2012-02-19
格好良くなくても美しいこと
大切にする、という考え方は古くて新しいものだ。そして、こいつはおもしろいことに伝染する。
九州に出張したとき、ちょっと必要があって特急に乗った。シートは革張りだった。これは、と思って少し驚いたけれど、前に見たある記事を思い出した。
とにかく不良が多い町らしく、最初は革張りのシートなんて傷つけられるって大反対だったんですが、とにかくやってみましょうよということで作りました。結果的にはとても綺麗につかわれています。子供達はずっと賢くて、大人達が本気でつくったものには傷つけません。俺たちの町にこんなすごいものがあるって思ってくれるのです。プラスチックで作ったりするから傷つけたりするんですね。(地球大学クリエイティブ 第3回 水戸岡鋭治「旅の経験をデザインする」 | TAMALOG)
それで、連想するのはこういう話。
人間は「豊かなものをたくさん使うこと」は"格好よく"、「不足しているものを大切にすること」は"美しい"と感じる(堺屋太一)
田舎に帰ったりすると、おばあちゃんの暮らしが垣間見える。気になるのは、100均で売っているような、カラフルな、プラスチックの安い雑貨をボロボロになるまで使っていること。ボロボロなのは、手荒に扱っているからではない。もう、いつ買ったんだかわからないようなその雑貨を、丁寧に、大切にずっと使っている。真似できないなと思うとともに、作る人は大切に使われ続けることを考えもしなかっただろう、という複雑な気分になる。
本当に昔であれば、人は身の回りの物を自分の手で作っていただろう。いまは、ほとんどのものを誰かから買っていて、その作る姿を目にすることは少ない。
自分で作った、もしくは組み立てた物は他の人の手による物よりも大事にするという「IKEA効果」なるものがあるそうだ。自分で作った物はよりスキルの高い専門家が作った物と同じくらいの価値を持つようになるとのこと。(自分で作ったものは他の人が作ったものよりも大事にする「IKEA効果」 | スラッシュドット・ジャパン idle)
ちょっと前に、おおざっぱにナチュラル系とか森ガール系とか呼ばれるファッション・インテリアに注目したことがあった。その特徴のひとつに、「刺繍」や「型押し」というデザイン手法がある。これらはいずれも、少し懐かしさを感じるものだ。そして重要なことは、私たちはそれを見て「これは大切に作られたものだ」ということを感じ取ることができるということである。時間をかけて丁寧に作られているかどうかは、ある範囲のものであれば我々は直感的に感じ取ることができる。
冒頭の堺屋氏の言葉を借りるなら、これからは格好良い時代ではなく、美しい時代ということになるのではないかと思う。それは言い換えるなら、物事を大切にするということだ。そして、はじめにやるべきことは、作る側の人たちがそれを本気で丁寧に大切に作るということ。そして、使う側の人たちは自分も制作の過程にどこかで参加すること。
ものを大切にするということには不思議な快感がある。これからは、「これは大切に作られています」ということをまず伝えることから始めたらどうだろう。それはおそらく、「これはよそより優れています」ということとは異なる種類の情報になるはずだ。
2012-01-20
アイデアの良し悪しは何で決まるか
アイデアのすごさ度合いというのは、差分で表現される。差分は、「?」と「!」で表現される。最初に「?」と思った量と、そのあと「!」と思った量の合計が、アイデアのすごさ。
なんらかのアイデアを求めている人というのは、アイデアの中身が具体的に浮かんでいるわけではない。ただ、どのくらい「?」と「!」を感じたいか、ということだけが決まっている。
もっと簡単にいうと、どのくらい驚いて、どのくらい納得したいかということだけが決まっている。
わたしたちがアイデアを目の前にしたときに、これはいまいちだとか、これはいいだとか判断できるのはなぜだろう。それは、求める「驚きと納得の量」だけが事前に自分の中で決まっているからである。決して、アイデア自体がすでに思いついているわけではない(だったら、それを表現すればいいだけだ)。
無自覚な人は、アイデアを目の前に見せられると、自分もそう思っていたんだよ、というような顔つきをする。実際にその人が思っていたのは、「どのくらい驚いて納得したいか量」であって、その「驚き納得量」の幅が、アイデアでもたらされた驚き納得量と一致したことを誤解して、まるで自分が思っていたことなのだと錯覚してしまっている。アイデア自体が一致しているのではない、幅が一致しているだけだ。
アイデアを求めているように見えるお客さんを目の当たりにしたときには、気をつけなければいけない。彼らの中にアイデアがあって、それを忠実に実現したいのか。それともアイデアはなくて、驚き納得量だけが決まっているのか。「やりたいことはあるんだけど」という顔つき自体は同じに見えるので、ついつい間違えてしまう。驚き納得量だけ持っている人にいくら聞き込みをしたところで、アイデアにつながることは出てこない。
2012-01-06
「構え」の使いこなし
無難なおしゃれをしている人はどうも信用ならない。なんかさわやかだけど、本当にその服を着たくて着ているのか。没個性的だし、そんなに周りに溶けこむことが大切なのか。鼻につく。もちろん自分だってそこまで目立つ格好をしているわけではないけど、自分の好きな服を着ている。こう、考えていた。
ところが仕事の事情で、ビジネスカジュアルと呼ばれる服を大量に買う必要が出てしまった。こいつは、男性社会人における「ザ・無難な格好」。スーツスタイルをカジュアルにしたようなもので、大都市ならどこにでもあるようなセレクトショップの服というのを基本パーツにしている。自分の考えとはかなり距離があった。
今の自分の考えはこう。ファッションというのは自分のためだけではなく、見られるのだから他人のためでもある。とくに女性の目を意識した場合、女性は男性に清潔感を求める。女性は怖さ、汚さ、だらしなさ、自立のなさを嫌う。なぜなら、これらの要素は子孫を残すにあたって自分をリスクに晒すものだから。そして自分のことを鑑みるに、特別なルックスをしていないのだから普通のファッションが似合うのだ。個性や自己主張など意識的にしなくても、自然と出てくるものだろう。
なんという思考の転換。もしかして、自分は進化しているのか。
それは違う。単に自分の「構え」が変わっただけだ。自分の主義主張に見えるものは、今の自分を肯定するための屁理屈にすぎない。生きたとおりに考えるな、考えたとおりに生きよ。実際のところなかなかそううまく行かない。生きたとおりに、「構え」を曲げていっている。
自分が子供の頃には体罰もあった。厳しい理不尽な部活もあった。過ぎた今ではいい思い出、そういう気持ちは正直ある。終わりよければすべてよし、いまこうしてそれなりに大人として生活しているのだから。でもそれは違う。結論に合わせて主義主張を曲げているだけだ。そういう「構え」を後から作ってしまっている。
もともとパソコンではThinkpadが大好きだった。機能を重視して、質実剛健であること。パソコンは目的のある知的作業に使うものだから、その際の道具には哲学がなければいけない。しかしこの前、お金がどうしても足りなくて、安いパソコンも検討した。「これでいいじゃん。」構えが変わった瞬間。そのあと自分の口からどんな言葉が出てくるかは予測がつく。「いまのパソコンはしょせん道具。合理的に検討して、パフォーマンスがいいものを選ぶべき。」構えが変わったなら、どんな理屈でも構成できてしまう。理屈が後からやってくる。そしていつのまにか、生まれた頃からそうであったかのような顔をする。
ブランドスイッチとは、このようにして起きるのだろう。いかにも考えてスイッチしたかのように見えるけれど、実際のところはちょっとお金が足りなかったからだとか、周りに流されてしまっただとか、ちょっと思い直してみただとか、単に選択肢として忘れていただけだとか。構えが決まってから理屈がついてくる。でもそんなことは周りに言えない。実際のところ、そうやって構えが変わったことさえ本人が気づいていないものだから、周りも騙されてしまう。
「構え」をうまく使いこなす人は、自分のなりたい「構え」を最初に決めてしまって、それを強烈に信じこむ。そうすると行動に影響してくるから、それで夢がかなうという仕組み。引き寄せの法則とかいうのも、そういうことかもしれない。考えたとおりに生きているといえば、生きている。「構え」をうまく使いこなせないと、自分がそれに振り回される。
説得が上手い人は、相手を最後まで追い詰めない。あと一歩の所で、相手に新しい「構え」を用意する。ジゴロは、女性に「強引だったから…」という言い訳を用意するために、わざと自らをならず者に仕立てる。そんな印象に近い。
「構え」を自在に使いこなす人は、ほんとうに自由な人だと思う。しかし、ちょっと恐ろしい。
2011-09-22
因果の逆転、アジャイル、小さく回すこと
うれしいから笑うのではなく、笑うからうれしく感じるのだ・・・こういう話が大好きだ。あたりまえだと考えていた因果関係が逆転する。意外な驚きがあって、そのあと納得する。どこかで「自然は因果に関心を持たない」という表現を見た気がするけれど、因果関係は人間の解釈にすぎないのだというふうに考えると、いろいろとおもしろいことを発見できたりする。
因果といえば、仕事まわりで気になった因果の転回があった。
こういう人がターゲットだと想定して広告を送るのではなく、反応する人がターゲットなのだ。この考え方はおそらく「広告をつくる」とか「プランニングする」という作業の意味を劇的に変えてしまうと思う。(ペイドメディア 〜その「手売り」する価値〜 - 業界人間ベム)
ブログを書いている人なら自然に納得できる論だと思う。書き続けていると、自分が書いている内容に興味がある人が寄ってくる。無理に読者を広げようと思って煽ったり無理のあることを書いたりするとそれなりに変な人も寄ってくる。ターゲットを決めてから投下するのではない。書いた内容によって、それに興味がある人が寄ってくる。出すと寄ってくる、それがメディアの特徴だと思う。
最近は似たような切り口で、MBAの話を聞いた。MBAに行って得られるものは、知識のようにも思えるが、それ以上に知り合いだという。要するに、MBAに行けばMBAに来るような人と知り合いになれるということだ。当然のように思えるけれど、これもメディアの話と同じように捉えることもできる。学校運営側からすれば、「学校を作ることで、それに興味がある人が寄ってくる」と表現することもできる。
商品開発業務においては、途中で「プロトタイピング」ということを行う。これは、まだ仕様が決まっていない段階で、木や段ボール、発泡スチロールなどといった素材を作って思うがままに手を動かし、モノを作ってみることだ。ここでひとつ、大切なことは、「頭の中にあるイメージを実際に作るのではない」ということ。適当に手を動かして組み合わせていくことによって、発見が生まれる。「考えて作るのではなく、作ることによって考える」のだ。
ブログを書くことだって同じだ。思いついたから書くのではない。書くと決めているから思いつく(正確には、ネタを無意識に探すようになる)のだ。出そうとすると、出すべきものが向こうから寄ってくる。因果関係の逆転。
でも実際、因果関係、あるいはその逆転に見えるものは、ぐるぐる回っている全体の一部を指しているにすぎないことも多い。あるメディアを作ると、その内容に興味がある人が寄ってくる。それに対応した内容にする。そうするとまたそれに興味のある人が・・・という連環がある。実際は、このような、試行錯誤にも似たプロセスを経ながらものごとは洗練されていくのだろう。なにが正解かわかっていないような状況では、このようなプロセスが大切になる。
ぐるぐる回る運用に関しては、どうも大切なことがあるようだ。それは、小さく行うこと。何かを試して、それで結果がでて、それを受けてまた試す。これを何回も繰り返すためには、コストも時間もかかる。だからこそ、できるだけ小さく始めなければいけない。ウェブのスタートアップでよく言われる「アジャイル」とか「小さく始めよ」ということは、そのことを示唆しているのだろう。
プランニングというものがアジャイルになる、つまり因果を逆転させたり、なんども試しながら、小さく素早く回していくべきものになる・・・ということはどうやら間違いない。個人レベルでいうなら、腰が軽くて、なんでも手早く手を出して繰り返して洗練させてしまう人の時代。プランナーの新しい姿というのが見えてきたように思う。
2011-07-31
恐怖メーター
もしもドラえもんが(神龍でもいいけど)あらわれて、好きなものを一つだけくれるとしたら何がいいだろうか。自分のためのことならいくらでも思いつくけど、そこで条件が一つ。「みんなのためになるものでなければいけない」、こうなると難しい。
ひとつアイデアがある。「恐怖メーター」。これを手に入れると、恐怖を感じたときに反応する。人類全員に配ると、これはなかなかおもしろいことになるんじゃないかと思う。
恐怖というのは、人類にとってたぶんもっとも根源的な反応だと思う。と同時に、もっとも自覚しづらく、かつ読み取りづらいものだ。こいつが可視化されたら、きっとおもしろいことになるし、なにかと円滑に回ったりするのではないか。
「若者の○○離れ」を叫んでいるおじさんがいる。ここで恐怖メーター。いい数字が出そうだ。だいたい、怒っている人というのは怖がっていることが多い。しかも、怖がっていることを自覚していない。本人が気づく前に、防衛本能が働き、しかも理屈もしっかりしているものだから、単に怖がっているだけだということに誰も気づかない。試しに「怖いんでしょ?」と言ってみよう。絶対に(もっと)怒り出す。図星だからだ。
叱られたとき。そっと恐怖メーターで測定してみる。叱った人が怖がっているだけなのか、本当にこちらのことを思って諭しているのか判定できる。何気ない会話のとき。自分の恐怖メーターが一瞬、振れる。かすかに感じた恐怖の気持ちをつかまえることで、自分が何を恐れているのかがわかってくる。仕事にも使えそうだ。新商品が顧客に否定されたとき。恐怖メーターが振れていれば、彼は何かを怖がっているのだ。もしかすると、旧商品のやり方をやっとマスターしたのに、またゼロからやり直すハメになることを恐れているのかもしれない。
恐怖にどう立ち向かうかというのは普遍的な課題だ。勇気があれば賞賛される。リスクを取って挑戦する人だって、怖いという気持ちはあるだろう。恐怖をどう克服するのか。聞いたことがあるのは、「恐怖は排除できない」ということ。本能である恐怖心を、取り除くことはできない。よしんば取り除くことが物理的に可能になったとして、その人は長生きできないだろう。痛みを感じることができない人の話を聞いたことがあるけれど、危険を察知できないから、カラダがぼろぼろになってしまうのだという。恐怖の場合もそれに近い結論が待っているだろう。
恐怖に立ち向かうたったひとつの方法は、自分が怖がっているということを自覚することらしい。自分は怖いのだと自覚し、それに冷静に対処すること。いったん意識化された恐怖は、自分から切り離されて対処すべき事柄になる。これが無自覚であると、怒りに転化したり、無自覚に足がすくんでいたりして、思うに任せぬ行動となってしまう。
正直で素直な人は伸びる印象があり、プライドだけ高いとダメだと言われる。このことにはふたつの側面があるのだろう。目上の人から見て、相手が正直で素直なら恐怖を与えてこない。逆にプライドが高ければ攻撃的に見えて、目上の人から見ても「怖い」のだ。もうひとつの側面は彼自身の問題。正直で素直な人は自分の恐怖を自覚できる(相手にも伝えられる)のだ。プライドが高いとそうはいかない。相手に恐怖を伝える前にフィルターをかけてしまうし、何より自分自身が恐れていることに気づかない。
恐怖メーター、そのうち発明されないだろうか。自分の恐怖が測定されるのだと思うと、少し微妙な気分にはなるけれども。
2011-07-30
消費と投資が紙一重
家族も自宅もない身ではあるけれど、最近、むしょうに別荘なるものが欲しくなっている。もともとTumblrというサービスで、世界中のキレイなインテリアを集めていたのだけど、せっかく集めたのだから自分もそういう空間を作ってみたいなあと思ったのがきっかけだ。こうなると夢が広がってきて、床はこうして、壁はこうしてと・・・別荘なのだから工事中でも帰れなくて困ることもないし、お手製サグラダ・ファミリアをやってやろうという気分になってくる。
それで、自分の予算にはまるくらいの激安な物件を見に、ちょっと田舎に行ってきた。70〜80年代くらいに開発された別荘地は、今や持ち主も高齢化して、出入りも少なくじゃっかん寂れてしまっている。管理している人も、自分みたいな比較的若い人が新陳代謝を起こしてくれることを期待しているようだ。別荘アイデアは悪くない。
見て回っていて気になったのは、「別荘おじさん」の存在である。古くなった別荘を安く買い取って、センスを生かしてキレイにリフォームして販売につなげている人がいるらしい。あくまで個人の趣味の範疇であり、どのくらい儲かっているか知らないけれど、趣味と実益が兼ねられているようでおもしろいなあ、と思って帰ってきた。
話は飛ぶけれど、優雅な奥さんなんかは家で何をしているのかというのを予備軍の女性に聞いて回ってみたら、習い事などをたしなむらしい。お茶、着付け、料理など。お金を使って習い事とは優雅なるかな、自分には縁のない世界だと思っていたが、ある程度まできわめてしまえば自分の教室を開けることにもつながるわけで、ううむ単なる無駄でもなさそうだと思う。
消費というものと投資というものは遠いところにあるようで、意外と近いところにある。好きなことを仕事にする!と力強く意気込まなくても、自分がお金を使っていることを、いつかお金になるようになんとなくつなげておくというのは悪いアイデアじゃない。ラーメンが好きで食べ歩いているなら、ラーメン評論家、ひいてはいつかのラーメン屋開業というふうにつなげておくのも悪くない。せいぜいノートを作ったり、家で味を再現するのにトライする位で十分だ。あとは店の立地や、内装などを参考にメモしていくくらいだろう。これだけで消費は投資につながってくる。
消費者、という言葉にはうさんくさいところがある。分業の中の消費を受け持つ人、という切り分け方で見てしまうと、消費以前にある文脈を見失ってしまうし(とつぜん店頭に現れて買った後消滅してしまう存在ではない)、消費自体にも何らかの投資という側面があったりする。消費だけしてればいいんでしょというような役割を押しつけられるのも腹立たしい。
逆に、投資に思えるものをむりやり消費にしてしまうという手もある。英語を学びに行くのであればそこでの出会いを楽しめるようにしてしまえばいいし、子供を産み育てるのだってなんらかのエンターテイメントに切り替えられる(誰もがやっていることだろうが)。消費は投資につなげられるし、投資は消費的に楽しめるはずだ。
ただなんとなく、お金を使って楽しみを得ているだけ。それは実にもったいない。貧乏くさいと言われるかもしれないけど、それはいつかの飯の種になるはずだし、それに全くつながらない貧弱な消費であれば、思い切って切り捨ててしまうくらいがちょうどいい。なにかと消費に後ろめたさが生まれがちな時代においては、投資であると開き直ることがいい精神安定剤になるのかもしれない。
2011-07-27
NPO、職人、地元、専業主婦
NPOという概念がよくわからない。定義は調べたのでわかるし、知人にNPOな人が現れたり仕事でNPOの人と一緒になったりしているから、まったくわからないわけではない。しかし何か、腑に落ちないところがある。彼らの根っこにあるものはなんだろう。正しいことがわからない時代だから、基本的な善を目指しているんだというような説明を聞いたことがある。
数年前に、若者が職人に憧れるという話をよく目にした。将来が不安な世代だから、手に職をつけることが大切で、その象徴として職人が尊敬されるのだと、そのときは説明がついていた。いまでは、そのような分析はすこし違うのではないかというふうに思う。
で、最近の若者つながりでいうと、地元志向というのが強まっているらしい。MixiやFacebookというSNSツールは、そのときどきの「学級クラス(および、そのなかの仲良し集団)」をライブなまま保存してくれる役割があるのだという。なるほど、納得できる説明だが、これも自分は背景の説明としては十分でないのではないかと感じる。
さらに女性に目を向けると、専業主婦になりたいという考えが今の女の子には増えてきているのだという。高学歴であっても、いわゆるキャリアウーマンを目指さず、お嫁さんになりたい・・・というような考え方をするんだとか。これをジェンダー論の枠組みとか、上に出てきた不景気の影響とか、上の世代が負け組キャリアウーマンとなってしまったからだとかいうけど、これも腑に落ちない。
なんというか、「見届けたい」みたいな気持ちがあるんじゃないだろうか。始まりから終わりまで、おはようからおやすみまで、自分が手をかけたものを見届けたいという気持ち。難しくいうなら全体性への回帰。いくらスケールがでっかくても、歯車は嫌だよと。見届けられるくらいのスケールがいいのだと。自分が小さく見えるのが嫌だというわけではなくて、空中に銃をぶっぱなして、いつどこで爆発しているんだか、当たってるんだか当たってないんだかわからないみたいなのは嫌だよという。ある種の手応えを求めている。
これはグローバリズムと対峙する概念だ。グローバリズムの根っこにあるのは「もっと」であり、そのために「テコ使って再生産」をする。レバレッジして、ある考えを効率よく再生産して、コストを下げて、最小の努力で最大の結果を出すためにグローバル分業をして、・・・この先はよくわからないけど、でっかい家やいいクルマを買ったりするのだろうか。いずれにせよ、トップ側にいる人は個人では使い切れないほどの名声とお金を手に入れて、ピラミッドの下層で働く人はパーツになる。
いつの時代でも若者は(上世代から叩かれつつも)全肯定されるべきだと思っているけど、今の若者は本当にすごい。ビジョナリーだとしか言いようがない。モノばかりあふれてきたけど幸福はつかめていないとか90年のバブル前後に言われていた限界を突破してしまっている。ココロの豊かさだとか昔の日本人がどうだとか、抽象的で腑に落ちない議論を一気に飛び越えて、見届けることによる手応えこそが本質的な豊かさなのだと体現している。素晴らしい。
自分もはやく、見届け系への衣替えをはじめないといけないのかもしれない。
2011-06-12
No more "more"
自分が愛した商品なりブランドなりが、いつのまにか変節してしまって気に入らないものになってしまうことがある。多くの人に好かれるようになったはいいけれど、なんだかわけのわからないものになったり。そのあと、生き続けてくれればいいけれど、飽きっぽい大勢の人たちにつかまって振り回されたあげく、見るも無残な姿になることもある。
提供する人たちの視界には、きっと別のものがうつっているのだろう。前年比105%を達成しなければいけない。類似した競合品が出てきた。固定ファンはいいけれど、新規ユーザーが入ってこない。店頭をテコ入れしなければいけない。確立したブランドがあるから、これをベースに商品ラインを広げていこう、など。どれもよくわかる。
グループの大きさには閾値がある。たとえば企業の部署なんかだと、20人あたりを超えてきたあたりから制御が難しくなり、部員同士の相互作用が鈍くなってくる。会社レベルでいうと、150人あたりに一つのラインがあるらしく、そこを超えると全員の顔と名前をわからない状態になってきて、あうんの呼吸を前提とした運用が通じなくなる。この背景には、ひとりひとりの認知の限界、記憶力の限界がある。
程度の問題、というのはすごく大切な視点だと思う。少ないのは困るけど、あればあるだけいいなんていうのはたいてい嘘だ。贅沢はいけないという精神論とは全く別に、必要以上にありすぎるといけないことがある。倫理とか道徳の問題ではない。人は貧しい時代を長く過ごしすぎたため、本能のプログラムにミスがあるだけだ。どのくらいだと多すぎるのか、という発想や知識がまだまだ少ない。
1000人ビジネスモデルというのを考えることがある。「1000人に愛されることを目的とする」仕事のやりかた。顧客の顔と名前が浮かべられる程度のビジネス。1000人に愛されればそれでいい。大切なことは、1万人だとだめだということ。10万人などもってのほか、100万人なんてとんでもない。
千人の忠実なファン、という概念はすでにあるようだ。
忠実なファンとは、あなたが制作するものを何でも買う、1年間に少なくとも50ドルほどの金額をあなたに関するものに使う、あなたのショーやサイン会には全部行くという人である。独立したアーティストがこのようなファンと直接に取引して、ファンが支払った金額の大部分を手に入れるならば(出版社やレーベルやスタジオや画廊などを通じた取引とは違って)、理論上では、たった千人のファンがいれば、5万ドルの生活費が得られる計算になる。(「千人の忠実なファンのスターたち」: 七左衛門のメモ帳 )
何百年と残る老舗には、上限の視点が必ずある。旅館や和菓子屋などは、顧客の数が自然と限られる。高級品もそうだ。これらの業態に老舗が多いのは偶然ではない。顧客の上限が決まってしまっているからだ。そして、彼らも無意識に上限を決めている。彼らは「More」なんて言わない。桃屋の「食べるラー油」は大ヒット商品だが、流行は終わるものなのだということから、桃屋はこれを増産しないという。スープストックトーキョーは、必要な数以上に店舗を増やさない。どこにでもあるわけではないが、何店舗か見たことがある、程度。
すばらしいものを作った人が、「自分がほしいものを作っただけ」という。ものつくりのアドバイスに「家族や親しい人のことを思い浮かべて作れ」というものがある。1000人の発想もこれに近い。顧客の顔と名前がうかぶレベルのビジネス。ぬくもりを大切にしたいとかそういうことではない。これは合理的な発想なのだと思う。1000人だったら、お客さんのイメージが拡散しない。ある像を結ぶことができる。結ぶことができるから、その強度を上げることができる。だから、続く。だから、ブランドが確立する。
増やせないではなく増やさない。「More」と言わない。「もういい、もうやめろ」と言う。理由として、ぬくもりだとか禁欲だとかを持ち出さない。合理的に判断する。とても難しい判断だと思う。その確固たる意志というのは、しかしお客さんから見れば、これ以上ない頼もしさに違いない。
2011-05-12
賢さのオルタナティブ
私の周りに、社会人として留学する人たちがたくさんいる。ところが自分は勉強をしたいという気分にならない。向学心が足りない。
誰もがそう考える程度に、私も賢くなりたいとは感じている。ところが勉強するとなると気が乗らない。嫌だというイメージより、どうもピンとこない。自分のなかにある賢さのイメージと勉強のイメージがつながらない。
ある文豪が娘に掃除のやり方を教えた話を思い出す。文豪は、明確な掃除の「型」を持っている。娘に掃き掃除などさせると、動きに無駄が多い。娘自身にとっては自然な動きであろうが、父親が手本を見せると、なるほど無駄が多いという話。
娘はいつしか掃除の「型」を覚えて、意識しなくても型どおりにできるようになるだろう。この型どおりにできるようになる、というところが一般的な勉強のイメージだろう。この勉強のイメージがピンとこないのだ。どちらかというと重要なのは、自分にとっての自然な動きが、型を示されることによって不自然な動きであると娘が気づくことではないか。
学習理論家によると、私たちが何かを学ぶのは、意外なことが起きたときだけだという。
いわゆる勉強には、意外なことが起きるというイメージが浮かばない。ほぼ何も知らない白紙の状態が最初にあって、時間をかけて立派な理論をたたき込んでいくというイメージが浮かんでくるだけだ。白紙の状態にとってはどんな理論も意外ではないだろう。ありがたく拝聴するだけだ。
「意外なことを起こす」というのだけをたくさんやってみたい。自分が意識せずやっていることを意識するということだ。文字通り、意・外なこと、だ。
ある種の確信がある。自分にとっての賢さは、知らないことを知るようになることではない。すでにやっているのに自分で意識できていないことを意識してみるということだ。自分を無意識から引っ張り出して意識の目の下に晒す。そこで意識されたことは変化して、また無意識の世界に戻っていく。そのための外部刺激として「型」というものがあると便利だが、なくてもそれはできるはずだ。重要なのは自分を観察することだ。自分が意外に感じた小さな瞬間を、忘れずに拾い集めていくことだ。
ライフログには可能性を感じる。それは人類を賢くする装置としての可能性だ。忘れないためのメモ帳としての役割には期待しない。どうせ忘れてしまうようなことをとっておいてもらうことよりも、ログに残された過去の自分の意外さを、そのまま自分に突きつけてくることに期待する。意外であることに気づき、一歩賢くなること。そのとき道筋は十人十色のはずだ。当然、賢さの目的地はひとつではない。
賢さのオルタナティブがここにあると思う。
2011-05-06
コントロール幻想
古武術系の人は呼吸法について、「カラダの本能的な動きのうち、唯一じぶんでコントロールできるのが呼吸なのです」という。だから、呼吸法に意味があるのだという。その言葉を聞いた当初は、よくわからなかった。
なにがコントロールできるのか、なにがコントロールできないのか。そういう観点で世の中を眺めた経験はそうない。そういう観点でみると、なにがわかるんだろうか。
社長の成功談で聞く類型のひとつとして、目標はコントロールできる形にしておかなければならない、というものがある。営業職の人に、○○円を売り上げろ、という目標は筋が良くない。売上金額というのは、営業職ひとりでコントロールできるものではないからだ。彼がコントロールできることは、何日間で何人と会う、とかそういうことだ。
テニスコーチのガルウェイはこう言う。「あなたの打ったボールはどのくらいの距離でアウトしている?」彼は、「ボールを枠内に入れろ」とは言わない。生徒がコントロールということを理解するための、重要なヒントを提供している。なにが今、コントロールできることなのか。コントロールするためには、何をわかっていないといけないのか。
コントロールに関する勘違いをなくすことで、生活はだいぶスムーズになるんじゃないかと思う。コントロールできないことについて直接考えない。コントロールの範疇にないものについて、コントロールの影を読み取らない。
われわれが何か悩んでいるとき、そこには自分がコントロールできないものが絡んでいることが多い。初心者が、ボールを枠内に入れようと悩んでも、その点についてのコントロールスキルはないのだから仕方がない。まずは、自分の行った行為が、どういうふうにズレを起こすのか。そこを知るところからだろう。
怒っている人がたくさんいる。他人に、悪意のある振る舞いをされて腹を立てている。たとえば、政治に腹を立てている。ほんとうに、それは悪意なのだろうか?相手は、そんなに状況をコントロールできるような力があるのだろうか?それは単に無知や無能なのではないだろうか?だとすれば、こちらはどのようにそれに対して、自分のコントロールの範囲で手を打つべきか?
どうも自然と、自分のこと、世の中のことに対して、人はコントロールを見いだしすぎるようだ。そんなにコントロールできることはないし、みんなもそんなにコントロールしていない。コントロールのできる範囲について、冷静に、独自のラインを見極められる人は、なんか"クール"だ。

