3. ハルキシステム再訪

もちろん、実際に村上春樹が何を考えているのかはわからない。また、僕が手に入れることができる資料やそれを読む能力にも限りがある(すごくある)。それを深く書き始めると大変なことになるので省略するが、ここに書かれているのは、僕が感じたことであり、僕の個人的意見であることは言っておきたい。もちろん、これが唯一の読みであるというつもりもない。
ただし、僕はこれが真理だと考えているし、自分の主張の結果から逃げるつもりはない。以上、一応の断りとして。

村上春樹にはある思考のシステムがある、と書いた。それをとりあえずハルキシステムと呼ぼう。そう呼ぶのは他に適切な名前を見付けることができないからだ。個人主義?微妙に違う。心理主義?そうは割り切れない。文学?そうとも言いきれない。
そして、話は長くなる。なぜならそのシステムは継起的にしか理解できないからだ。ステップを踏んで進めていくしかない。適当な名前で呼べないものが全てそうであるように。理解してもらえるかどうか、あまり自信はない。ともかく、やってみることにする。

相対化とデタッチメント

最初に出てきたのはデタッチメントだった。離脱、切り離し。それは本人が語ったキーワードでもあるのだが、誤解をまねく要素も含んでいる。問題は何からの離脱なのかということだ。単なる非社会性ではない。もちろん、社会的であるとは言えないが、おそらくそれは主題ではない。
最初期にあったのは政治的記号性からの離脱である。このことは前にも書いたので繰り返さない。要するにあれは既存の価値観を容認することはできないということだ。ブルジョワ的、あれはファシスト的とレッテルを貼っていたのではどこにも行けない。かと言って、単にレッテル貼りを否定しても未来はない。
おそらくそれはあまりにも過剰な政治の季節への反動だったのだろう。だが、初期の作品はそれにとどまらない。そこではほとんどあらゆる意味の体系からの離脱が志向される。そういう例はたくさんあるのだ、ひとつだけ引こう。

「文章を書くたびにね、俺はその夏の午後と木の生い繁った古墳を思い出すんだ。そしてこう思う。蝉や蛙や蜘蛛や、そして夏草や風のために何かが書けたらどんなに素敵だろうってね。」
風の歌を聴け講談社文庫版、p115

人はさまざまなものに意味を持たせる。あるいはこう言ってもよい。過剰な思い入れをする、と。初期のころに言われていたのはそういうことだった。過剰に思い入れるのはもう沢山だ。何が正しくて何が間違いにつながるとか、そんな必要はない。美味しいものは美味しい、綺麗なもの綺麗だ、それで良いではないか、と。

だが、もちろんそれだけでは済まない。蝉や蛙や蜘蛛や夏草や風は言葉を持たないが、人間は言語によってしかコミュニケーションできないからだ。そしてもちろん、書くとは、言葉を使うとは、何かに何かを意味させることほかならない。ワーグナーとナチズムを結びつけることと、「さ」「わ」「や」「か」という文字列を初夏の空気の移動と結びつけることとは違う。だが、その違いを表現することは困難だ。別な方法が必要になる。その手法として選び取られたのが、ほとんどブラックジョークのようだが、何もかもを徹底的に記号化することだった。

全ての体系を拒否することと書くことを両立しようとするのなら、何もかもを手当たり次第に相対化するほかはない。いいかえると、全てが無意味な、あらゆるものが入れ替え可能な記号であるような世界を構築するしかないということだ。村上春樹が逆説的な、記号へのこだわりをみせていた理由はここにある。
羊三部作あたりには、こうしたモチーフが頻繁に登場する*1。あまりにも似ているために着ているシャツの番号でしか区別できない双子のガールフレンド、人生のテーマとしてのピンボール・マシン(「あなたがピンボール・マシーンから得るものは殆ど何もない…」)、隠喩としての機能を抹殺されるためにだけ登場する「羊」。
そして、そうしたことが必然的に離脱を伴うのだ。主人公を組織に所属させたり、家族を持たせたりするわけにはいかない。そんなことをしたら、 小説に意味や目的ができてしまうからだ。結果として、主人公たちは組織にも、人生にも、社会にも参加しないことになった。そしてもちろん、彼らは孤立していた。

孤立からアタッチメントへ

たとえば、『ノルウェイの森』における根本的な喪失感がある。
この小説は最後に「ハッピーエンドのようなもの」を迎える。だが、それは僕たちに大団円を保証してはくれない。なぜなら、冒頭で既にこれが回想であることが予告されているからだ。「僕」はそれから17年経っても、まだ「失った」という感覚を持ち続けている。誰かが言ったように、それなら緑はどこにいるのだ?205ページで、君達は永遠の愛を誓ったはずではなかったのか?
つまり、そういうことではないのだ。これらの小説においては、全ては「個人的な経験」として示される。初めのころの村上春樹の小説は孤立者の小説だった。世界には自分しかいない、対等なものには出会わない。そういう空間だ。

そしてそれは、社会の情勢にもフィットしていた。80年代、人々はどんどん個人主義的になり、ある意味では自己中心的・利己的になっていた。初期の作品群は、そういう時代性にフィットしたのだ。もちろん、それは当然だ。社会の変化は60年代、70年代の経験に影響を受けていて、小説もやはりそうだったからだ。

しかし、それでは終わらなかった。村上春樹は続きを用意していたのだ。アタッチメント、再参入、それが答だった。

「僕には僕の責任があるんだ」と僕は言った。「僕は自分の勝手に作りだした人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ」

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下』新潮文庫、p345

現実だ、と僕は思った。僕はここにとどまるのだ。

ダンス・ダンス・ダンス 下』講談社、p338

綺麗事だ。

あまりにも綺麗事だ。最初に読んだ時にそう思った。自分の殻を出て世界に参加するなんて、読書感想文の締めくくりのような常套句ではないか。だが、僕が見逃していたのは、作家が本気でこれらの言葉を書いているということだった。デタッチメントはあくまでも便宜的なものでしかない。徹底的な孤立化の試みですら、周囲の人々に影響を与えずにはおかない。それに責任を取るためにも、また社会に戻るしかないのだと、彼はそう言っていたのだ。

ひとつに、自立あるいは自律というテーマがあるだろう。ことあるごとにそれは強調されてきた。いうまでもなく、既存の価値体系に依存しないためだ。できあいの正邪に小突きまわされないためには、自分で何かを作らなければならない。そのために、自律的な価値体系の構築のために、社会から離脱することが必要だった。それをするために、それが可能であることを示すために小説が書かれた。だが、それは目的ではない。また社会に復帰しなければならないのだ。もちろん、同時に社会への参加が目的でもないということも強調されなければならないだろう。離脱はリハビリではない。社会性の訓練のようなものとは違うのだ。いちど獲得したものを手放さずに、関係の中に戻ること、中期以降の村上春樹は、この困難な課題に立ち向うことになる。

セックスと暴力

既存の価値体系を否定し、なおかつ肯定的にふるまおうとするなら、残るのは直接的な経験性である。具体的には死と誕生とセックスと暴力だ*2。中期以降、彼は小説の主題としてこうしたものを扱うようになる。『国境の南、太陽の西』『ねじまき鳥クロニクル』『スプートニクの恋人』『海辺のカフカ』…。

あなたはよそで作られたものなのよ。そして自分を作り替えようとするあなたのつもりだって、それもやはりどこかよそで作られたものなの。ねえ、ねじまき鳥さん、そんなことは私にだってわかるのよ。どうして大人のあなたにそれがわからないのかしら。それがわからないというのは、たしかに大きな問題だと思うな。だからきっとあなたは今、そのことで仕返しされているのよ。いろんなものから。たとえばあなたが捨てちゃおうとした世界から、たとえばあなたが捨てちゃおうと思ったあなた自身から。

ねじまき鳥クロニクル 第2部』新潮社、p167

これは、初期のころにはありえなかったような世界観だ。かつては家族すらなかったのに、今は捨てられない起源が登場する。そしてまた、喪失感も次第に退いていくことになる。主人公たちはもはや人生に絶望していない。彼らは力強く前進しようとする。

しかしぼくは急がない。もうとくに急ぐ必要はないのだ。僕には準備ができている。ぼくはどこにでも行くことができる。

スプートニクの恋人講談社文庫、p317

主人公たちはおおむね社会的地位を持ち、妻子や人生設計まで持つこともあるようになった。もちろん何かは起こる。彼らは失う。だが、取り戻す。あるいは最初から失なわない。それはもはや重大なテーマではない。省略されることの多かった背景も細かく書きこまれる。主人公の分身ではない他者も現われる。初期のころからは相当の変化がある。普通にイメージされる「村上春樹らしさ」はほとんど失われている。

というより、生と死とセックスと暴力に基く人間関係や内面の変化を詳細な背景とともに描くということになれば、それはほとんど普通の通俗小説である。なぜなら、それらは我々が他者に与え、他者から受け取るものの最大公約数であるからだ。政治性や社会性はもとよりない。
だが、村上春樹の小説が「普通」になることは決してない。それは、物語性と自己変革、そして救済というテーマを常に意識しているからだ。それこそが初期作品の遺産であり、一見ありきたりなこの経過が思考の運動の結果として獲得されたことを示す証拠なのである。


壁ぬけと物語性

物語、あるいはナラティヴとは、一定のできごとを特定の順番に並べ、その継起順によって意味を理解すること、あるいはそうした理解のために作り出されたストーリーのことである。初期のころ、主人公たちがそうしたものを持つことはほとんどなかった。彼らが持っていたのはシステムである。非常に孤立した、独自の思考体系だ。あるものを入れると、一定の操作手順をへて別なものが出てくる。だが、中期以降、それがナラティヴに変る*3
人生をストーリーとして理解し、それによって外部または内部から投げかけられる様々なアクシデント(セックスや暴力といったような)に対処し、時としてストーリー性を維持するためにささやかに行動して、最後には救いを得る、そういう行動を登場人物が取るようになるのだ。
ナラティヴが登場するのは、ひとつに生や死というテーマを上手く扱えるからだろう。人の人生には明確な始まりと終りがある。だから、ストーリーとして把握することと親和性があるのだ。
更に、そこには救済というテーマがある。物語を紡ぎ出すことで人は救われるのだ。それは正しさや快適さといった基準の代わりに見出された、村上春樹の中心的なテーマである。ささやかで個人的なものだが、確実に勝利であるようなものだ。人は何のために生きるか。救われるためなのだ。

 しかし私はあなたにどうしてもこの話を語りたかったのです。語らなくてはならないと私は感じたのです。手紙をお読みになっていただければおわかりになるとおり、私は完膚なきまでに負けたものであり、失われたものです。いかなる資格も持たぬものです。予言と呪いの力によって、誰を愛することもなく、また誰からも愛されることのないものです。私は歩く抜けがらとしてこれから先、ただ闇の中に消えていくだけです。しかし、この話を岡田様にようやく引き渡せたことによって、私は少しは安らかな気持をもって消えていくことができるような気がします。

ねじまき鳥クロニクル 第3部』新潮社、p417

ねじまき鳥クロニクル』では、登場人物たちがそれぞれに自分の状況や人生を文章にし、それによって救われる。しかし、それは語りによって何かが伝達されるからではない。ナラティヴはあくまでもシステムの発展形なのだ。

「君の手紙?」と僕は言った。僕にはわけがわからなかった。「悪いけど、手紙なんてこれまでにただの一通も受け取ってないよ。君から連絡がないから、僕は君のお母さんに連絡して、ここの住所と電話番号をやっと教えてもらったんだ。そのためにはいろんなろくでもない嘘をつかなくてはならなかったけど」
「やれやれ、なんてことかしら。私はぜんぶで五百通くらいねじまき鳥さんに手紙を書いたのよ」と笹原メイは天を仰いで言った。

ねじまき鳥クロニクル 第三部』新潮社、p491

整理しよう。まず放棄されたのは既存の価値体系だった。その代替物として独自の価値観が示され、その先にあるものとして救済が見いだされる。それは正義や愛に代って人生の目的として発見されたものだった。そして、価値観がナラティヴに置きかえられるのだ。
このプロセスが受け入れられるかどうかは正に好みの問題ということになるだろう。救済に価値など見い出せないという人はいるだろうし、いて当然である。だが、僕はこの流れはある意味で必然のことなのだと思う。最初に徹底した反逆が選択されたら、救いに行きつくしかないのだ。

とはいえ、単なる救済ではない。もうひとつのテーマ、壁抜けが常に含まれているからだ。

村上春樹独自の用語であるのプロセスは自己変革、思考体系の再編成を意味しているのだと思う。多くの作品で、主人公たちは壁抜けを行なう(初めのころは、実際に壁を通り抜けるというシーンが描かれていたものだ)。最近になって壁や井戸こそ消えたものの、主人公たちがかならず一度向う側にいくという構造は維持されている。
ナラティヴを再編するためには、一度現実から離れなければならない、そういうことが表現されているのだろう。なぜ再編が必要なのか、現実に対応するためだ。いかなることであれ、現実に起っていることに対処するためにそれはなされる。そのことは失なわれない。

そして山あいの小さな世界は視界から消える。それは夢と夢のはざまに飲みこまれてしまう。そのあとは森の中を抜けることだけに意識を集中する。道を見失わないこと。道からはずれないこと。それがなによりも重要だ。

海辺のカフカ 下』新潮社、p386

記憶と共同

そして最近、村上春樹はまた新しい領域へ入り始めたように見える。そのひとつは他者だ。共にいてくれる他者、話を聞いてくれる他者の必要性。

私はこの人と一緒に生きるとはできないだろうと順子は思った。私がこの人の心の中に入っていくことはできそうにないから。でも一緒に死ぬことならできるかもしれない。

「アイロンのある風景」『神の子どもたちはみな踴る』新潮社、p66

パートナーの存在など、もちろん当り前すぎることだ。だが、重要なのはひとつの運動の果てにそれが見えてきたということなのだ。口当たりのいいキャッチフレーズを引っ張ってくるのとは違う。

そしてもうひとつが記憶の問題だ。引用だらけになってしまうので、『アフターダーク』からの引用だけにする。

人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、一万円札やろうが、火にくべるときはみんなただの紙きれでしょ。火の方は、『おお、これはカントや』とか『これは読売新聞の夕刊や』とか『ええおっぱいしとるな』とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役に立たへんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料

アフターダーク講談社文庫、p250

正直なところ、これら新たな展開のきっかけなのかもしれない、という気はする。ナラティヴの継起性すら否定しているような雰囲気がなくもないからだ。だが、ここではとりあえず物語が一人一人に固有でなければならない、という主張に取っておくことにする。


駆け足でやったにもかかわらず、ずいぶん長くなってしまった。とりあえずハルキシステムの現在の到達点がこれだ。固有の価値観を追い求めることにはじまり、独自のナラティヴの編成を通じての救済と他者との共同に収まる流れ。個人をベースにして、何かを達成しようとするセオリー。

問題は、それをどのように現実社会に適用するかである。

*1:もちろん、それだけが小説のテーマであるというわけではない。

*2:肯定的にふるまわないなら話は簡単だ。彼はニヒリストになる。柄谷行人は初期の村上春樹に対して、まさにそのような批判を投げかけたのだった。

*3:もちろん、物語性そのものはもっと以前から登場しているのだが。