ラ・テーヌ文化と古代大和

wikipedia:ラ・テーヌ文化というのはとても重要だと思います。

考古学上ラ・テーヌ文化に属するとされる社会のいくつかは、紀元前5世紀以降のギリシアやローマの文献で keltoi(ケルト人)および galli(ガリア人)と呼ばれた。ヘロドトスは keltoi をドナウ川源流域としたが、これはラ・テーヌ文化の中心地にあたる。このことがラ・テーヌ文化の担い手がケルト人だったことを意味するかどうかは判断が難しい。考古学では、言語、物質文化、政治的同盟が必ずしも並行して発生しないと繰り返し断定している。Frey (Frey 2004) は紀元前5世紀のケルト人の埋葬の習慣は一様ではなく、むしろ局所的な集団が独自の信念を持ち、結果として独特な芸術表現を生み出したとしている。ラ・テーヌ文化の考古遺跡とされるものはスラブ文化圏にもあり、ラ・テーヌ文化をケルト人のものとすることは微妙な問題を生ずる可能性がある。wikipedia:ラ・テーヌ文化

これは邪馬台国を考える上でも非常に重要な考え方です。現在私たちは邪馬台国をひとりの女王が存在し、その女王が中央集権で国を束ねていたというイメージを抱きますが、邪馬台国は中央集権国家ではないですし、国家主義的軍事国家でもありませんでした。『共立』という民主主義的に選ばれた巫女が代表を務めた上記ラ・テーヌのような連合国家的文化結合体になります。哲学的格闘の末の連合国家感を獲得していなければ古代大和の感覚というのはなかなかわかりづらいです。

『巫』という文字には「人」の字が2つ入っていますが、『傘』には4つの「人」の字が入っています。別にどうってことないですが^^;不思議ですよね。。神鳴月(10月)の時にも書きましたが、巫(かんなぎ)は神が鳴くと読みます。稲荷山は稲鳴りなのでwikipedia:バアルと呼ぶこともできる。

スイスの考古学者 フェルディナント・ケーラー は1868年、スイスの湖上住居 (Pfahlbaubericht) に関する最初の論文を発表した。1863年、彼はこの遺跡をケルト人が湖上に杭を打って作った村だと解釈した。間もなくヌーシャテルの地質学者エデュアルド・デソルが湖岸の発掘を開始した。彼はこれを湖上に杭を打って作った武器庫で後に敵が破壊したものだと解釈した。また、出土した鋳鉄剣はなまくらだったことから、生贄を捧げた場所という解釈もある。wikipedia:ラ・テーヌ文化

これは琵琶湖や諏訪湖の湖底遺跡とつながると思います。この水上(湖上)住居は厳島神社などにも引き継がれたのではないでしょうか。

以前、ケルト神話のところで釜のことに言及しましたが、ラ・テーヌの釜もすごいですよ。wikipedia:グンデストルップの大釜

それと2000年以上前に地動説を唱えていたwikipedia:アリスタルコスも重要人物です。それとこの際なのでついでに書いておきますが、wikipedia:山片蟠桃蟠桃は番頭からキタらしいですよ。彼の著書『夢の代』を今度、図書館で探してみます。大阪に墓所があるらしいので今度行ってみます。

セッション途中の皆さん、兎年から龍年へと足掛けになりますが、来年は是非飛び立っていきましょう!明後日以降分につきましては年が明けました来年5日以降にメールのご返信等再開させて頂きますね。



Celtic Music - Where I Belong
Where I Belong というのは良いフレーズですよね。『私の居場所はどこ?』というのは人間の普遍的な問いかけ。属したいけど属したくない、属したくないけど属したい、、属/族/続、、ゾクゾクしますね。家族/氏族/天孫族。belongを突き詰めていくと『天の下 平らぐ』につながる。天下泰平とは何か?泰は秦なのか。泰は鯛なのか。恵比寿さんが竿を持っているのは釣る(鶴)から。天下泰平を吊り上げる海老は背中が屋根(アメノコヤネ)のように曲がっている(背折れツ)。マガを流して瀬織津姫。傘を真っ直ぐ巫で。

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