いじわる言ってみる

じゃかじゃ〜んっ。
みなさまゴールデンウィークはいかがお過ごしでしたか。私はほぼすべて予定が埋まり、傍目にはひがまれそうなくらい文化的に充実した一週間でした。いやー楽しかった!が、それに反比例していくかのようにメンタリティが暗くよどんでいき(おもに進路について考え始めると…って、働くしかないんだけどその方法がまだまだみえないのです)、もう今週末はぜったいぜったいゆっくりすることを誓いました。
5月2日はモテキナイトに行ってきました。出演者がものすごく豪華でした。青春狂走曲とテレフォン・ラブをみんなで歌えたのがよかった!大トリはスチャダラパー森山未來今夜はブギー・バックで、夢のなかにいるみたいでした…。幸せだった…(この映像、こんどの映画に使われるらしい。藤本幸世の妄想シーンかなんかで)!それにしても日比谷野音、見たかったな。しつこいですね。
地震のあとのもやもやした気分、というかもっとはっきり言っちゃうと原子力発電への違和感を、スチャダラパーがけっこうストレートに表現していたのにびっくりした。「水銀、コバルト、カドミウム〜」って曲(ゴジラの挿入歌?)とか、「ジャカジャ〜ン」とか、この気持ちを全員で歌おう!みたいな。単純に音楽が気持ちよすぎて、めちゃくちゃ楽しかったです。
で、このあいだ高円寺のデモを見物に行って、自分があまりにこの問題にコミットしていないことをひしひしと感じてしまったんだけど、ひょっとして今スチャダラパーの曲で踊っている感じは、デモに参加していた人たちの気分と似ているんじゃないかな、と思った。
地震が起きるまでは「投票行動だけが政治じゃない、デモという選択肢だって同じように意見を表明する場だ」なんて考えていたくせに、いざ高円寺で反原発デモを目の当たりにすると「うわ、私とは違う人たちだ」としか思えなかった。多少なりとも大学で政治学を専攻して、弱い者がどう声をあげていけばよいのか、結論は出ていないにせよ考えている身にとって、それはなかなかショックなことでもありました。頭では「デモっていいなあ」とか考えても、身体感覚が拒否してしまっているじゃない。
でも、私はスチャダラパーとかフロアと一緒に「異議あり異議あり!」と叫びながらぴょんぴょん跳ねていた(そういう歌詞の曲なのです)。ただ、同時に「異議なんかないかも…」なんてうすぼんやりと考えてもいた。
原発事故があったとき、私は東京電力も政府も批判しようとは思えなかった。真っ先に案じたのは、現場で作業をする人のことだった。どうして彼らは「決死隊」なんて呼ばれるようなことをしなきゃいけないか、というと、それは私のせいだと思った。反原発の言論があることは知っていたのに気に留めず、なにも知ろうとせず、ただただ不自由なく便利な生活を享受していた自分が、いちばん責めるべき存在だと感じた。というか、自分で自分のことを責めないと、自分だって「東電の被害者」の一部になってしまうような気もする。それはちがうんじゃないの。
原子力発電は、「なんかおかしい」と思う。こういう、専門家がじっくり解説してくれないと(くれても)まったくわけのわからないものに寄りかかって、生活しなくてはいけない。人間はずいぶんおかしなほうに来てしまったものだと愕然とする。2000年問題のときもちょっと思ったけど。
「なんかおかしい」という気持ちを表明することに異論はない。私みたいに、この事故で初めて意識した人だってたくさんいるわけでしょう。
ただ、その「なんかおかしい」という集団の気分が「東電あやまれ」みたいなことばに回収されてしまうのは、私は受け入れられませんでした。「東電と政府」という大きな敵を立てて、わかりやすいキャッチフレーズを繰り返す。デモがそういうふうに成り立っているはわかる。わかるけど、これまで何十年も原発関連の仕事をしてきた地元の人はどうなるの。原発がまったくダメなものだったら、誰も導入なんてしないでしょう。東京電力と「私たち」のあいだには、正義でも悪でもなく、原発と生きてきた人たちがいる。そして、そういう視点が、東京にいる私たちから抜け落ちているように感じる。たとえそれを意識していたとしても、デモで表出されるのはもっと上澄みの意見だ。やっぱり少し怖いな、と思ってしまう。デモの雰囲気はピースフルで、DJがいたりして、一種の「お祭り」みたいだった。でも、いくら楽しくやっても、主張は主張なわけでさ。
だからね、「異議あり!」って叫ぶのは楽しかったけど、「気分」をエクストリームな言説に集約してしまうことには、ちょっと、異議あり、なのです(うまいこと言った)。
私が大学に入った春に、胡錦濤が講演に来た。大学前の通りは「Free Tibet」を主張する人で溢れ返った。「大学ってこんなに政治的なところなのか…」と18歳の私は思った。まあ、他の大学ではそんなことないみたいですが…。
当時、mixiネームに「@FreeTibet」をつける人が本当にたくさんいた。あれから3年がたって、相変わらずチベットは自由じゃないけど、「@FreeTibet」はほとんど消滅したよね。いつ、どういう事実をもって、その人の中で「チベット」は終わったんだろう。「プロフィールを変更する」をクリックする。名前の欄にカーソルを合わせる。バックスペースキーを叩く音が響く静かな部屋を、なんとなく想像してしまう。いじわるでごめんなさい。
結局、ぜんぶぜんぶかやの外だよなあ、と思ってしまう。普天間も、伊達直人も。安全なところにいる私たちは、その安全な場所から、たくさんある問題に優先順位をつけてしまっている。それ自体は構わない。でも、いっときだけ盛り上がって、そのうち忘れてしまうのは、まちがっていると思う。私たちが見なくなっても、当事者にとって問題だったら、その問題は続いている。
原発は、東京も放射能汚染の危険性がある(っていうかもう危険なのか?)から、ちょっと別の話かな。でも、10年先に完全に脱原発していることはおよそありえない話で、そのときに今と同じだけの人が原発について考えているのかというと、かなり怪しいんじゃないかと私は考えている。
話がどんどんぐちゃぐちゃになってきてしまいました。
おおぜいの「気分」をひとつの大きな主張にまとめてしまうことはちょっと危ない気がする、というのと、そのときどきの政治問題を、ことばは悪いけど「消費」するのはよくないよね、ということがいいたかったのです。
自己満足かもしれないけど、私は定期的に日本赤十字社義援金を送金することにしている。額はほんのちょっぴり。でも、終わらせないことが大切なのかな、と思う。
それにしても、デモとか見るたびに思うんだけど、ああいう「活動家」(というのか?)ってどうしてデニムシャツにジーンズ履いているんだろう…。
あとスチャダラパーのCDぜんぶ聞きたくなった…。