ケータイでない携帯小説/岡田利規『わたしの場所の複数』

わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)

わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)

古井由吉が『人生の色気』の中で若い人に「ケイタイ小説」ではなく、携帯小説を書いて欲しいとリクエストしていたが、僕も思わず膝を打ちました。
ブログに書いたことがありますが、「ケイタイ小説」は結構、気になってそれなりに立ち読み、孫引用で目を通したが、あまりの退屈きわまりない誤読のしようのない決まり文句、決まりストーリーの羅列で何故、若い人達が面白く読むことが出来たのかとうとうわからなかったが、
iphoneを日常的に愛用している僕にとって、ケイタイであれ、「携帯」であれ、ここまで老若男女を問わず、生活、身体、世界を覆い内部に浸潤するこの小さなメディア(装置)を小説世界の中に内面化して、骨太で書記すれば、ケイタイではなく、携帯小説になるんだろうと、まあ、思ったわけです。
そんな携帯小説は例えば三島由紀夫賞をもらった東浩紀にせめて挑戦して欲しいが、携帯小説ではなく、SF小説にしか興味がないみたいだから、ないものねだりかもしれない。
古井さんが慨嘆しているようにそんな携帯小説なんて、思い浮かばないなぁと思った途端、ひらめきがあって、
岡田利規の素晴らしい小説があったじゃあないか、それで、不確かな僕の記憶をたどったら、
さすが偽日記さんののブログ記事がありました。図書館で『新潮 10月』(2006年)を再読しよう。
と書いたら去年発売された新潮文庫に収録されていることを発見。
知らなかった。さっそく、文庫で読みます。
まさに古井由吉が『人生の色気』で言及していた「携帯小説」はかようなアクセスであり、ちょっと偽日記から一部を引用させてもらいます。

横たわる女性の一人称で、倦怠感や無気力感を基底的な調子とし、シーツに密着する自らの身体への強い執着や関心とともに語りだされる語りは、携帯電話やメールやインターネットなどのメディアを介することで、その語られるものの範囲を徐々に広げ、それがまた身体や気分への執着によって小さな範囲へと収縮する、という運動を繰り返しつつ、徐々にその広がりと収縮の範囲(落差)を大きく広げてゆく。それでも前半は、今時のメディア的な環境を器用に取り入れた、いかにもありがちな展開にも思えるのだが、その視点の広がりと縮小の運動(振幅)の強まりは、次第に「ありがちな現代風俗」の範疇を超えるまでになってゆく。ここに描き出されていることは全て、徹底して、現代のメディア的な環境であり、現代の労働・生活環境であり、現代の風俗であり、現代の風景であり、それらのサンプリングなのだけど、一人称による孤独な語りが、拡大し、縮小し、増殖し、分裂してゆく律動は、その徹底して薄っぺらな紋切り型でしかない「現代」から、ある一人の人物の(一つのカップルの)生の核にあるもの(関係の核にあるもの)を、時間をかけて、冗長ともいえる語りを重ねることで、じっくりと浮かび上がらせてゆくように思う。(個々の場面をみると、そんなに充実していると思えるところはなくて、冗長なものの積み重ねにみえるのだけど。)読んでいる時間の多くを、疑問や保留を抱えつつ読み進めていたのだが、その疑問と保留のまま時間を積み重ねるなかで、徐々に広がってゆく場面、大きくなってゆく振幅によって、読み終わる頃には、この小説がすっかり好きになっているのだった。