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苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳

2016-12-03

2016-12-02

再入門のまなび

 本日午前中は、教会姉妹家内と一緒に信仰告白の順序で、信仰生活のてほどきの学びのスタート。もう十年も前に、ある事情から緊急で洗礼を受けたけれど、ちゃんと学ぶ機会を得ないままだったということで、改めて学びなおしましょうということです。いわば、再入門の学び。

告白」とは、「公同の教会」とは、「聖書とは」ということを学んで、「信仰生活規範」とはどういうことかということから夫婦、親子のあり方に話が及びました。

聖書の学びは楽しい聖書を読もうというモチベーションが上がりました。」という感想を聞いて、こちらもうれしくなりました。

2016-11-30

カントの「神」と聖書学

(昨日の続きです)

 では、カント現象から神を締め出して、もはや神について考えなかったかというとそうでない。カント道徳的要請として神の存在を認めている。簡単に言ってしまえば、もし神がいなければ、人はまじめに生きる気が失われるから、神はいることにするのだということである

 こういう考え方には2つの問題がある。

 第一は、道徳的要請として神を設定するというような態度の問題敬虔パスカルに言わせれば、まさしくカントの神は「哲学者の神」であり人間の都合のために理論上いることされた張子の神にすぎないということである。その神は、聖書にご自身を啓示する生ける神ではない。パスカルデカルトに向けた批判のことばは、そのままカントについても適用される。

「私はデカルトを許すことができない。彼はその全哲学のなかで、できれば神なしにすませたいと思った。 だが、彼は世界運動を与えるために、神に最初のひと弾きをさせないわけにいかなかった。 それがすめば、もはや彼は神を必要としない。」

 主イエスは、ギリシャ合理主義哲学の影響を受けたサドカイ人に対しておっしゃった。

「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(マタイ22:29-32)

 第二の問題は、現象界において悟性(学的思考)は価値中立的自律的であるという思い込みである。しばしば言われる「科学はhowを問うのであり、whyを問わない」というフレーズは、それを表わしている。実際には、H.Dooyeweerdがいうように、悟性はある前提(根本宗教動因)をもって方向付けられて働くのだが、その現実自覚できないほどに「理性の自律」、言い換えると「神がいたとしても現象界への超自然的介入はしない」という理神論の前提がドグマ化されてしまっているのであるドグマとはそれに疑問をさしはさんだら、異端として排斥されてしまう教えであって、価値中立的とは程遠い。現象界について神が特別介入したというような主張は、「前近代的」「迷信」というレッテルを貼って学界から破門にするという熱烈さである原発危険性を訴えると、原発安全神話というドグマ支配された原子力学界から無視された学者たいたのと同じようなものである

 「神がいたとしても現象界への超自然的介入はしない」というドグマ聖書研究適用された場合聖書学者は、聖書の成立にあたって、各書はその記された時代民族文化的所産であって、それ以上のものではないということになる。また聖書に記録された事前預言はありえないとされ、執筆年代は事後であるとされる。さらに、理性の営みとしての哲学理論の枠組みを聖書批評学に適用して、たとえばヘーゲル弁証法を新約学に、宗教進化論を旧約学に適用することも行われ、執筆年代や各書の真筆かいなかの判断までもしてきた。

 下に参考のために、19世紀哲学思想聖書批評学に影響を及ぼした例についての文章を再掲載しておく。2010年12月29日掲載のもの



3 進歩思想聖書批評

(1)ヘーゲル弁証法テュービンゲン学派の新約聖書高層批評

 自由主義神学聖書高層批評に影響をおよぼしたのは、ヘーゲル哲学弁証法論理である弁証法というのは「正→反→合」の論理であり、ヘーゲルはこの弁証法論理によって自然歴史精神の生成・運動・発展が起こると主張した。たとえば、中世神秘主義時代だったが、これを「正」とする。やがて、近世は「反」として合理主義時代が来る。が、やがて、次に反動として神秘主義的なロマン主義時代が来るが、ロマン主義は単なる中世神秘主義でなく合理主義をも含んだより高度な神秘主義である。これが「合」である。このロマン主義の次にはまた、より高次の合理主義時代・・・無限に発展していくというわけだ。弁証法論理で一切が生成発展するという哲学は、多くの知識人の魂を魅了した。神学者例外ではなかった。

 原始キリスト教形成を、弁証法論理解釈聖書批評学に応用したのが、テュービンゲン大学のF.C.バウルである。彼はまず、初代キリスト教会にはナザレのイエスから直接の教えを受けたペテロ主義が「正」としてあったが、これに「反」として反律法恩恵主義パウロ主義対立し、やがて、両者の対立止揚(破棄)されることで恩恵律法を説く古代キリスト教が成立したという。つまり、「合」であるしかも、バウル聖書の各文書の成立年代をこの弁証法の枠から推断した。つまり、その文書思想内容からその手紙の古さを測定したのである

 弁証法論理から恩恵救済を力説するガラテヤ書、ロマ書、コリント書はパウロ自身真筆だが、他の恩恵救済を強調していないテモテ書簡などはパウロ真筆ではなく、ペテロ党とパウロ党の対立が破棄・融合されて成立した原始キリスト教会パウロの名を用いて作った偽作だと断じてしまう。弁証法論理が、下層本文批評ですでに確定した聖書テキスト事実よりも上に位置づけられているのである

(2)宗教進化論近代旧約聖書

 自由主義神学旧約聖書理解は、宗教進化論の影響を受けている。ダーウィンの影響を受けて宗教進化論を唱えたのは、E.D.タイラー(1832〜1917)である。彼は人類文化すべてについて研究を進め、文化言語宗教道徳呪術などに対する概念規定を独創的に行い、文化科学内におけるそれぞれの位置を定めた。また、「単純で断片的なものから複雑で統合されなものへ」という生物進化論の枠組みに沿って、宗教発生の第1の段階として、万物に霊的存在が宿るというアニミズムを想定し、<アニミズム多神教一神教>という宗教進化の図式を考えた。この論はその後多くの論争をひきおこし、優れた研究を生み出すきっかけとなったが、現在ではすべて根拠のない説として否定されている。

 タイラー説をヘブル人の宗教形成にあてはめたのが、ヴェルハウゼン(1844-1918)である。すなわち、ヘブル人の遊牧生活の時期はアニミズムの段階にあたり、やがて、モーセによる発展期にはいったのは単一神教の段階であって、多くの神々を認め、その中の最高神ヤーウェという考え方になった。ついで、カナンの諸宗教の中で成長して唯一神教となり、最後の段階に到達はモーセ律法によるのではなく、預言者宗教であるとする。預言者儀式的な神礼拝をはげしく攻撃し、超越的な神概念がここに誕生したというわけである

 また、ヴェルハウゼン文書資料説によって、モーセ五書の成立について説明を試みた 。その分析は<単純で断片的なものは古く、複雑で組織的ものは新しい>という進化論基準による。この考え方からすると、単純・断片的な預言書、詩、箴言の類いは古いとされて、組織的体系をもったモーセ五書のような文書は後代のものである位置づけられる。いちおう文書資料説に立つ諸説のうちの標準として「聖書大事典」(教文館)の内容から報告すれば、詩篇の一部、箴言9世紀、預言書アモス、ホセア、第一イザヤは8世紀、ゼパニヤ、エレミヤ、ナホム、ハバクク書というぐあいに配置されて、モーセ五書はなんと紀元前10世紀のJ資料、前8世紀のE資料、前7世紀のD資料、前6世紀のP資料編集されて前5世紀頃に成立したとされる 。

 しかし、20世紀にはいってから急速に発達したオリエント考古学による紀元前2000年期の大王契約文書発見発見された。そして、それらの大王契約様式にのっとってモーセ五書とくに申命記が記されていることが判明したことによって、モーセ五書の成立年代モーセ時代にまで大幅にさかのぼられることになった。オリエント考古学者K.A.キッチンは次のように指摘している。「紀元前2000年期後半の入念な形式を持つ条約は、その設計においてシナイ契約とモアブとカナンでの契約更新とにもっと類似した形式上パラレル提供してくれる。その契約は、紀元前1000年期に支配的であったと判明している契約形式とは全く異なっている。このことは、モーセがほとんど十中八九年代付けられるはずであるその時期に、モーセ契約起源があることを十分に証明するものであり、彼の歴史的役割を(間接的にではあるが)好意的に支持するものである。 」

 こうしてオリエント考古学の成果による客観的証拠群によって、ヴェルハウゼンに始まる文書資料説が虚構であったことがあきらかにされてきたのだが、一度常識とされた学説というのはなかなか覆らず、リベラル陣営においては先端の学者でないかぎり、今もって定説的な扱いをする人々がいる。だが、20世紀後半になって文書資料説をつくがえす研究が進み、最近では自由主義神学系の出版物にもJEDP仮説に対する疑義が提出されるようになっている。


追記 同年12月3日コメント欄のやりとりをご覧ください。興味深い指摘をいただきました。

カント敬虔主義信仰を背景として育った人ですから、empirestateさんがいうように、カント現象界の窓は開いていたのかもしれません。しかし、その後の理神論〜自然主義無神論的思潮のなかで、カント意図は誤解されてしまったのかもしれない、とコメント氏の文章を読んで思いました。

2016-11-29

Theist(有神論者)を自任しつつ、deist(理神論)的に考えている人々

 大学時代小川圭治先生からキルケゴールを手ほどきしていただいた。ゼミで読んだのは『哲学的断片』だった。小川先生カール・バルトに直接学んだバルト研究者であり、先年、天に召されたとうかがっている。卒論パスカルに関するもので、主査にはパスカルサルトルライプニッツなどの研究者である飯塚勝久先生だったが、小川先生に副査についていただいた。一応の書き上がりとなって、私に先生二人で会ってくださった。

 そのとき卒論のなかのどういう文言からそういう議論になったのかは忘れてしまったが、小川先生は私に対して次のような趣旨批判をなさった。

「君の考えでは科学世界に神の世界が入り込んでくるということになってしまう。それでは、カントの『純粋理性批判』の認識論の成果を否定することになる。おかしいではないか。」

 そのとき、私はきちんと説明することができなかったのだが、その後、ずっと考えてきて、すっきりと整理できたので、ここにメモしておこうと思う。

 小川先生が言われたカント純粋理性批判は、科学認識限界を定めたとされる哲学書である。分厚い本であるが、趣旨は次の通り。<科学認識は、感覚できる現象から情報悟性で整理して成り立つものである。したがって、五官をもって感覚できない、神、魂、自由についての議論は、科学認識の及びうる範囲である>。小川先生は、このカントの枠組みから、神は現象界に介入することは出来ないはずなのに、水草くんの神は現象界に介入してくるようではないか、と批判されたのである

 カント認識論は、ニュートン力学形而上学的裏づけをしたといわれる。ニュートンはdeism(理神論)に立つ人であった。deismとは、神は世界創造したが、創造した後は世界から手を引いていて、世界はそれ自体法則をもって運行しているという考え方である。つまり、「世界」を現象界と言い換えれば、カント認識論とぴったりと重なることに気づくだろう。神は現象界を創造したが、現在は、現象界に介入しない。したがって、現象界はそれに与えられた法則にしたがって運行されているから、そこに神による奇跡や預言ということはありえないということである。そして、現象界においては悟性科学認識)は自律的オールマイティである


 結論から言えば、小川先生が私を批判しておっしゃったことは、まさにその通りであって、それが私の立つ、そしてパスカルの立っていた聖書的なtheismの世界観認識論なのである。神は、そのことばをもって万物創造し、これをすべ治めておられる。通常、神は、この世界にお与えになった法則によって、この世界を治めていらっしゃる。だから17世紀ガリレオケプラーパスカルといった敬虔人物たちが、神の通常の摂理を信じて、そこに法則発見することができた。西洋近代自然科学が成立しえた背景には、キリスト教があったことは、今日では科学史における定説であるホワイトヘッドバターフィールド参照)。

 だが、神は、時に、ご自身のみこころにしたがって現象界に介入し、奇跡を行ったり、選んだ人々を用いて預言をなさったりする。モーセを用いて葦の海を分けたり、エリヤを生きながら天に引き上げたり、ダニエルに幻をもって啓示を与えたり、処女を身ごもらせて神の御子が人として世に来られたり・・・聖書では、神が現象界に必要に応じて介入して特別みわざを行われた。

 小川先生キリスト者としてdeismを批判し、ご自分はtheismに立っていると思っていらした。しかし、ご自分カント認識論を信奉することによって、事実上、deismに陥っている自己矛盾にお気づきではなかったと思う。このこと、きちんとお話しする機会があればよかったのにな、と今になって思う。

 theistであると自任しつつ、カント認識論肯定することによって事実上、deismに陥っているという問題は、小川先生だけでなく、いわゆる新正統主義神学を信奉する人々が共通にかかえている自己矛盾であるといわねばならないと思う。

<追記>

 神論にかんする訳語問題。通常、theismを有神論、deismを理神論、atheismを無神論と訳す。しかし、deismから言えば、彼らも神は有るということは信じているのだから、theismに立つ者のみが有神論者と名乗るのは言葉として不正確といわねばならないだろう。

 もう少し整理すれば、theismの神は創造と通常摂理特別摂理を行う神であり、deismの神は創造と通常摂理は行うが特別摂理を行わない神である旧約聖書的な「生ける神」から取って、theismは活神論とでも訳せば良いのだろうか。

 だが、小川先生は理神論の哲学者の神を信奉するのでなく、生ける神を信じる人だった。バルトもその難解な本を読むかぎり、またその生き方を見る限り、まちがいなく生ける神を信じる人だった。小川先生は、実存的な態度においては活神論に立ち、学問的な理屈としては理神論に立っていらしたということになるのだろう。

2016-11-28

パン種に注意

マルコ8:1−21

2016年11月27日

 お読みした箇所は、まず1節から10節が「四千人給食奇跡」の記事、11節から13節がパリサイ人が「しるし」を求めてきたという記事、そして14節から21節は「パリサイ人パン種とヘロデのパン種に警戒せよ」という教えの記事です。中心となっているのは第三の部分つまり、「パン種に警戒せよ」ということです。14節以降を中心にお話します。


1.弟子心配と主イエス心配

 主イエス弟子たちは、またガリラヤの湖に舟を浮かべています。行き先はベツサイダ(22)です。ところが、荷物確認してみるとパンを持ってくるのを忘れていることに弟子たちは気づきました。「おまえが食料係じゃないか。」とか「いやお前こそ」とか言い始めました。そこで、イエス様はこれを機会として、弟子たちに話しておきたいことを言われたのです。

15節「そのときイエスは彼らに命じて言われた。『パリサイ人パン種とヘロデのパン種とに十分気を付けなさい。」

 イエス様のおっしゃるパン種」とは「間違った教え」のことです。パン種はパン発酵に用いられる酵母ですが、それがほんのわずかであっても全体をおおきく膨らませます。そのように、教えの中にはは小さな違いに見えても、教会全体をおかしな方向へと導いてしまものがあります。そこで、イエス様パリサイ人たちの教え、および、ヘロデのパン種にも気を付けなさいとおっしゃるのです。マタイ福音書の平行記事では、ヘロデのパン種のかわりに、サドカイ人のパン種とありましから、主イエスは三つのパン種に気をつけよとおっしゃったわけです。

 ところが、弟子たちは滑稽なことに「それみろ、イエス様パンがないじゃないかといって心配なさっている。」「君がかかりだったんじゃないか」などと議論を始めてしまいました。16節。

 そこでイエス様は17節から21節におっしゃいます

8:17 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。

8:18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。

8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたときパン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」

8:20 「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」

8:21 イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」

 5000人に5つで、12かご。4000人に7つで、7かご。群集の数と分けたパンの数と残ったパンの数の関係関数にして表わすと・・・?などと弟子たちは考えたとしたら、ますますからなくなりますマタイの平行記事をみましょう。16:11、12。

16:11 わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人サドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」

16:12 彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人サドカイ人たちの教えのことであることを悟った。

 主イエスがおっしゃりたいのは、要するに、「神に信頼して生活しているかぎりは、あなたがたは食べることで何も心配することはない。五千人でも四千人でも神様はちゃんと養ってくれて、余りまであったじゃないか。注意すべきは、パリサイ人の教え、ヘロデの教え、そしてサドカイ人の教えだよ。」ということです。異なる福音というか、間違った教えは、信仰生活に致命傷になるから気をつけなさいということです。


2.パリサイ人パン

 パリサイ人の教えには二つの問題点がありました。ひとつは「しるしを求める」ということでした。11節にこのことが書かれています

8:11 パリサイ人たちがやって来て、イエス議論しかけ、天からしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。 8:12 イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代しるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるし絶対に与えられません。」

しるし」というのは、神から権威を明白に示す奇跡のことです。「イエスよ、あなたが何か偉大な奇跡を行なったならば、あなたが神としての権威もつであることを認めてやろう。」という態度です。イエス様はこのように「しるし」を求めるパリサイ的態度を非難します。<イエス様を信頼しきっているか癒していただける>と信じて求める者を、主は拒みません。しかし、<奇跡をやってみよ。そしたら信じてやる。>という態度をイエス様非難します。パリサイ人しるしを求める態度は、自分を神よりも上に置いて、神をテストしようという態度であるからです。

 パリサイ人の教えの間違いの二つ目は、律法主義による偽善というものです。主イエスはこうおっしゃいました。マタイ23:25−28

23:25 わざわいだ。偽善律法学者パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪放縦でいっぱいです。 23:26 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。  23:27 わざわいだ。偽善律法学者パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。 23:28 そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善不法でいっぱいです。」

 モーセ時代神様人間律法をお与えになりました。十戒はその要約です。「あなたにはわたしのほかに他の神々があってはならない」「偶像を拝んではならない」「主の御名をみだりにとなえてはならない」「安息日を憶えてこれを聖なる日とせよ」「あなたの父母を敬え」「ころしては成らない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証をしてはならない」「隣人のものをほしがってはならない」。

 これら律法には本来つの機能があります第一人間に「ああ、私は神の前に罪ある者なのだ」と罪を自覚させることです。山ノ神、海の神、かまどの神・・・を拝んできたのは罪だったんだとわかります。父母をないがしろにしていたのは罪だったんだとわかりますうそをついてきた自分は罪人だとわかります。そして、人はキリストにある罪の求めるようになるのです。

 律法の第二の機能は、罪赦された感謝のうちにへりくだりながら、律法ガイドにしたがって、神を愛し隣人を愛して生きるのを助けることです。

 けれども、パリサイ人たちは、律法は、それを守って神の前に功徳を積み上げるために与えられたのだと考えました。ところが実際に律法完璧に守ることが人間にはできませんから、結果としては、神を愛し隣人を愛するという律法の眼目を見失って、文言上形だけ守ったことにするという理屈を編み出し偽善に陥っていたのです。こうしてパリサイ派は、結局、イエス様のことばでいえば、白く塗られた墓のようになってしまいました。

 大事なことは私たち自分律法にかなわない罪人であることを認めて、へりくだって、主の赦しを信じること。そして、罪赦された罪人として、神を愛し隣人を愛して生きるガイドとして律法を用いることです。


(2)ヘロデのパン

 ヘロデのパン種とはなんでしょうか。ヘロデ王が教えを垂れたわけではなく、ローマ文化世俗的な考え方、価値観ということです。ヘロデ王自ら兄弟の妻を自分の妻として姦淫の罪を犯し、金と権力快楽との追求を人生の目的とするような生き方をしていたのです。ヘロデのパン種はクリスチャン世界に巧妙なかたちで入り込んでくると、それは無律法主義ということです。行ないによるのではなく、恵みによって救われたから、どんなけがれた生活をしてもいいのだという生き方です。とんでもないことです。その木の善し悪しは、実によって判明するものです。良い実は悪い木からは取れないし、悪い実は良い木からは取れません。口先でいかに「主よ。」「主よ」と言っていても、主のくださった律法をあえて踏みつけにしているとすれば、その人は真のクリスチャンではないのです。

 律法を守ることで功徳を積んで救われるという律法主義も、恵みで救われるのだから律法など要らないという無律法主義はどちらもまちがいです。正しく律法役割認識しましょう。二つです。

 第一に、律法私たちを罪の自覚に導き、主イエスによる恵みにすがらせます

 第二に、律法は罪赦された者が神を愛し隣人を愛して生きるガイドとなります


(3)サドカイ人のパン

 マタイ福音書の平行記事には、主イエスは「サドカイ人のパン種に気をつけなさい」とおっしゃっていますから、ついでに扱っておきましょう。サドカイ派の人々は、ギリシャ合理主義哲学の影響を受けた人々でした。彼らにとっての真理の基準人間の理性です。理性で納得できるかぎりは認めるが、納得できないものは認めないのです。彼らはユダヤ人として神は世界を造ったことは認めるけれども、神がこの世界に介入することはないと考えていました。なぜか。この秩序ある世界を見れば、これに知性ある創造主がいると考えることは理性で納得できるが、復活や天使存在は見たことがないから、理性で納得できないので否定したのです。神のことばである聖書よりも、人間理性のほうが上にあると考え、人間理性に納得できないことは、聖書に書かれていても信じないというのが、サドカイ派です。

 サドカイ人たちに対して、主イエスは、「あなた方は、聖書も神の力も知らない」(マタイ22:29)と断言なさいました。彼らの言う神は、生ける神ではなく死んだ神です。サドカイ派合理主義は、教会歴史のなかでは18世紀ころ強くなり、彼らは聖書よりも理性を上に置き、理性で受け入れられない奇跡や啓示を否定します。モーセが海を割ってイスラエルの民を通したこと、預言者たちの語った出来事事実キリストにおいて成就したこと、神が人となられたこと、主イエスが行った数々の奇跡、主イエス十字架で死んだのに三日目によみがえったこと、キリストが終わりの日に再臨して世をさばくことなど、超自然的な神のわざを否定します。そして、イエスを単なる愛の道徳教師革命家として扱うのです。このサドカイ派パン種は、近現代教会に広範な影響を及ぼしています

 理性は神が人間にくださった賜物ですから、たいせつなものですが、理性はその限界をわきまえて使うことが肝心なのです。そうでなければ、理性崇拝という偶像崇拝です。


結び

 この終わりの時代にあって、私たちはヘロデのパン種という世俗主義・無律法主義パリサイ人パン種つまり律法主義、そしてサドカイ派パン種つまり合理主義に警戒しましょう。

 積極的に言いかえれば、2点大事なことを今朝学びました。

第一は、罪ある自分が行いではなくキリストの恵みによって救われたことを感謝しつつ、神のことばのガイドにしたがって、神を愛し隣人を愛して生きること。

第二は、人間理性を聖書の上に置くサドカイ派合理主義の過ちに陥らないで、神のことばである聖書の下に自分の理性を置いて、へりくだってみことばにしたがって生きてゆきましょう。