言葉と写真と他者と関わるということ

原田芳雄が亡くなり、ルシアン・フロイドが亡くなり、仲村とうようが自殺をし、エイミー・ワインハウスが27歳で亡くなり、小松左京が没し、レイ・ハラカミが若くして逝ってしまった平成23年の夏。そんな夏に自分の20歳もぼんやりと行ってしまった。

下北沢のギャラリーで友達が写真のグループ展を開催していたので、長野君を誘い訪ねてみた。街からは少し離れた住宅街に立地しているこぢんまりとしたギャラリーで、ちょうど下北沢に住むクリエイティヴな自由人とおぼしき中年の男性が展覧会を開催している友達と話をしているところだった。
その男性とほとんどすれ違いざまにギャラリーにおじゃまし、作品を観賞した後、われわれも写真などなどのお話を楽しむ。
われわれが話しているあいだにも数人の来客があり、そんな人たちともお話をしたり、横で交わされている会話を聞かせてもらったりといくつかのコミニュケーションが生まれ、楽しい時間がながれていた。いつも辛口の長野君が珍しく写真を褒めていた。

われわれはギャラリーを後にし下北沢の喫茶店、花泥棒にて写真の話を継続して楽しむ。
先日図書館でアンリ・カルティエ=ブレッソンのポートレイト集『内なる静寂』とエド・ヴァン・デル・エルスケンの『セーヌ左岸の恋』とHiromixの『Hiromix works』を借りたので、主にそのあたりのお話。ただし長野君はHiromixには微塵の興味も無いようなので、多くはブレッソンとエルスケンの話に絞られた。

自分は言葉というものが好きな人間であるので『内なる静寂』と『セーヌ左岸の恋』に含まれる言葉について話をした。自分は言葉の要素が含まれている写真が好きなようで、その場合、どうやら主として「詩」と「言葉」と「テキスト」という要素に分類して写真を感じているようだ。

例えばブレッソンノの『内なる静寂』の被写体の多くは普段から言葉というものに慣れ親しんでいる詩人、作家、評論家、芸術家などの人々である。そのような写真を見る者は映り込む被写体から「言葉」のイメージを連想する。ここでの「言葉」とは、意味を発生し何かを伝えようとする文章未満のイメージとしての「言葉」、概念としての「言葉」そのものである。自分は『内なる静寂』にこのように「言葉」が写り込んでいるのを見る。

エルスケンの『セーヌ左岸の恋』にエルスケン自身によるテキストも添えられ、写真集一冊を通して物語の形式となっている。ここに写されるのは「少しニヒリスティックで、斜に構え、反ブルジョワ的ライフスタイルが共通していた」「実存主義の青年たち」である。彼らもまた何かしらの芸術に奉仕をする種類の人間たちであり、ライフスタイルそのものへ書物からの影響がうかがわれる。彼らは『内なる静寂』に写される社会的に固有名を持った何者かではなく、これから何者かへとなってゆこうとする未精製の青年たちである。言葉によって認識された実存することへ憧れから、彼らの若い身体には急流な時間が流れ込み、強い精神活動が感情となって表面化される。自分はこの「精神の活動が感情となって表面化されたもの」を「詩」として受け取っている。その「詩」を写し込んだのが『セーヌ左岸の恋』の写真であると感じている(であるならば彼らの身体を「詩的身体」とか「言葉的身体」などとして語ってみることもできるかもしれないけれど、それはまた別の話)。

この「言葉」と「詩」というものの違いをもっと説明するならば、述べたように、イメージそのもので形を持たない言葉そのものの概念が「言葉」であり、「精神活動が感情となって表面化したもの」が「詩」であるため、「言葉」より「詩」の方が物体に近く表象として現れ、何かを言いたげなのである(そしてそれを言わず伝えるということが美というものなのだ)。

残されたのが「テキスト」だ(自分はあまり「テキスト」を感じる写真には饒舌になれないのだけれど、長野君との話の中で名前がまず挙がったのがホンマタカシだった。自分はホンマタカシは非常に好きな写真家であるけれども、長野君は嫌いであるらしい)。
「テキスト」を感じる写真(ここでは別にホンマタカシについて語っているわけではない)にはどこか膨大なテキストを読み込まなければなにか語ってはいけなそうな雰囲気がある、ような気がする。
というか膨大なテキストを読み込まなければ語るべき言葉を獲得することが不可能である、ような気もする。
その膨大なテキストは多くの場合難しい言葉によって語られている、ような気がする。
そのようなテキストはどうやら「ポストモダン」というというものである、らしい。
そしてポストモダンとは難しそうな雰囲気が漂っている、感じがする。

「テキスト」を感じる写真にはどこかそのような膨大な文字情報によって構築され、観賞者は隠されたテキストを読むことを求められているように感じられる。ここで行われるのは写真を読むという行為である。
長野君はこのような写真群を「おれはああいう写真は「うるさい写真」と言うことにしているんだ」と言っていた。

自分はこのような写真は必ずしも嫌いではない。しかし好きになろうと思うきっかけを写真の方から拒まれているように感じてしまう瞬間もある。なんだか10巻続きの難しい小説の10巻だけを突然渡されて、「これだけじゃどういう内容かわからないよ」と言ったら、「わかんないんだ、じゃあ読まなくていいや」と言われて寂しい気持ちになってしまう、という感じがしてしまう。せめて「じゃあ今度1巻から貸してあげるから読んでみてよ」というという態度をとってくれるなら「じゃあ読んでみようかな」という気持にもなるのに。

そのような写真とは一体誰に向けられたものなのだろうか。そのような理由で「一般の人」にはどうやら開かれてはいないジャンルのように思われる。では「写真が好きな人」のためのものか。しかし「写真」というものに強い思い入れを持っている長野君の態度からしてみてどうやらそれも違うような気がする。

ではもしかしたらそれは「アートの人」のものなのではないか。もっと言うとポストモダンの理論が好きな人のための娯楽小説のようなもの、というかポストモダンという高級文化の分かる人のための読み物、なのではないか。以前読んだ美術評論家の椹木乃衣と批評家の浅田彰が「これからのアート」のような論題で「これからのアートは数学のように無意味にただ理論を積み重ねてゆくためだけの目的なき構築のようなものになってゆくのではないか」という文章を読んだことがある(※)。

…あれ、気が付いたら写真の話をしていたのにいつの間にかアートの話にすり替わっているではないか。これはどういうことか。いや「テキスト」を感じる写真とは「写真」ではなくて「アート」なのではないか。(続く、かもしれない)

アンリ・カルティエ=ブレッソン「ジャン=ポール・サルトル

エド・ヴァン・デル・エルスケン「セーヌ左岸の恋」より

※調べたら「そう言えば、ジョゼフ・コスースが、アートも数学なんかに近くなるべきだと言っていた。数学だと、論文が専門誌に載って世界的に評価される、しかし原稿料もないし、たいてい応用もできないからお金にはならない、それでも楽しいわけでしょう。見ようによっては究極のオタクだけど、あれだけ歴史のある巨大なゲームとなるとほとんど普遍的なゲームであるかのように見える。

アートも、作品を作って売るなどということはやめて、ああいうふうになればいいのかもしれない」(浅田)という発言だった。

「新世紀への出発点」より