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苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳

2016-08-25

ガラテヤ書の背景にいる「割礼派」

 ガラテヤ書の背景には、異なる福音を語る「割礼派」(2:12)がいた。彼らは何を教えていたか

2:14 しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分ユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人生活を強いるのですか。

とあるように、ケパが同調してしまった割礼派は異邦人に対してユダヤ人生活を強いていた。それは「律法の行いを求める」を行うことであったことが、2:15からわかる。

2:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。 2:16 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリストイエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちキリストイエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

 ここで言われている「律法の行い」とは、何を意味するのだろうか?十戒に見られるような道徳的要求全体を意味しているのか?文脈上、そうではない。彼ら「割礼派」が異邦人に求めたとしてパウロ非難されている「律法の行い」とは、彼らが「割礼派」と呼ばれていることからわかるように、「割礼を行うこと」である

 しかし、パウロによれば、異邦人に割礼を求めることは、神の恵みを無にし、キリストの死を無意味にすることであり、福音の真理を裏切ることだった。

2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。

2016-08-24

福音の真理

しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たち宣べ伝え福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテヤ1:8)


 たいへんな剣幕である。「愛は寛容であり、愛は親切です・・・・」と語る使徒パウロだが、福音の真理を堅持することにかんしては、きわめて不寛容である伝道者、かくあるべし。

2016-08-23

教会のお墓

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 きょう台風一過の空の下、家内といっしょに教会のお墓に行ってきました。次の日曜日午後、墓前での召天者記念礼拝があるからです。一度教会の人に連れて行ってもらったのですが、たどりつけるかどうか自信がありませんでしたが、行ってみると墓苑入り口の案内板地図に「教会」とあったので、かんたんにたどりつけました。

 「我らの国籍は天に在り」と刻まれた見晴らしの良い場所にある墓です。この世の生涯は成功した、失敗した、金持ちになった、なれなかった、苦しいことが多かった、楽しいことが多かった・・・といろいろでしょうがたかだか80年ぽっちのことです。そのあとの永遠をどこですごすかはそれ以上に大事なことです。神のもとで永遠の祝福のうちに生きるのか、それとも、神に背を向けたまま永遠に後悔してすごすのか。

 キリストのゆえに「我らの国籍は天に在り」といえる人生は、たとえ山あり谷ありであっても、根本的に平安があり希望があります。教会のお墓は、天国への門を象徴します。

子ども会のごあいさつに

 台風去って、ひさびさの青空で、カンカン照りになりました。近所の小学校に「今度の土曜日子ども会をするので、小学校前で木曜日ちらしを配ります」と、あいさつにうかがってきました。

 髪が黒々として少し天然パーマ若い教頭先生でした。こっちが年とったんですね。



わくわくデー

あそんで、うたって、

たべて、おはなししよう!


日時 8月27日(土曜日)10:30−12:30

苫小牧福音教会  双葉町交番のすぐそば

台風

 「台風北海道上陸したけど大丈夫?」と電話いただきました。台風熱帯低気圧にならず、台風のまま北海道上陸するのはめずらしいそうです。北海道では北見東北のほうで大きな被害がでていますが、苫小牧は今のところ大丈夫です。なにしろ北海道というのはとても広くて、たとえば、東京神戸は525kmですが、函館知床は635kmもあるんです。ひとつ台風暴風域にはなかなか収まらないでしょうね。今回は北海道の東のほうに台風被害が出ました。

こんなに広い場所が、県に分けられないのはなぜかと思いますが、明治時代に4年間だけ、函館県、札幌県、根室県という3つに分けられていたことがあるそうです。でも、そうすると札幌県と根室県の開拓全然進まないので、一つにしたそうです。実際、道民ひとつ意識が強いと思います。

祝祷

イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。(2コリント13:13)


 コリント教会兄弟姉妹への手紙の結びは、祝祷。さまざまに教えや勧めや戒めを語ってきて、最後に牧会者が教会兄弟姉妹のためにできることは、彼らに神の祝福を祈ることをおいてほかにない。兄弟姉妹を恵みに満ちた神の御手に委ねるのである

 神は、父子聖霊三位一体であるが、なぜ、ここでは、子、父、聖霊という順番になっているのだろう。キリストの御名によって父に到達し、父に願うことは聖霊の交わりをこの民に賜るようにという順序なのだろう。つまり、子・父・聖霊という順序は、神の存在の秩序の順序でなく、パウロの祈りの順序なのであろう。

 もうひとつ、「私たちすべてとともに」でなく、「あなたがたすべてとともに」と祈っているのはなぜだろう。祭司として、自分に与えられるはずの祝福もまた民に与えてしまってくださいと祈っていると解するむきもあろう。 そもそも祭司としては、自分のためでなく民のためにとりなしているのだから、「あなたがたすべて」であって、そこに自分は含まないのは当然という理解もあろう。しかし、私としては、ここは、遠く離れた地からコリント教会兄弟姉妹のために祈るという状況であるから、「わたしたちすべて」ではなく「あなたがたすべて」と祈っているのだと解するのがしぜんであると思う。

 私自身は、一地域教会牧師として、自分の仕える教会礼拝において祝祷をささげるときには、自らもその群れにあってともに生きる者として「私たちすべてとともにありますように」と祈ることが多い。しかり、ときには、「私に対する祝福も、この群れのひとりひとりに注いでください」と特別意識して「あなたがたすべてとともに」と祈ることもある。

2016-08-22

政府は自分の役目を認識していないのではないか

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 国家重要役割の一つは経済格差是正にある。人の生まれもっての能力環境は不平等であるから自然状態放置すれば富む者はその持てるもの活用してますます富み、貧しい者はもっているものまでも富む者に奪い去られてしまって、ますます平等がひどくなってしまう。こうした弱肉強食社会は非常に不安定である。そこで為政者は、そうした格差を縮め、社会を安定させるために、富む者からは多く、貧しい者からは少し税金をとってこれを上手に分配することを、その役目としている。

 ところが、上のグラフが示すことは、現在日本政府政策は、貧富の格差ますます拡大するために機能しているという事実である

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神の国のひろがり―いのちと時

マルコ4章26-34節

2016年8月21日

 「神の国」とは神の支配という意味だと先にお話ししました。神の国の究極的な完成は、次の世においてですが、今の世にあっても、神様のみこころが成っていく所にはすでに神の国は来ているのです。 「神の国」は、あなたの心の中に、あなた個人生活の中に、あなた教会生活の中に、家庭生活の中に、職場の中に、社会生活の中に、世界に広がっていくものです。その神の国のひろがりはどういう性格を持っているのかについて、主イエスは二つのたとえばなしで話されました。一つ目は種まきの譬えです。

「4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、

4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります

4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」」


1 「種」

 まず注目すべきことは、神の国が大きくなっていくことが、建物建設工業製品製作ではなく、「種を蒔く」ことに譬えられているという点です。種というのは、そこにいのちがあるということです。神のご支配が広がっていくというのは、生命あるものの成長にたとえられることなのです。

 クリスチャンとして私たちが成長していくということ、キリスト教会が成長して実を実らせていくということ、福音の感化が地域社会に広がっていくということ、世界に広がっていくとくことは、生命的なことであって、工業的なことではないというのです。あるいは農業的であって、工業的でないということです。神の国生命なのです。


2 「種を蒔く」

作物を期待するとき人間の側は何をするのかといえば、まず、ともかく神の国が成長するための基本は「種をまく」ことです。種にいのちがあっても、その種を後生大事に袋の中に保存しておいては、決して芽が出る事も収穫を得ることもありません。真っ黒でフカフカの土の畑を用意しても、種を蒔かねばお話しになりません。どんなに水をまいても、草取りをしても、種を蒔いていなければ、何も始まりません。

「種」とはみことばです(4:14)。神の国はみことばが地に蒔かれ芽を出して成長するのです。どんな人間的な心理学社会運動も、神の国の成長にはならないのです。教会ボランティア活動を行ったりすることはありますし、牧会上人の心の理解のために心理学カウンセリング技術が役に立つこともありますしかし、神のことばが語られ、その種がまかれないならば、誰一人救われて神の支配に帰する人はありません。教会は、神のことばを宣べ伝えるのです。伝道社会的責任のふたつが教会の使命ですが、優先順位伝道が先です。

 私たち一人一人の霊的な成長ということにおいても、まずは、神のみことばを自分の心にまくということです。主の日ごとに、あるいは祈祷会ごとに、また、日々の聖書通読でみことばをしっかりと聞き、自分生活適用することです。そうするときに、あなた人格の隅々にまで神の支配がひろがり、あなた生活の隅々にまで、神のご支配がひろがり、やがて家庭に地域社会に、神の国が広がってゆきます


3 「夜は寝て、朝は起き、そうこうするうちに」

 米作りを考えると、苗代に種を蒔き、田んぼの代掻きをし、田植えをし、猛烈に伸びる雑草を取り、水の管理をし、そして収穫ということになります。「夜は寝て、朝は起き、そうこうするうちに」というのはこのようなことが含まれます

私たち信仰生活にも必須ルーチンワークがあります。時々はたとえばライフラインの集いとか、わくわくデーとか、クリスマス特別プログラムなど楽しいことがありますが、多くの日々は、朝起きたら、聖書を読んで心に種まきをし、今日一日、歩むべき道を信仰を働かせてくださいと祈り、そして、夜には一日の十の恵みを数え上げて、また罪の告白をして主イエス十字架の下で悔い改めてゆるしをいただき、また感謝を捧げて眠りにつく。こうした単調とも思えることを毎日毎日コツコツと繰り返すことが、神の国あなた生活に広がっていく上で大事なことです。

また、教会の成長ということについても、たまに行うイベントに頼って伝道するのではなく、毎月、毎週、伝道することが基本です。私は東京で9年間宣教師伝道をした後、長野県山間部の南佐久郡開拓伝道を志しました。そのとき、何人かの先輩の先生がたにお話しをうかがいに行きました。その中で一番印象に残ったのは開拓伝道の実を上げてこられたT先生の話でした。どのようにして伝道して来られたのかとうかがうと、T先生は「うちでは特別伝道集会はしないことにしている。特伝をすると、それだけで伝道しているという自己満足に陥るからです。伝道は、毎月、毎週するものです。その基本は個人伝道です。」とおっしゃいました。おっしゃることばは、私にとってまさに図星でした。

それで、小海開拓伝道に入ってから、私に毎月できる伝道を考えて、毎月「通信小海」という伝道新聞を作って南佐久郡全戸に新聞折込にして伝道をしたのです。方法はいろいろありえましょうが、毎月毎週毎日伝道ということを実行していきたいと思います


4 「初めに苗、次に穂、次に穂の中に実」

いのちには時間がかかり、段階があります。「初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫のときが来たからです。」苗ができないのに穂ができることはありません。穂がないのに、実が熟すこともありません。初めに苗、次に穂、次に穂の中に実という順番があります。成長には時間がかかり段階があるということです。種から一足飛びに花が咲くということなどないのです。だから焦らないことです。

神の国が、あなた人格のなかで成育していくことについて、このことを考えて見ましょう。「はじめに苗」というのは、義認と「子とされること」です。<神の前に自分の罪を認めて、イエス様が私の罪からの救い主であると信じて受け入れると、神はあなたの罪を赦してくださり、かつ、ご自分の子として神の家族のうちに迎えてくださる>ことです。これが「はじめに苗」です。神様の前に自分の罪を認めて、イエス様を罪からの救い主として受け入れることなしには、キリスト者生活をスタートすることはできません。どんなに奉仕に熱心でも、どんなにたくさん献金をしても、どんなに十戒基準として道徳的生活に励んでみても、その人は救われていないのです。まず、自分の罪を認めて、主イエス十字架と復活は私のためでしたと信仰をもって受け入れることです。

洗礼の準備クラス長島茂雄選手一塁ベース踏み忘れ事件の話をしました。一塁ベースを踏まずに二塁、三塁を回ってホームベースに帰ってきても、アウトです。イエス様十字架自分の罪のためであったという事実を受け入れないままに、どんなに忠実に献金をささげ、奉仕をし、毎週礼拝に来られても、最後はアウトです。「カルヴァリの十字架がわがためなり」という信仰一塁ベースです。

その上で、「次に穂」「穂の中に実がはいり収穫」となります。これはクリスチャンの一生涯をかけて、イエス様に似た人柄に変えられていくこと、すなわち、御霊の実を結ぶことです。御霊の実とは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。みことばと祈りと教会生活をたいせつにすること、そして、試練が訪れたときには祈りつつ忍耐すること。そうすれば、こうした御霊の実が実っていきます


5 成長は神の力による

 「どのようにしてか、人は知りません」とか「地は人手によらず実をならせるもの」とあります。このことばでもって主イエスはなにをおっしゃろうとするのでしょう。それは、私たち神の国の成長のためになすべきこととして御言葉をまくとか、水をやるとかはあるにしても成長させるのは神の力であるということです。植物を育てるとわかることは、種まきをした、水をやったからといって、みながみな同じように成長するわけではないということです。あるものの発芽は早く、あるものは遅い。あるものは100倍、あるものは60倍、あるもの20倍。それぞれの種の個性があって、人間の計画通りには行きません。

 

 そのように、私たちは霊的成長のために努力ますが、ほんとうに成長させてくださるのは神様聖霊なのです。私たちは神の協力者ですが、成長させるのは神なのです。神様にゆだねていく、あせらない、時がよくても悪くても、神様に期待して忠実に生きる。そういった姿勢がたいせつであるゆえんです。

 もうひとつの譬え言われていることはこのことです。

4:30 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。 4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、 4:32 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

 神の国は、神の力によるものからこそ、思い掛けないほどの成長がありえるのです。人間常識でははかりしれないほどの成長があるのです。実際、主イエス福音は、最初は小さなからし種ほどのものでした。世界の片隅イスラエルでした。面積は2万770平方キロメートル北海道は8万3千450平方キロですから北海道の四分の一ほどにすぎません。その片田舎のナザレから始まった神の国教会は、今や全世界を覆う大木となりました。それは人間の力によるのではなく、神の力によるものであるからです。

 そして、あなた自身のこと。自分を見限ってはいけません。「自分はこの程度のものだ」とか「自分はこういう性格から仕方ない」などと見限って、悔い改めを徹底しない人がいます。そうでなく、主が求め給うままにすなおに悔い改め、主イエス十字架によるゆるしを素直に信じて歩むならば、神はあなたをも支配してゆくようになります。やがて、あなた家族までも救いに導かれるでしょう。神の国からし種のようなものです。今はちっぽけであっても朝は起きて夜は寝て、そうこうしているならば、やがて大きな木になるのです。それは人の力による成長ではなく、神の力による成長であるからです。私たちは、日々御言葉にしたしみ、悔い改めつつ安んじて聖霊に信頼して神の国教会としても、あなた家族においても拡大して行く事を信じて歩みましょう。

 

弱さを誇る

もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。(2コリント11:30)

 リオにおけるオリンピックはきのう終わったのかな。そこでは、より高く、より速く、より強く、より美しくある者が勝者となった。自分の弱さを恥じ、自分の強さを誇るのが普通である。だが、使徒パウロコリント教会兄弟姉妹に向かって、自分の弱さを誇っている。コリント教会のなかには肉の誇りの問題があったから。そして、肉の誇りは分裂や争いを引き起こし、けっして神の栄光をあらわすものとならないから。

 また、「肉体のとげ」に苦しんで癒しを求めたパウロ癒しを受けられず、主からわたしの恵みはあなたの十分である、というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」という御声を聞いたという。彼はキリストの力が自分をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょうという。

 たしか自分健康・体力・知力などに自信があるとき、神に頼ることをついつい忘れて傲慢になってしまう。五十を過ぎて、からだに弱さを感じ、しぜんにいつも胸のうちで「主よ」と呼びながら奉仕するようになったのもまた恵みなのだと感謝する。

 

 

 

2016-08-21

 苫小牧福音教会のご案内

苫小牧福音教会は、聖書信仰に立つ正統的なプロテスタント教会で、

日本同盟基督教団に属しています。

聖書を読んだことはないけれど、というかたも歓迎します。

日曜礼拝 朝礼拝10:30

       夕礼拝19:00

連絡先 教会堂電話0144−32−3671

       牧師携帯 090−9353−8692

住所  〒053-0045苫小牧市双葉町2−1−1(双葉町交番のすぐそば)

<参考>日本同盟基督教団HP

http://domei.biz/x/