2ペンスの希望

映画言論活動中です

Alice Guy

映画の始まりに、リュミエール兄弟の名は有名だ。映画史の冒頭には『工場の出口』や『ラ・シオタ駅への列車の到着』の記述が必ずのように並ぶ。しかし同じ時期、フランスで活動した女性監督がいたことは知らなかった。最近 読んだ本(『彼女たちのまなざし 日本映画の女性作家』【2023.12.フィルムアート社】)で知った。

アリス・ギィ Alice Guy (Alice Guy-Blaché とも

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映画界にも根強く巣食う男性優位のバイアス補正、知られざる女性監督の「復権」というわけだ。

記録映画の始まりはリュミエール兄弟、物語映画の開祖はジョルジュ・メリエス、‥そんな定説に新しい光を、という思い、分からぬ訳でもない。

けど、そんな上っ面の腑分けで事が済むわけでもなかろうに、とも思ってしまった。(フェミニズムにもジェンダーにも鈍くってゴメンなさい。けど 映画を作るのは“人間の仕事”ってことでいいんじゃない、男性でも女性でもなくってさ。)

1895年 リュミエール『水をかけられた散水夫』(『庭師と小さないたずらっ子』)


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1897年 メリエス『舞踏会のあとの入浴』


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コメディあり、ストリップあり、特撮やSFXだってあった。映画の黎明期は、もっともっと何でもあり・輻輳・未分化・混沌、‥きっと わくわくハラハラどきどき時代だった筈なのだ。

と ココでふと、十二年前、当ブログを始めたころの文章を思い出した。

(恥ずかしげもなく、再掲してみる。)

JLG×山田宏一 映画史定説転覆 - 2ペンスの希望

なんとまぁ、昔も今も あまり変わっていない。進歩がないというか、軸がぶれずに終始一貫というか‥‥嘆息。

 

『日本アニメーション映画クラシックス』

当ブログは基本アニメーションは扱わないようにしてやってきた。趣味じゃないし、知識も無い。それでも瀬尾光世政岡憲三、大藤信郎の映画は何本か見てきたし、感心もしてきた。

数日前、アニメーションに詳しい知人からこんなサイトがあるよと教えられた。

「昭和映画・昔の映画を眺めるつもりなら 是非 紹介してよ」と。

animation.filmarchives.jp

いやぁ驚いた。NFAJの仕事。充実のラインナップ。マジでスゴイ、手抜きなしの一級品。時間と余裕のある時に訪問されること おススメ。

デコとモリマ

デコとモリマ、そう 高峰秀子森雅之。その共演とくれば、真っ先に名前が浮かぶのは、『浮雲1955年だろう。他にも『あらくれ』1957年『女が階段を上がる時』1960年と成瀬映画が続く。では、これはどうだろう。

原作は林芙美子ならぬ太宰治(未完の絶筆)

脚本は水木洋子ならぬ小国英雄

監督は成瀬巳喜男ならぬ島耕二

撮影は玉井正夫ならぬ三村明

プロデューサーは、藤本真澄ならぬ青柳信雄

製作は東宝ならぬ東宝

完成尺は124分ならぬ69分

答えは、『女性操縦法 〝グッドバイ〟より

元々は、『グッドバイ』として1949年に製作され公開された。『浮雲』に先行すること5年余り、二人の初共演映画だ。原版が行方知れず、1960年10月に元の完成版99分から30分カットされ『女性操縦法 〝グッドバイ〟より』として改題縮尺版69分が劇場公開されたブコメの一編。近年何度か東京で上映されている。数年前に Happinetから『新東宝キネマノスタルジア』レーベルでDVDが出た。

アメリカ映画タッチの小国脚本と島耕二の達者な演出、デコちゃんとモリマの息の合った名(迷?)コンビぶりで、普通に楽しく肩の凝らないラブコメに仕上がっている。(東宝争議後の人間模様や、尺を短く刈り込んで新作のように仕立て直して三本立興行にするのが得策だと新東宝ではやたら作られたといった映画界事情も透けて見えてくる)そのPV=参考映像≠予告編がコレ ⇓

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そういえば、デコちゃんの『わたしの渡世日記』に、この映画の撮入前に太宰治と食事した場面が描かれている。

新橋駅に現れた太宰治のスタイルはヒドかった。
既にイッパイ入っているらしく、両手がブランブランと前後左右にゆれている。ダブダブのカーキ色の半袖シャツによれよれの半ズボン、素足にちびた下駄ばき。
広い額にバサリと髪が垂れさがり、へこんだ胸、細っこい手足、ヌウと鼻ののびた顔には彼特有のニヤニヤとしたテレ笑いが浮かんでいる…
‥‥(中略)‥‥
ドブから這いあがった野良犬の如く貧弱だった。

back to the past

ホントニもういい加減 新作偏重は辞めにしたらどうだろう。ガラクタが多すぎる。

それよりなにより山のように眠る旧作に分け入ってみる方がどれだけか健康的で精神衛生上も好ましいと思うのだが、いかが?

かのアロハ記者近藤康太郎は書いている。

書き言葉(エクリチュール テキスト)は、場を支配しない。出来ない。痩せ細ったもの。それが時が経つにつれて読者を獲得し、読み増しされて意味が付与され(時には誤読の種も孕みながら)太くなっていく【『三行で撃つ』2020.12. CCCメディアハウス 刊】

だよな。過去作は熟成し発酵し芳醇を撒く。

ん?おススメはですか?‥‥1920年代、30年代、40年代、50年代、西部劇、時代劇、ラブストーリー、ミュージカル、フィルムノワールヌーベルヴァーグ、‥なんでもござれ の 選り取り見取り‥‥綺羅星京都市中京区ふや町映画タウン辺りを当たってみて頂戴な。

dejan.dyndns.tv

九楊:正論不徳?

いささか訳ありで、石川九楊さんの本を立て続けに読んでいる。膨大な著作は四半世紀前からとびとびに読んできたが、今回は五冊。『石川九楊の行書入門 石川メソッドで30日基本完全マスター』【2010.11 芸術新聞社】石川九楊のほんとうに書がわかる九つの法則 書通九則 書ほど楽しいものはない』 【2019.7 芸術新聞社】河東碧梧桐 表現の永続革命』【2019.9 文藝春秋『俳句の臨界』【2022.2 左右社】『悪筆論』【2013.12 芸術新聞社 】いずれも九楊節、全開。余人を以っては代え難い技芸を発揮して飽きさせない。今日は最新作から 少々。

昭和の文学者十一人の書(の書きぶり)を俎上に、各人の文学(の核)に迫る九楊流の文学論考。表紙の背景を飾るのは中上健次の自筆原稿。副題「一枚の書は何を物語るか-書体と文体」の文字が白く浮かぶ。さらに 扉には 谷川雁のペン書き自筆詩集文字、久保田万太郎の色紙などが並び、ファン垂涎、サービス精神満載の一冊。

納得度100%、溜飲度100%、喝采度100%、と三拍子揃って、お見事としか言えない。舌を巻く芸達者。(全くの余談だが「八木俊樹」「東一条 春琴堂」「ナカニシヤ」‥‥懐かしい名前が幾つも出てくる。)

それにしても、だ。

映画批評の蓮實センセーといい、書の九楊さんといい、正論、マット―に本当のことしか言ってないようなのに、読後 気持ちよく癒やされないのは何故だか不思議。いや なに 御両人のオラオラ調に徳が感じられないのは心根の卑しい拙管理人=オラ一人だけなのかも....…知らんけど。

雑なるもの:再考(最高?)

常々 映画は猥雑なもの、夾雑物が混ざり発酵・発熱が起こる厄介もの・取り扱い注意物件だと思ってきた。ということで、雑なるもの:再考(最高?)。

テキストは、先回に続きロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書

彼は〈写真〉について「ステゥディウム:STUDIUM」と「プンクトゥム:PUNCTUM」という二つを挙げて 語る。

説明してみよう。( 独断も 偏見も混じるが 御海容 )

ステゥディウム:STUDIUM」とは、作者が意図したもの、記号化され掴み易く説明可能な要素、分かりやすく解釈し易い情報のたぐいだ。

対して、

プンクトゥム:PUNCTUM」は、分析不可・分解不能言語化できないもの、確かに映っているのに目に見えないもの、意識にのぼらない層を指す。偶然によって生まれるもので、写真を見たときに発生する(激しい)感情や感動をあらわす用語だ。

カメラを向けた先には、作り手の「企図・物語」を超えた「雑なる細部」が写り(映り)、見る者を突き刺す(ばかりか、時にあざをのこし、永らく胸をしめつける)というのがバルトの主張だ。「ステゥディウム:STUDIUM」をかき乱し破壊しにやってくるもの、それが「プンクトゥム:PUNCTUM」である。

そもそもラテン語由来のこの言葉、原義は「小さな点(を打つ)」。小さな穴、裂け目、刺し傷、鋭くとがった道具によって付けられた徴(しるし)といった意味を持つ。

言葉に還元するのをやめ、「ものそのもの」に向き合い、丸ごと受け止めることで見えてくるものを存分に感受し感応すること。それが、映画の愉快だ。

「雑なるもの:Mélange · baragouin · bric-à-brac · diverses · farrago · mélange · mélanger · méli-mélo · mélimélo · welter · Épice gériatrique · épice gériatrique 」≒「プンクトゥム:PUNCTUM」by Roland Barthes

 

雑なるものと純なるもの

何を今さらと言われそうだが、言葉は詰まるところ〈記号〉だ。それもかなり純度の高い。較べて、映像(画像)は、もっと雑。写真も映画も雑なるものが混入した表現物だ。そこで こんな図式を描いてみた。

【雑】の意義には、「いろいろなものが入りまじっている」「まじりけがある」「多くのものが統一なく集まっている」などが並ぶ。雑然・雑多・煩雑・粗雑・乱雑・などなど「純粋でなく」「大まかでいい加減なさま」といささかならず芳しくなく分(ぶ)が悪い説明も見受ける。けど、雑なるものはそれほど悪いものなのだろうか。

例えば、ロラン・バルトが自著『明るい部屋 写真についての覚書【1980年 みすず書房 花輪光訳】の冒頭に掲げたこの写真、その魅惑,その力感。

バルトは書く。

「写真」が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。「写真」は、実際には二度とふたたび繰り返されないことを機械的に繰り返す。‥‥「写真」は絶対的な「個」であり、反響しない、この上もなく「偶発的なもの」であり、「あるがままのもの」である。‥‥要するにそれば「偶然」(Tuché心を奪われる 触りたくなる)の、「機会」の、「遭遇」の、「現実界」の、あくことを知らぬ表現である。( 2.分類しがたい「写真」より。太字強調は訳文では傍点。)

ダニエル・ブーディネ(1945ー1990)は、夜になるとパリの街を歩き、カメラに収めた。

ここには、言葉に還元できないものが定着されている。繊細にして精緻で優雅な何かが。〈意味〉や〈情報〉や〈指示〉ではない何かが‥‥。〈道具〉とは異なる何かが‥‥。

「映像」は直接性の塊(かたまり)である。有無を言わせない暴力性を孕んで現前する。生もの・ライブ。多義的多面体。丸ごと丸かじり。

とはいえ、「ことば=抽象性」「映像=具象性」といった二分法で事足りるほど事態は単純では無かろう。ことばの肉感・直接性・具象性もあれば、映像の抽象性だって間違いなくある。アタマとカラダ、ナカミとカタチ、という光の当て方だって無視するわけにはいかない。う~ん、一筋縄ではいきそうにない。時間も掛かりそう。今日はココまで。to be continued