Hatena::ブログ(Diary)

苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳

2017-01-23

次善でなく最善を賜る神

17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」

17:18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」

17:19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなた男の子を産むのだ。あなたはその子イサクと名づけなさい。わたしは彼とわたし契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠契約とする。(創世記17章17−19節)


 アブラハムは、自分の理性の範囲で次善のことで満足しようとしたが、神はそれを超えた最善のものを与えるといわれる。

2017-01-22

コルク床

 今、気に入っているものコルク床。45センチ四方コルクマットを部屋に敷き詰めたのです。おもな目的ワンコロダがすべって股関節を痛めているから、すべりどめのためです。

 貼ってみたら、これがワンコのためだけでなく実に快適です。板の間だと冷たかったのですが、コルクマットにしたら暖かくてスリッパがいりません。畳みたいに寝転んで腰痛体操ができます。寝そべって昼寝もできます

 組み合わせて置くだけです。端っこの余ったところはカッターで切って、かんたんに施工できますコマーシャルみたいですが。

 ただ椅子を引きずると、マットとマットの境目がめくれてすぐに傷みますから椅子の足があたる境目部分だけは透明の荷造りテープを貼りました。

 

f:id:koumichristchurch:20170122214133j:image

2017-01-21

「苫小牧通信」3号に苦言をいただきました

 「苫小牧通信1月号に対して、匿名からのご批判はがきいただきました。1月号に、申命記の王の心得に関する記事を書いたのですが、王の心得の一つとして、私腹を肥やすなということを挙げました。その中で、「越後屋、そちも悪じゃのう」「いえ、お代官さまほどでは・・・」というお決まりのフレーズを思い出して、「越後屋」と書いてしまったのです。

 匿名氏は新潟県民でいらして、こういう文章で「越後」を紹介されるのは不愉快であると書いていらっしゃいます。きっと上に挙げたお決まりのフレーズを聞くたびに苦々しく感じていらしたのでしょう。考えてみれば、当然のお怒りだと思います。自分の身に置き換えれば、すぐにわかることでした。まこと申し訳ないことをしました。

 匿名氏なので、返信をすることができないので、次回の通信にお詫びと訂正を書くことにしました。ご批判はがき自戒のために、しばらく机の横に貼り付けておくことにします。

<追記>

 それにしても、なんで生真面目な印象がある越後人なのに、「越後屋」なのでしょうね。考えてみれば、三越前身越後屋は、現金掛け値なし商売元祖であり、それまでの騙したり騙されたり駆け引きの多い商習慣を刷新した先駆者です。

 大坂江戸に出た商人故郷にちなんだ屋号をつけることが多く、「越後屋」は三越だけでなく、あちこちにあります。調べてみたら、苫小牧にも越後屋という旅館があります。越後人の生真面目な気質を考えると、「越後屋、そちも悪じゃのう」というお決まりのフレーズは、気の毒なことです。越後人といえば、戦国の世で、領土拡張のためでなく正義のために戦った唯一の武将上杉謙信がいたりもしますしね。

あなたは、どこから来て、どこへ行くのか

16:7 【主】の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、

16:8 「サライの女奴隷ガルあなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」 16:9 そこで、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」(創世記16:7―9)

 夫アブラム養子でなく実の子相続人とすることになるという神からのことばをいただいたことを聞いて、サライは、自分は子を得る望みはすでにないのだから世間の人々がするように、借り腹をすべきなのだと考えた。夫の子種がなくならないうちに、急がねば、と彼女は焦ってしまった。そして、そのことを夫アブラムに告げ、アブラムもそれを受け入れた。

 その結果、サライ奴隷であったハガルアブラムの子を宿す身となった。だが、ハガルはそのことのゆえに増長し、サライに対して横柄な態度をとるようになってしまう。サライは悔しくて彼女に意地悪をして、おなかの大きなハガルはひとり逃げ出してしまう。

 だが、そんな分をわきまえることができなかった愚かな奴隷のハガルに主の使いは現れてくださった。「あなたはどこから来て、どこへ行くのか?」という問は、なんとも印象的である。「逃げ」には解決がないこと、また、自が分をわきまえて身を低くすることのたいせつさ。そんなことを考えさせられる。

 「あなたはどこから来て、どこへ行くのか?」という問いは、創造論的に、そして終末論的に自分という存在をわきまえることのたいせつさということを意味している。

2017-01-20

彼は主を信じた

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15章6節)

 主の約束を信じてカナンの地にやって来たアブラムだったが、アブラムには、いまだ跡取りとすべき子がなかった。だが、神はアブラムあなたの子孫は星の数のようになると約束される。その約束をされた主をアブラムは信じた。神はその信仰アブラムの義と認められた。神の約束を、そして、その約束を賜った神を信頼する、その信頼、それを神は義とみなされた。

 神を信頼すること、神のみことばを信じ切ること。そのことが、いか重要なことか、改めてこの朝、味わう。

2017-01-19

栄光は神に

創世記14章

14:1 さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、 14:2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。 14:3 このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。

14:4 彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。 14:5 十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、 14:6 セイルの山地ホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。(創世記14章1−6節)

 アブラムが自ら望んだわけでは決してないけれども、戦いに出て行かざるをえなくなった。メソポタミア大都市国家は、カナンの地の弱小な都市国家からショバ代を12年間取っていたが、カナン都市国家群はもうそんなもの払うのはいやだということで、連盟して反旗をひるがえした。メソポタミア連合大軍団は、カナンの地にやってくると鎧袖一触、次々とカナンの弱小連合軍を打ち破ってしまった。ソドムはどうもカナン連合盟主であったようだが、あっけなく滅ぼされて、住民奴隷労働につかせるために数珠つなぎにされてメソポタミアへと牽かれていくのである。その数珠の中にロトとその家族がいた。

 アブラムは、この世の権力権力の争いからは身を遠ざけて生活していたが、愚かな甥とはいえ、捨て置くわけにも行かず、彼らを奪回するために軍を仕立てた。まともな会戦などはできるわけがないから勝利の美酒に酔いしれているメソポタミア連合軍に夜襲を掛けて見事、彼らを奪回したのだった。

 アブラムは一躍凱旋将軍となり、カナンの地の英雄となった。カナン盟主ソドムの王ベラは、彼を王の谷シェベに出迎えた。昨日までよそ者にすぎなかったアブラムは、今やカナン紳士連の仲間入りを果たすチャンスを得た。ベラはアブラムを誉めたたえる。しかし、これはサタンの誘惑であった。危機であった。

 そこに不思議永遠祭司であり王であるシャレム(平和)の王メルキゼデクが登場した。彼はアブラムではなく、アブラム勝利を与えた神に栄光を帰したのであるアブラム危機から救われた。

あなたの手に、あなたの敵を渡された

 いと高き神に、誉あれ。」

 地上に生きているかぎり、望まなくとも、この世とかかわりを持たざるを得ない。そのとき、もし勝利を得るようなことがあったならば、神に栄光を帰することを忘れないこと。