったい「ディーブイ」て言う」という本当にあったそうとうくだらないことがひとりひとりにあったということが生きていたということではないかと思って、のこされた人。遺族とか友人とかの人がどんな気持ちや気分でいるのかそんなことしてなにもならんのに心配してしまう。わたしの母などが死んだはなしではないです。オカン生きてる。

たったひとりで生死することはないのだからそれはおそらくひとりひとりにあった、まいあさ駅前でみかけるくらいのだれも感動も感激もしないことがあったことそのものが大切とか重要とか思う。多い数のたとえば。作品をのこしたとか任期をつとめたとか、それがその人の人生の大半にそうだとしても一部でそうだとしても、人は創作物や現象ではなく、たとえば。まったくクズみたいな人のカスみたいな人生でも。自販機のおつりとるときギックリ腰になって往生したというはなしを自販機のおつりとるたびに言うみたいなまったくどうでもええみたいなことをだれかが知ってるということが人生で、生後10日でも10年でも100年でもそのあいだにした。あった。なにかをだれかが知ってるということ。

近隣でくらす人のペットのイヌがラブラドール・レトリバーで、クール宅急便の人にだけほえるのを近所の人々は知ってるということ。その他クロネコサガワゆうパックにはほえへんのに。イヌも生きてる。マイアサウラとか会社経営者とかのざっくりぼわっと考えることとそうでないことがあって、生きてる人が死んだときに大きいことが小さくなったり、小さいことが大きくなったりするようにみえて、そうだけど死んだ人は被災者とかアニメーターとかではないとさけびたくなる人がいるのではないかと心配になる。そんで心配してもなにもならない。

故人に口なし

有名とか著名とか高名とかの人が死んだあと。故人と親しくなかったという文章を目にすることがあって、自分なりにまじめにしっかりよむとたいがいいつも。そんなことない。どうよんでもあなたは故人と親しかった。故人はあなたと親しかったと思ってただろうにつき放すようなこというな。などと思っていた。もっというと。いえ。いわない。さいきん。昨年末。あれ?なんかちがうかもと思いました。まじめにしっかりよんで、どうよんでも「あなた」と故人は親しかったでしょう?と思ったのは、「あなた」は故人と親しかったからだし、「あなた」は故人と親しかったことを書いたからだと思いなおした。ちょっとわけがわからなくなってきた。

人に。生きてる人や死んだ人に、あなたとわたしは親しいあいだがらかとたずねても本当のことはわからない。「親しい」はたぶんおそらく。ちがうかもしれないけど客観で、「親しくなかった」ということは客観的にはそうかもしれないがということで、「あなた」は故人におもいがあったということを書いたのではないかと思って、むかしばなしですが。警察官とか教師とか保護者とかに「親しい付き合いやった?」とたずねられたとき、はあ?なんなん?て文字がみえてた気がする。空中かどっか。脳裏とか眼前とかに「はあ?なんなん?」てうかんだやつみえてた。自分のデコにうきあがった「はあ?なんなん?」て文字が相手にぶつかってかえってきたやつみえてたのかもしれない。はあ?なんなん?好きやったよ。好きやった。自分が。いまも好きやし。だからなんなん?相手はしらんよ。相手のことはわからんよ。

人のこと一生わからないのはとんでもないできごとでおそろしい。生きててもわからないのだろうけど、わからないまま生きていくのはなんかそれはそうだろうしふつうのことかもしれないからまあしょうがないのかもと思えるけど、死んだ人のことはもう絶対に確実に一生わからないかもしれなくて恐怖だ。生きてる人が死ぬのもふつうのことなのだろうが。

 

親しい→「したしい」と思って書いた。「ちかしい」でもかまわんが「したしい」と書いたつもり。

無冠の友

掃除とか洗浄とか排出とか修理とか用に新聞紙(古新聞)がほしいときがあるが、めっぽう手に入れにくくなった。「聖教新聞でよかったらあるけど?」といわれてどういう態度をとればよいのかわからない。なんとかかんとか手に入れた聖教新聞はおなじ日付のものが2部ずつたたまれていて、ときに公明新聞もあった。購読というより購入という感じがした。「積読(つんどく)」みたいに「買っ読(かっとく)」みたいなことばがあるのかもしれない。読まん読(よまんとく)。

姫さま願望

人質だったか従者だったか 5人えらばなければならなくなったときのリストをつくっていて、二階俊博麻生太郎衛藤征士郎谷川弥一さん、小沢一郎だったのですけど谷川弥一さんがどうやら全国民の代表の身分でなくなったぽいのではずさなければならなくなった。二階俊博麻生太郎衛藤征士郎小沢一郎、エサキテツマ(江﨑鐵磨)の 5人が、わたしが姫さまになったときの人質だか従者だかです。