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苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳

2016-10-01

心もからだも

年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。

若い人たちには兄弟に対するように、

年とった婦人たちには母親に対するように、

若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように、勧めなさい。

やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。(1テモテ5:1−3)

 いかにも「牧会書簡」と言う感じのする箇所。今でもそのまま通用する牧会者の心構え。このあと「若いやもめ」について長々と警告と勧めが出てくる。彼女たちには、相当てこずった状況があったことがうかがえる。使徒の勧めは、彼女たちが再婚して、子を生み、家庭を治めるようにということ。

 このあと、指導の任に当たる長老(治会長老)、指導とみことばに骨折る長老(今で言う牧師)に対する処遇がしるされる(5:17−22)。テモテ自身指導とみことばに骨折る牧会者の立場にあった。テモテはきまじめな人で、牧会からくるストレスで胃を病んでいた。だから「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい。」(23節)とパウロはテモテ健康を気遣っている。いうまでもないことだが、ストレス発散のためにやけ酒でも飲めといっているわけではない。日本のように森が豊かでない地域においては、生水がからだに悪いことが背景にある。パウロもテモテの牧会者として、彼の精神面だけでなく、そのからだにも配慮していることに注目すべきだろう。

 思い出すのは、エリヤがイゼベル脅迫されて抑うつ状態に陥ったとき、神は彼に40日間の食事睡眠運動をもってまず癒しを与え、それから、みことばをもって再起させたという記事である。神の牧会は人の心だけでなく、からだまで配慮する総合的なものだった。神は、人の心だけでなくからだをも造られたお方だから

 

2016-09-30

すべては神の作品ゆえ

4:1 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。 4:2 それは、うそつきもの偽善によるものです。彼らは良心麻痺しており、 4:3 結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。 4:4 神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。 4:5 神のことばと祈りとによって、聖められるからです。(1テモテ4:1−5)

 妻帯禁止断食修業というと、なんだかありがたい宗教のように映るというのは、洋の東西を問わず、また、時代を超えて共通しているらしい。日本以外の仏教では出家者は妻帯禁止・肉食禁止であるローマ教会聖職者に妻帯を禁じているのも、おそらく精神を善とし肉体(物質)を悪とする二元論的な異教的習俗価値観の影響だろう。

 しかし、精神物質(肉体)も、創造主が造られたものであるゆえに、良い物なのである。これが聖書価値観存在論的土台。

<追記>

 主イエスは、結婚離婚問答において、独身者について教えられた。先天的独身者として生まれついた者。人から独身者にさせられた者。天の御国のために自ら独身を選んだ者という三種類の独身者がいる(マタイ19章)。ローマ教会における聖職独身制は、第三番目のケースだということなのだろうが、聖職者独身であるべきだという根拠聖書にはない。旧約時代祭司たちは妻帯していた。また、彼らが初代ローマ教皇だとするペテロ(ケパ)は妻を連れて伝道生活をしていた(1コリント9:5)。

 天の御国のために独身を選ぶのがよいという場合は、たしかにあると思う。たとえば命を落とす危険のある地域宣教師としての使命を受けたと自覚する人は、独身選択するのが賢明であろう。パウロがその例である。 また、逆に天の御国のために結婚することを選ぶのが賢明だということもある。日本のような状況ではプロテスタント教会の牧会者としては、結婚をしているということが役に立つことが多い。

  

2016-09-29

真理の柱、また、土台

神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。(1テモテ3:15 新改訳)


神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。 (口語訳)


 プロテスタントにとっては、「真理の柱また土台は聖書である」と言ってもらったほうが居心地がよく感じてしまうのだが、使徒は、教会が真理の柱また土台なのだという。過ちやすい罪赦された罪人の集いを、真理の柱また土台としての役割を担わせる、神のみこころ不思議である。そういえば、主イエスの「あなたがたはわたしを誰というか?」という問いかけに対して、「あなたは生ける神の御子キリストです」と答えたペテロに対して、主は「あなたペテロわたしはこの岩の上に教会を建てる」と宣言なさった。直後、ペテロは「さがれ。サタン。」とお叱りを受けている。

 そういう人間の弱さにもかわからず、それをよくご承知の上で、罪赦された罪人、神の子どもたちの集いである教会を、真理の柱、また、土台だとしてキリストは建ててくださった。おそれおののきつつ、主の期待に応えるほかはない。

2016-09-27

高い地位にある人々のために祈る

2:1 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。 2:2 それは、私たち敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。 2:3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。

2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます

2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリストイエスです。 2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。(1テモテ2:1−5)

 エペ教会の牧会者テモテは、まず王とすべての高い地位にある人たちのために祈るべきだった。それは、キリスト教会が神を畏れて平安な一生をすごすためだった。権力者悪魔の誘惑によって暴走するならば、キリスト者弾圧敬虔で平安な一生をすごすことが出来なくなってしまう。だから、彼らが悪魔の影響から脱するように祈らねばならない。

 権力者たちのために祈ることは、「良いことであり、神に喜ばれること」とは思えない状況が初代教会にはあったのだろう。権力者キリスト者たちを弾圧し、伝道者を逮捕していたから権力者悪魔の手先であるという意識を多くのキリスト者たちも抱かざるをえなかったのかもしれない。事実権力者悪魔の手先としてふるまうことは往々にしてあることだとは、聖書が教えていることである

 しかし、権力ある立場にある人々もまた滅び行くみじめな罪人たちであり、神は彼らも「救われて真理を知る」ようにと望んでおられる。4節、5節で「すべての人」というのは、こうした文脈からいうならば、「庶民だけでなく悪魔の手先にされている王や高い地位にある人々も含めて」という意味である。つまり、ここにいう「すべての人」とは「身分の低い者も高い者も」という意味

 従って、高い地位にある人々のための祈りの課題は、

天皇立法行政司法指導者たちが、サタンの誘惑に陥って傲慢にならず、謙虚に知恵をもって、平和を維持し、格差是正する政治を行うように。

彼らもまた悔い改めて主イエスを信じて救われるように。

2016-09-26

きのう驚いたこと2点

昨日、主の日の午後、新札幌聖書教会で行われた「聖書から見た恋愛結婚セミナー」に、教会青年たちと妻といっしょに参加してきました。講師は、私でした。

 参加者独身男女が三分の二、既婚者三分の一くらいの割合だったでしょうか。1時間ほどの話を熱心に聴いてくださいました。そのあと既婚者と未婚者にわかれて、質疑や感想をわかちあう会をしました。意外なことに、こういう話をまとまって学んだのは初めてですという方が、牧師を含めて結構多かったことです。

 

 もうひとつ驚いたこと。私とH兄が運転して出かけたのですが、往復運転しても、腰痛がまったくでません。今までにないことです。バランスボール体幹が鍛えられてきたのですね。

 ただし、バランスボール書斎椅子に使って、いきなり一日数時間仕事をすると背中筋肉痛が出ると思います。私の場合違和感が2週間ほどあったでしょうか。まあ、最初からいきなり一日8時間くらい仕事しっぱなしですからね。徐々に座る時間を増やすのが賢明かもしれません。


 そうそう。セミナーアウトラインはこんな具合でした。

  

      聖書に学ぶ恋愛結婚

はじめに・・・日本離婚件数

 

1 結婚とはなにか

(1)創造から見れば

(2)終末から見れば

(3)神の祝福する家庭には、秩序と愛の交流の二つがある。

*このような家庭をともに築くことを目指して、自分自身が成長し、また、自分にふさわしいパートナーを祈り求める。

2 神の定めた祝福ある結婚へのステップ

(1)祝福ある順序

「それゆえ、男は父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となる。」創世記2:24

(2)結婚にふさわしい人格に成長する

子ども大人→親

結婚にふさわしい性格2点

3 性について・・・フリーセックスの最大の被害者無抵抗胎児たち。

(1) 性生活目的3つ

(2)アムノンとタマルから堕落後の男の性衝動現実直視する

(3)なぜ純潔を守るべきか

4 交際から結婚

(1)神に祝福される交際

(2)この人と結婚していいの?

結び・・・結婚に備えてなすべき祈り

「私に神様がそなえてくれた人が、今日も神を愛し、健康を祝福され、仕事(勉学)が祝福されるように。また、私が、将来その人と出会ったとき、この人が神が私にそなえてくださった人だとわかりますように。」

十二弟子の派遣

マルコ6:7−13


2016年9月25日 苫小牧主日礼拝


1.模範   やって見せ、言って聞かせて

  教育については、聖書からいろいろなことが考えられますが、その1つは模範ということです。旧約聖書申命記6章には、子ども信仰教育について次のように言っています

「6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。

6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。

6:7 これをあなた子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。」

 親が「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛し」、神のことばを「道を歩くときも、寝るときも、起きるときも唱えている」と、子どもはその親の姿を見て、神様愛する人となるというのです。確かに親が自分自身は神を愛していないのに、子どもには神を愛しなさいと奨めることはできません。信仰における真理とはそういうものです。「私は神を愛していないが、おまえは神を愛しなさい」というのはナンセンスでしょう。信仰教育は、教理の切り売りではなくて、神様を愛することを伝えることを意味しているのですから、その教育方法必然的に模範です。

 模範というと、「罪深い私は無理です」という人が多いでしょう。私もそうです。しかし、パウロは、その手紙のなかで「私に倣う者となってください」と勧めていますパウロ自分が完全な人間であるなどとは思いもよりません。彼は「私は罪人のかしらです」とまで言っています。けれども、罪人のかしらにすぎない自分が、恵みによってイエス様十字架の死によるあがないのゆえに救われたこと、そんな欠けだらけの自分でも主のために自分人生をささげて懸命に信仰の道を走っていることを見て、しょっちゅう転んでも立ち上がって、また走っているのを見習いなさいというのです。

山本五十六の有名なことばに、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」というのがあります。人を育てる極意です。やはり、模範が教育第一です。

 これまで主イエス弟子たちの見て耳傾けているところで、福音宣教をし、悪霊を追い出したり病人を癒すという模範を見せてきました。「やってみせ、言って聞かせる」というのがこれまでの段階でした。次に、「させてみせる」という段階に入ってきたのが本日聖書の箇所です。


2 任務・・・伝道社会奉仕

 主は十二弟子を呼んで町々村々に遣わされました。

6:7 また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。

弟子派遣目的は何かと言えば、主イエス代理として、町々で主のわざを行うためでした。主イエスが彼らに与えた任務とはなんでしょう。次のようにあります

6:12 こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、

6:13 悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。

 任務は二つあって、第一は「悔い改めを説き広めること」、第二は悪霊追放病人のいやしでした。言い換えると、伝道社会奉仕という二つが、主が弟子たちに与えた任務だったのです。以前にもお話したように、教会には伝道社会奉仕という二つの任務があります。あえて優先順位をいうならば、伝道第一で、社会奉仕が第二です。

 初代教会時代福音宣教とともに、やもめへの配給がなされていたことが使徒の働き6章に記されています使徒たちはやもめへの配給の働きが負担が大きくなってきて、伝道が出来なくなったので信徒執事さんたちを立てて彼らにこの社会奉仕を分担したという記事です。 古代ローマ教会のラウレンティウスが、ローマ当局から教会財産調査を受けたとき、「私たち教会財産は貧しいやもめや孤児たちです。(ローマ皇帝様にお世話いただきましょうか。)」と話したということを、以前にもご紹介しました。国家というのは、近代民主主義国家になるまで国民教育福祉には責任をもっていませんでした。それを担当したのが教会だったのです。現代では、国家福祉に相当の責任をになうようになりましたが、国がそれを負いきれなくなってきて、二十年前くらいからでしょうか、日本でもNPOが用いられるようになりました。そうして、国の福祉行政の届かないような社会の働きを一部になうようになりました。NPO特定非営利活動法人というのは、欧米ではずっと昔から教会がしていたことなのです。

 私たちも及ばずながら、社会必要のためにささげていきましょう。今度の主の日は、世界飢餓対策機構への献金日となっていますから、祈り備えましょう。


3 弟子としての心得

 主は弟子派遣するにあたって、いくつかの配慮をなさいました。

(1)主が権威を与えた

 第一は、主は弟子たちに権威を与えたということです。

6:7 また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。

 権威を与えるということは、弟子たちは主イエス代理として、主イエスの力を帯びたものとしたということです。弟子たちがいくら悪霊のとりつかれた人に向かって、「悪霊よ出て行け」と言っても出て行くことはありえません。悪霊人間の言うことを聞かねばならない理由がないからです。しかし、弟子が「ナザレのイエスの名によって、命じる、悪霊よ出て行け」と命じるならば、悪霊たちは退散したのです。主イエスの神としての権威の下に、彼ら悪霊どももいるからです。

 牧師伝道者がみことばを宣べ伝えるということもまた、主イエス権威が授けられているか可能なことです。神学校卒業したばかりの若ければ25歳とか26歳の青年が、教会伝道師として立てられるということがあります人生経験も学識も信仰生活経験いうことなどあらゆる面で遣わされた教会信徒のみなさんのほうがよほど勝っているということは、しばしばあることです。しかし、その伝道者が説教壇に立ち、みことばを忠実に宣べ伝えとき、そこに聖霊が働いて、信仰をもってそのみことばが受け入れられるならば、悔い改めて永遠の滅びから救われ、永遠のいのちにはいる人が起こされ、また、ある人々は霊的に前進するのです。それは、主イエスがその器に権威を授けたからであり、そういう信仰が受け留める教会にあるからです。

(2)二人ずつ遣わした

 主イエス弟子たちを派遣するにあたって、弟子たちを単独でなく二人ずつ遣わしました。いくつかの理由があるでしょうが基本的には助け合うためです。

 一人だけだと、主イエスを警戒している人々から弾圧があって、危険な目にあうこともあるでしょうが、二人であれば困難に立ち向かうこともできるでしょう。

 また二人で出かけて、一人が誰かに宣教しているとき、もう一人はそれをかたわらで聞いていて祈りつつ支えることができるでしょう。また、その働きの後で、「あそこは、こういうふうに話したほうがよかったんじゃないかな。」とお互いにアドバイスしたり励ましたりすることができるでしょう。

 伝道者の書四章につぎのようにあります

「4:9 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。 4:10 どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。」(伝道者4:9,10

 これは、伝道者にたいする勧めとして言い換えれば、「同労者をたいせつにしなさい」ということです。若いとき傲慢で、牧師会に出るとなんだか無駄なことのように思い上がっていましたが、同労者はつくづくありがたいと知るようになりました。

(3)必要は主が満たしてくださる

 もう一つ、主イエス十二使徒派遣するにあたって言われたことは、必要最小限だけ持てばよい。必要については、行く先々に用意された神の民が満たしてくれるということでした。8,9節。

6:8 また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻に金も持って行ってはいけません。 6:9 くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」

6:10 また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。

 これには当時のイスラエル社会の背景がありました。アブラハム時代からイスラエルの民は旅人とくに神のことばを携えた旅人をもてなすことが大切な、神の民としての習慣というか義務でした。その昔、アブラハムがマムレの樫の木のところで、三人の神の使いをもてなしたということがありました。ロトもまた、そのように二人の御使いをもてなしました。また、第二列王記4章には預言者エリシャがその働きをするための拠点としての小さな家を造ったシュネムの裕福な女性のことが出ています

そういう伝統がありましたからイエス様の名を帯びた伝道者を受け入れた人々は、「私どもの家を拠点として、この町に神のことばを宣伝えてください。食事必要ものは私どもが用意します。」と受け入れるというのが普通にあったわけです。そして、主は主イエス弟子を受け入れる人々に関しては、「わたし弟子からというので、水一杯でも与える者は、その報いにもれることは決してありません。」と祝福を約束なさいました。それで、主イエス弟子たちに、「あなたがたを遣わす町にもわたしの民がいるのだ、と信じて出かけよ」とおっしゃったわけです。

 異邦人伝道使徒パウロ開拓伝道に出かけた場合には、そういう宗教的伝統があるわけではないので、他の地域教会から支援を受け、また天幕作りで自活しながら、開拓伝道しました。このように柔軟に考える必要はあるものの、基本的伝道者としては、主の福音のために働く以上、神が備えてくださる神の民を通して、その生活必要を満たしてくださるのです。「神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これら(衣食住)はすべて与えられます。」たしかに、私どもが信州の郡部に開拓伝道したときにも、パウロ開拓伝道経済原則伝道しました。神様は私ども家族を飢えさせませんでした。「いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう。」という詩篇23篇のおことばどおりでした。

(4)宣告する役目

6:11 もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」

 弟子たちが二人である町に派遣されて、家々を訪ねて「ナザレのイエス弟子たちです。神の国が近づいた。悔い改めて神のみ子イエスを信じなさい。」と伝えても、その町の人々が誰一人彼らを受け入れようとしないならば、弟子たちは神の国の先触れの役割として、「神の国あなたがたから取り去られた」ということを宣言する意味で、足の塵を落として去りなさいと主イエスはおっしゃるのです。

 福音宣教には、悔い改めて信じる人々に対して神の赦しを宣言する役割と、悔い改めを拒む人イエス様拒否する人々に対しては、神のさばきを宣言する役割という二つの面があることがわかります

 私たちに何か取り柄があるから神様私たちを許して救ってくださるわけではありません。私たちは罪人です。しかし、乞食が手を差し出すように、私たち信仰空っぽの手を差し出して救いをいただくのです。キリスト拒否することは、空っぽの手を差し出そうとしないことです。そのままでは、神の前に滅びてしまます、と警告し宣告することもまた、伝道者の役割です。

適用

 ここ苫小牧の地にもキリストの福音を携えてきたスウェーデン宣教師たちがいました。聞くところによれば、中国戦後共産化されて追放されて、北海道宣教をはじめたのだそうです。宣教師たちは自分たち計画して北海道苫小牧に来たわけではなく、神の不思議摂理によって、ここ苫小牧福音を伝えることになったのでした。

来年は、会堂がこの地に建てられて60周年です。二千年前に主イエスが始めた伝道者の派遣と、魂の収穫のわざはこのようにして、世界に広がりこんにちまで続いてきたのです。

 苫小牧福音教会はこの魂の収穫のわざを受け継ぐ者として、この苫小牧の地でさらに魂の収穫のために働いていく使命があります私たちが、自分自身を主におささげするならば、主はかならず私たちを用いて、この地の人々の魂の収穫のために用いてくださいます