批評におけるエモとモエ

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動物的にエモッたり萌えたりすることと、近代教養主義的な読みとが一個人によって平気で適宜切り替えられることが起きてしまっていることが現代の凄いことなのだろう。 http://twitter.com/tricken/statuses/894971814

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これを単に「動物化とはエモッたり萌えたりしかできない読みだ」と、近代教養主義的な読みと排他関係にあるフレームとすると、おかしなことになる。 http://twitter.com/tricken/statuses/894974152

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モエやエモも面白い読みではある。しかしインテリな読みに特権的な価値は与えないけれど、やっぱりそっちも面白いわけだ。これをモエやエモと同列に奥のがポモ、高低を着けたがるとモダン。もっと言えば啓蒙主義的。 http://twitter.com/tricken/statuses/894977439

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問題は、萌えもエモも努力する必要無しにナチュラルに身についている無自覚なリテラシーだけど、インテリな読みとか批評的な読みとかは、努力して勉強したり色々面倒な手続きを経ないと習得できないということだ。その場合、努力してまでやるようなもんなの? という批判が当然出てくる。 http://twitter.com/tricken/statuses/895034813

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これに対して、努力して批評的な読みをする人は、「飽きないために大事」と言うことは出来る。しかし、「飽きたときはその文化が程度だったってことでしょう」とモエやエモは言って何ら問題はない。したがって、批評が必要だというのは、努力が必要な領域を擁護するインテリの欺瞞である可能性がある。 http://twitter.com/tricken/statuses/895035972

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つまり、あるジャンルを「文化」として引き受けたときに、そのコミュニティの発展などを考えた時に努力は価値を持つが、そのような文化への関わりを否定した場合は努力は否定される。個人は批評を持たずナチュラルに勝手に受容して、飽きたら捨てればよい。これは商業主義に限りなく近い。 http://twitter.com/tricken/statuses/895037300

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商業主義では、受容理論を獲得する努力などまったく必要ない。そういう結論が出やすいから、モエやエモな作品を平気で褒める批評は、偏狭な文芸批評家に対して評判が悪いのだろう。しかし、別に動物的な読みを許容することと、批評する努力の価値を否定することとはイコールではないのではないか。 http://twitter.com/tricken/statuses/895038692

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価値擁護をするときに、相手に消費者以上の努力を求めるのか/それとも個々人のナチュラルな(ある意味で好き勝手な)選好と、それを体現する商業主義に任せるのか。この辺が、批評の価値をめぐる社会的な問題としてありそうな気はしている。 http://twitter.com/tricken/statuses/895039766