Hatena::ブログ(Diary)

苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳

2017-02-25

しるしと信仰

イエスが、、過ぎ越しの祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてはだれの証言必要とされなかったかである。」(ヨハネ福音書2:23−25)

 ヨハネ福音書には「しるし」ということばが、ガリラヤのカナの婚礼において水を葡萄酒に変えた奇跡最初として何度も出てくる。多くの人は、しるしを見て、御名を信じたとある。では、そうして起こった信仰は本物であったかというと、そうでもなかった。しるしを見て信じた人々を、イエスは信用なさらなかった。しるしを見て信じた人々は、イエスをメシヤ、王として担ぎ出し、自分たちの思いを遂げようとしていることをイエスは知っておられたからであり、イエスはそれを望んでおられなかったのである。こうした記事はいわゆる五千人給食ときにもしるされている。

 しるしを見てイエスを信じる、そういう信仰は、神の前では無意味なこと、むしろ有害なことであるということを意味しているのだろうか。では、しるしは何のために与えられるのだろう。

2017-02-24

ハジマリニ カシコイモノゴザル

新改

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」(ヨハネ福音書1:1―3)


ギュツラフ訳冒頭

「ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル、コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニ コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。」



 「初めにことばがあった」というヨハネ福音書冒頭はあまりにも有名だけれど、ギリシャ語ロゴスに対する「ことば」という訳語は適切なのだろうか。

 旧約聖書を知っている読者を想定するならば、創世記1章において、神が「光あれ」とことばを発せられて光ができ、万物が造られたということとの関連で見るならば、確かに、ここは「ことば」と訳すのが良いのだろう。

 だが、ヨハネ福音書が、しばしばいわれるように旧約聖書を知らない異邦人最初の読者として想定して書かれたのだとするならば、ここは「ことば」では意味が通じない。実際、初めての邦訳に協力した江戸時代末期の日本の三人の船乗りたちは、「ことば」では通じないと考えて、「かしこもの」と訳した。

 「かしこもの」は、いわば、1世紀ギリシャ語文化圏に生きていた異邦人たちにとってのロゴスに当たることばだったのではなかろうか。当時、地中海世界に普及していたストア哲学においては「ロゴスとは、神が定めた世界の神的な論理を『ロゴス』と呼び、ときにこれを神とも同一視した。このような神格化に伴い、ロゴス賛歌のような詩も作られた。」(Wikipedia)つまり人間論理を成り立たせているだけでなく、宇宙を成り立たせている普遍的な理法をロゴスと呼んだのであるロゴスが、そういう意味もつ言葉であったからこそ、ヨハネは「初めに、ロゴスがあった。」と書き始め、そのロゴスが神であり、また、ロゴス万物創造したと語ったのである

 ヨハネは、ギリシャ文化圏に属する読者たちに、「あなたがたは、宇宙普遍的理法である神なるお方がいるらしいということは、漠然と知っているでしょう。そのお方が、人となってこの世界に来られたイエス・キリストです。」と伝えようとしたのである。実際、後年、アウグスティヌスは『告白録』の中で、ヨハネ福音書冒頭を読んだとき、神なるロゴスのことは聖書以外のところですでに知っていたと語っている。ただ、「ロゴスが人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)こと、つまりロゴスの受肉の真理については、福音書を読んで初めて知ったと告白している。

2017-02-22

今週の看板のお習字

f:id:koumichristchurch:20170222095516j:image

上手に書けたかなと思ったら、二行目の中心線がずれています。

むずかしいですね。

2017-02-20

神と相撲を取る

創世記32章

2017年2月19日 苫小牧夕拝

32:1 さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。

32:2 ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。

32:3 ヤコブはセイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使者を送った。

 いよいよ約束の地に戻ってきました。ヤコブは追って来た叔父ラバンとの問題に決着をつけたものの、それ以上の難題は兄エサウとの再会でした。20年前、兄をだまして祝福を奪い取ったことで、兄は自分のことをひどく恨んでいるであろうとヤコブは恐れていました。ヤコブ性格からすれば、20年たって恨みを忘れることなど考えようがなかったので、兄もきっとそうだと思ったのです。

 そこで、ヤコブはいかにもヤコブらしく、策をめぐらします。一つは兄のご機嫌をとることでした。4,5節のへつらいのことば。エサウのことを「ご主人」と呼び、自分はしもべであるとへつらっているのです。

32:4 そして彼らに命じてこう言った。「あなたがたは私の主人エサウにこう伝えなさい。『あなたのしもべヤコブはこう申しました。私はラバンのもとに寄留し、今までとどまっていました。 32:5 私は牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでご主人にお知らせして、あなたのご好意を得ようと使いを送ったのです。』」

ところが、兄エサウは400人もの大人数で自分を迎えに来ているという知らせが入りました。

32:6 使者ヤコブのもとに帰って言った。「私たちあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」

そこでヤコブは恐れを抱いて、陣営を二つに分けます。8節。

32:8 「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう」と言った。

それから、ようやくヤコブは、「ああ、そういえば、祈るのを忘れていた」ということなのか、主に向かって祈りました。9節から12節。

  32:9 そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしあなたをしあわせにする』と仰せられた【主】よ。

32:10 私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダン渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。

2:11 どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。

32:12 あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする』と仰せられました。」

しかし、これは中途半端な祈りでした。ヤコブはなお不安だったので、エサウへのご機嫌とりの贈り物を贈り続けました。13節から21節。

32:13 その夜をそこで過ごしてから、彼は手もとの物からエサウへの贈り物を選んだ。

32:14 すなわち雌やぎ二百頭、雄やぎ二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭、

32:15 乳らくだ三十頭とその子、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭。

32:16 彼は、一群れずつをそれぞれしもべたちの手に渡し、しもべたちに言った。「私の先に進め。群れと群れとの間には距離をおけ。」

32:17 また先頭の者には次のように命じた。「もし私の兄エサウあなたに会い、『あなたはだれのものか。どこへ行くのか。あなたの前のこれらのものはだれのものか』と言って尋ねたら、

32:18 『あなたのしもべヤコブのものです。私のご主人エサウに贈る贈り物です。彼もまた、私たちのうしろにおります』と答えなければならない。」

32:19 彼は第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じて言った。「あなたがたがエサウに出会ったときには、これと同じことを告げ、

32:20 そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります』と言え。」ヤコブは、私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思ったからである

32:21 それで贈り物は彼より先を通って行き、彼は宿営地でその夜を過ごした。

ヤコブはなぜエサウへの贈り物をいくつにも分けたのでしょうか。二つ目的があったと思われます。一つは、何度も何度も兄のご機嫌をとるためです。一度にドバっともらうよりも何度ももらったほうがたくさんもらった気がするということでしょう。もう一つは、仮に兄が途中で贈り物を拒否して攻めてくる場合、贈り物の全部を取られないで済むからでしょう。とにかく、ヤコブは策略家です。そして、自分は一番後ろにつくのです。兄が攻撃してきたら、自分一族のものたちを盾にして逃げようという計画でした。

 しかし、これほどまで手練手管を尽くしてもなおヤコブは恐れていました。そこで、真夜中、ヤボクの渡しに一人いるヤコブのところに不思議な人が現れました。22節から32節。

32:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。

32:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。

32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブももつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブももつがいがはずれた。

32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

32:27その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。

32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である

32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。

32:32 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、ももつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブももつがい、腰の筋肉を打ったからである

 ヤコブに現れた不思議な人は、神であったようです。彼は「顔を顔とを合わせて神を見た」と言っていますから。これはいわゆる受肉以前のロゴスでしょう。エデンの園を歩き回られる主の声、また、マムレの樫の木の下にアブラハムを訪れた、あのお方です。

 この神とのお相撲は彼の祈りを象徴的にあらわしているという解説があります。たしかに、この箇所から祈りについて教えられるのは事実ですが、実際にお相撲を取ったことは、31節に相撲の結果、彼が神に打たれた足を引きずっていたこからあきらかです。一生懸命に祈ったら、股関節脱臼したという話は聞いたことがありません。神と相撲を取ったことは事実であって、そのヤコブ相撲のしつこさが祈りのレッスンになっていると見るべきところです。

 人間手段をさんざん尽くしてきたヤコブでした。「ああ、自分はいつも神に祈るより、委ねるより、人間的な手を出してきてしまったのだ。」と彼は気づいて、絶体絶命の窮地に立って、神と格闘するのです。

私たちは2点、この箇所から学びたいと思いますひとつは、神の祝福を求めて止まない、ヤコブ情熱です。神が去らせよといっても祝福してくださらなければ、決して去らせないのです。ヤコブは強かった。なんと神さえも勝てそうにないと思われた(25節)とあるのは興味深いところです。私たちはこれほどの期待を神にしているでしょうか。祝福をいただかない限り、去らせはしません!と神にしがみつく情熱パッションを学ぶべきです。祝福をもとめてやまないヤコブ安易に「みこころのままに」という怠惰従順な祈りを神は喜ばない。静寂的瞑想は汎神論者のものです。生ける人格である神を前にした祈りは、時に格闘的なものなのです。

学びたい第二点。それは、神がヤコブ股関節を打たれたこと。

そして、神はヤコブももつがいを打った。ももつがいとは股関節です。人間からだの筋肉の中で最も強いのがもも筋肉です。主は、ヤコブもっとも強いところに触れ、彼の股関節脱臼したのです。そして、彼は足をひいて歩かねばならなくなります。いつも自分はここを神に撃たれたのだと意識して暮らすようになるのです。

神の人が、神の人として用いられるためには一番強いところを打たれて、無力になることが必要です。ヤコブは有能な人でした。才覚に満ちていたし、情熱にもあふれていました。強い兄を出し抜いてでも、祝福を奪い取りました。古だぬきのような叔父ラバンさえも騙すようにして、自分の取り分を獲得しました。今、かつて騙した兄エサウに再会するにあたっても、兄のご機嫌をとろうと手練手管を尽くしました。ヤコブはやり手の人です。しかし、その有能さが、自我の強さが、神の人として用いられるには、まず砕かれなければならなかったのです。

神に決定的に打たれた後、神の人は、何をしても自信がなく、神様これで大丈夫でしょうか?自分勝手に進んできたのではないでしょうか?と心の中で問うようになります。周囲の人は、彼を自信に満ちた人と見るかもしれませんが、実はけっしてそんなことはないのです。その魂は深い傷を負っていて、その古傷のところで、いつも神を意識せざるをえないのです。主の器は砕かれてこそ、キリスト香りを放ちます。ナルドの壷のように。

下ろすべき重荷、負うべきくびき

マタイ11章25-30節

2017年2月19日 苫小牧伝道礼拝


11:25 そのときイエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。

11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

11:27 すべてのものが、わたしの父からわたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。

11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしあなたがたを休ませてあげます

11:29 わたしは心優しく、へりくだっているからあなたがたもわたしくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます

11:30 わたしくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

1. 主のもとに下ろすべき重荷

 その神の御子イエスはおっしゃいます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしが休ませて上げます。」このように言われると、多くの人が「私に言われているなあ」と感じるようです。みんな重荷を負って疲れているのですね。休みたいなと思っている。あなたもそうかもしれません。人は何につかれているのでしょうか。

私の母は49歳で洗礼を受けました。イエス様を信じて何が変わったの?と母に聞いたら、「わたし神様がいることはずっと小さいころから信じていて、いろんな苦労をしていても見ていてくださるんだということを支えにしていたけれど、その神様は遠くにいらして腕組みをして見ていらっしゃるんだと思っていたんよ。だから神様が見ていてくれると思っても、自分でなにもかも心配しないといけないと思っていて、いつも肩がこって、頭のうしろが重かった。でも、イエス様を知ったら、その重荷を下ろしていいんだとわかったんよ。」と話していました。

 そして、もう一つ質問しました。「お母さんは自分がどういう点で罪人だったとわかったの?」と。すると母は「なんでもかんでも自分で頑張って来たんだということが、自分傲慢という罪だったということがわかった」と言っていました。自分で頑張らねばならない。自分が頑張るしかない。それが正しいことだと思っていた、そのことが神様の前では傲慢という罪だったのだと。ほんとうは神様にいのちを与えられ、人生のすべての必要を日々与えられ生かされているのに、神様感謝せず自分で頑張っていると思っていた、それが罪だとわかったというのでした。

 「人の一生は重き荷を負いて長き道を行くようなもの」と言われるように、人生に重荷はつきものです。でも、イエス様の前に下ろすべき重荷もあるのです。イエス様の前に下ろすべき重荷とは、罪という重荷です。

 けれども、罪ということばを聞いても、「そんなの私と関係ない。私はまじめに生きてきたから。」と思う人もいるでしょう。窃盗とか殺人とか姦通とか偽証かい犯罪もたしかに罪ですが、聖書がいう罪とは、もっと根本的な問題です。これらすべて犯罪の根っこにある心の中の「悪い考え」を生み出すもののです。

イエス様はおっしゃいました。「人から出てくるもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出てくるものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人姦淫貪欲、よこしま、欺き、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7章21,22節)

 何か罪を犯すとき、まず心の中には悪い考えが浮かびます。「あんな奴は死んでしまえばよい」とふと考え、それを心に蓄え続けると殺人に至ります。その悪い考えがすでに神の前では殺人です。自分の妻以外の女性に肉欲を感じ、それを暖め続ければ姦通にいたります。その悪い考えはすでに神の前に姦通です。人の成功をねたんだりすれば、それはむさぼりの罪を生み出すことになります自分人生自分で切り開いて来たから自分には神様はいらないという悪い考えは「高ぶり、愚かさ」という罪です。そして、罪というのは、どんな善人らしく振舞っている人の中にも例外なく潜んでいる利己的な性質なのです。これを原罪といいます

 罪はどのように人を苦しめるでしょうか。罪は人との交わりを破壊します。妬んだり、欺いたり、裏切ったり・・・ということになります家族同士でありながら、陰口をたたき、争いあって、憎しみを持ち続けている人もいます。そして、疲れ果てています。なんと不幸で悲惨なことでしょうか。

 罪は自分自身を苦しめますあんなことしなければよかったと良心の呵責にとらわれて、悶々として、ついには自分を赦せないとして、自分の命を絶ってしまう人までもいます。また、神様なんかいらない、自分が頑張らねばという高ぶりの罪は人を疲れ果てさせてしまます

 もっと重大なことには、罪は神との断絶をもたらします。造り主である神と断絶すると、人は生きる目的がわからなくなります人生がむなしくなります。生きている意味も、生きる力も失われますしかも、最後には、死後にさばきを受けたとき、聖なる神が住まわれる天国はいることができません。そうです、罪の問題が処理されない限り、永遠のほろびの場所で過ごさざるを得なくなります

罪は、すべての人を根源的に苦しめている呪いなのです。人は、自分自身の罪に呪われ、そのままで永遠に滅びてしまます


2.わたしのところに・・・イエス様は驚くべきお方です

 ところで、そういう罪の重荷を背負っている私たちに対して、イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい」と驚くべきことをおっしゃいます。誰がこんなことを言えるでしょうか。普通、そういう人に来られたら、困ります。面倒見切れません、と思うでしょう。私だって重荷にあえいで疲れているんだ、と。でもイエス様はそうおっしゃいますイエス様は、一体全体どういうおかたなのでしょう。

 25節と26節の、イエス様神様に向かって発せられた祈りのお言葉を読むと不思議なことがいくつもあります

 まず、「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。」とおっしゃいました。

 このようにイエス様は天地万物創造主である神のことを「父よ」と呼んでいらっしゃいますイエス様創造主である神の実の子です。たしか私たちクリスチャンも、天のお父様と祈っていますが、それはイエス様あやかって、そういう呼び方をしているのであって、私たち創造主の実子ではありません。養子です。でもイエス様は、天地万物創造主の実の息子さんなのです。

 イエス様が天地の主と特別関係にあることは、26節に進むともっとはっきりとわかります

11:26そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父からわたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」

 「すべてのものが、わたしの父からわたしに渡されています。」とイエス様はおっしゃいました。その意味は、全宇宙月星太陽、この地球地球上のすべての生きとし生けるものを、天地万物の造り主が、イエス様に渡しているということです。他の箇所の表現でいえば、「天においても地においても、私にはいっさいの権威が与えられています。」というおことばです。

 あなたが一緒に生活をしている人。たとえばあなたの夫が、かりに「わたしの本当の父は、万物創造主です。私は、この全宇宙創造主であるから委ねられているんだ」と言ったら、どう思うでしょうか?「うーん、この人、頭おかしくなったらしい」と思うでしょう。

 けれども、寝食をともにしているお弟子さんたちは、イエス様の祈りを聞いて、「この人は誇大妄想狂の変人じゃないか。」となぜか思いませんでした。不思議なお方だなあとは感じ、このイエス様のことを主と呼び、従って行ったのです。イエス様と言うのは、私たちと同じようにご飯も食べればおなかもすき、疲れて眠り、いびきもかく紛れもない人間でした。けれども、そのお言葉には不思議な力があって、神様の御子であると言われるならば、確かにそのようだと認めざるを得ないご人格だったのです。イエス様はそういう不思議なお方でした。世世の教会は、イエス様まことの神にして、まことの人であられると信じ告白してきました。


 29節のことばはどうでしょうか?

わたしは心優しく、へりくだっているからわたしから学びなさい」

 も奥さんたち、あなたのご主人があなたに向かって「私は心優しくへりくだってますから、君はぼくに学びなさい」と言い出したら、どうでしょう。笑うでしょうか、それとも何いってんのよ、と怒るでしょうか。謙遜な人は、自分のことを謙遜ですなどとは言わないからです。けれども、イエス様は当たり前のようにご自分のことを心優しくへりくだってますよ、とおっしゃったのです。しかも、です。お弟子さんたちは、イエス様を師として仰ぎ、イエス様に従っていきました。イエス様が心優しくへりくだっているとおっしゃったら、確かにその通りだと彼らは実感し、心に刻み、それが聖書に書き残されました。そしてイエス様のために、最後はいのちをもささげていったのです。イエス様というお方は、そういう驚くべきたった一人のお方なのです。

 つまり、弟子たちが出会い寝食をともにしたイエス様からは、万物創造主である神のひとり子としてのご人格がにじみ出ていたのです。後日、弟子ペテロ手紙の中で次のように証言しています

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。」(1ペテロ2:22)

 寝食を共にした三年間を振り返って、あのお方はまことに罪のしみ一つないお方だったなあと言っているのです。あなたは、そういう人をほかに一人でも知っているでしょうか。

また、弟子ヨハネは後日こう証言しています

私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)

イエスのご人格からは、神の御子としての栄光があふれ輝いていたのです。

 この神の御子が「心優しくへりくだ」られたのです。それは、万物創造主の御子であるイエス様が、人となってこの世に生まれてくださったこと、そして、十字架私たちの罪の重荷をになうために苦しみの果てに死んでくださったこと、そして三日目によみがえられたことを意味しているのです。

ピリピ人への手紙2章に次のようにあります

「2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

  そのイエス様が、あなたにおっしゃるのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしが休ませて上げます。」ここでおっしゃる重荷は、イエス様が天の栄光の御座を捨てて、この罪の世に人となって来られた目的と結びついたことです。イエス様が二千年前にこの世に来られた目的は、「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従」うためにほかなりません。イエス様私たちを救うために十字架にかからなければならなかったのは、私たちを罪とその結果としての永遠の滅びから救うためでした。私たちの罪に対する永遠呪いを、あの十字架において身代わりに受けるためでした。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」という主イエのことばを言い換えれば、「罪の重荷を背負って疲れ果ててしまった人は、わたしのところに来なさい。そして、私のところにその罪の重荷を下ろしなさい。わたしあなたの代わりに背負ってあげよう。」とおっしゃるのです。

確かに、あなたにも罪がありますそのままで永遠に滅びてしまます。けれども、神様あなたを惜しまれました。あなたをなんとしても救いたいと願われたのです。そこで、ひとり子イエス様を人としてこの世に遣わしてくださいました。御子イエスは、あの十字架の上であなたの罪の重荷を引き受けて永遠ののろいを身代わりとなって受けてくださったのです。

 ですからあなたにとって大切な決断は、自分の罪を神様の前で認めることです。そして、イエス様自分の罪の重荷を下ろしましょう。あなたは、神の前に永遠にゆるされます


3 主と共に担うくびき

 そして、イエス様自分の救い主として受け入れて罪を赦されて、歩み始めた者たちには次のようにおっしゃいますクリスチャン人生とは何なのかということです。

11:29あなたがたもわたしくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます11:30 わたしくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 くびきというのは、牛とか馬が荷車を引くとき首につけるものです。イエス様くびきを一つにするということは、イエス様といっしょに、同じ方向に歩んでいくのです。そうして、イエス様を一緒に荷を担っていくのです。クリスチャンとは、キリストイエス様とともに生きる人のことを意味しています

 イエス様は、罪の重荷を下ろした私たちに対して、その罪の重荷に代えて、「わたしといっしょに担って行こう」とおっしゃるものがあります。それは、負いやすい軽い荷物なのだそうです。それは、<愛する。真実な愛に生きる。>ということです。

この愛の冷えた時代にあって、希望のない時代にあって、イエス様を信じ、諦めないで愛を実行していくこと、それが私たちイエス様が負わせられるものです。

愛しても、愛されないことがあるでしょう。

それでも、愛するのです。

でも、そのあなたは一人でその重荷を負っているのではありません。イエス様がいっしょに負ってくださるのです。そうして、イエス様が父を愛し、人を愛したように、イエス様くびきを一つにしている私たちも愛する者として生きていくということです。そうしてこの冷たい時代の中に、神の家族を作り上げていくことです。

わたしあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

ヨハネ15章12

2017-02-19

下ろすべき重荷、負うべきくびき

「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているからあなたがたもわたしくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ1128―30)


 人が主イエスのもとに下ろすべき重荷は罪の重荷。私たちには、自分の罪を重荷を負いきることはできず、主イエスにお任せするしかない。主イエスは、十字架と復活によって私たちの罪の重荷を負いきってくださった。

 主の前に罪の重荷を下ろすと、主イエスは「わたしくびきを負いなさい」とおっしゃる。主イエスとともにくびきを負って牽いていく荷とは愛の荷である。愛の荷を担っていくとき、人は自由と喜びを経験する。人は本来、神に似せて、愛する者として造られたものから