上野千鶴子氏による「少年愛」の読解(3) 少年はフェミニズムのために生まれたのではない

lepantoh2006-09-21

さて、最終日、いよいよ本題でございます。昨日分では上野氏のジェンダー用語の不安定性を指摘しつつも、その内容そのものは全否定しないという態度をとりましたが、今日は少し手厳しくいきたいと思います。

少女漫画における少年愛の読解が足りず、少年愛作品そのものの変貌を看破できていない問題

上野氏はこの文章の冒頭で、自分が少年愛の文化より一世代前であることなどから、外国人や歴史家のようにこの問題を扱うとしています。それならば、いくつかの作品を読んだ者としてそれを補完するべきでしょう。


まず、「ジェンダーレス・ワールドを性差レス・ワールドと置き換えてもまだ、少年愛ものはジェンダーレスであったということができるか」という問題についてお話します。
そもそも、少年愛の世界は「ジェンダーレス(語義ママ)・ワールド」ではありません。たとえば、『トーマの心臓』のトーマ・ヴェルナーはフロイライン(お嬢さん)と呼ばれています。これは、彼がギムナジウムで少女的なジェンダー・ロールを担っていたことを意味しています。これは私にとってはジェンダーの発生です。二項的なジェンダーの意識に呪縛される者は、それを見誤るかもしれません。
つぎに、「性差レス・ワールド」についてです。ここでの性差の意味は(昨晩読み解いたものと違い、おそらく一般的であろう)「身体的・社会的・心理学的に見られる特定の性別およびジェンダーに有意に見られる兆候」としておきましょう。さて、少女漫画の中でもっとも根本的でかつ基本的であり、批判を受けない原理とは「美の格差」ですが、これは少年愛の物語にも色濃く反映され、とりわけ『風と木の詩』『摩利と真吾』に顕著です。そして、そのジェンダーロールを見ていくと、その中にはいくつかの(生物学的)ジェンダー間の性差≒美の格差、が見られるように感じられます。これまた、二項的なジェンダーの意識に呪縛される者は、それを見誤るかもしれません
以上の総括から、私がはっきりといえることは、上野氏が指摘する「ジェンダーレス・ワールド」とは、何のことはない、私にとっての単一性社会だということです。あえて英語にするなら、ユニセックス・ワールドとでもなるのかもしれません(が、その対象に女性が含まれないので却下)。つまり、上野氏は散々と間違ったジェンダーの定義を持ち出して説明しますが、ここで問題なのはジェンダーレスなことではなく、性別、セックスが同じという生物学的な大前提にほかなりません。それが、対等な関係を生むカギであるからです(後述)。



レイプされるジルベールコクトーに、あなたは感情移入できますか

さて、昨日のエントリからの問題、「二項的ジェンダーがこの世を支配しているというのは間違いではないでしょうが、世間と『少年愛もの読者』の分離が出来ていない」という問題に移りましょう。
上野氏の少年愛ものの読解の仕方は、以下の一節に端的に表れています。

ジルベールは〈女〉である。だが読者の少女はジルベールが「異性」であることで、彼に同一化する苦痛を味わうことなしに、性的な身体の受苦を、外から観察できることができる。これは特権的な視線である。
同性愛漫画でしばしばSMがテーマになるのはそのせいである。木原敏江の『銀水晶』[木原 1988]はその典型である。(中略)マゾヒストの主人公に同一化する少女の心理的機制を、彼が同性愛者だという約束ごとが妨げる。(p.140)

最後の一文などいかにも自称元・同性愛差別主義者の上野氏らしいかぐわしさです。
上野氏がこの一節を抜き出す動機に、『風と木の詩』が少女漫画史に残る大胆なベッドシーンを描いたからだ、というものが見て取れます。しかしながら、少年愛一般=性的表現の解放、と見做す上野氏の解釈はあまりに短絡的で早計でしょう。それでは、残りの少年愛代表作品、『トーマの心臓』でのユリスモールの異様なまでの恋愛潔癖ぶり、『摩利と真吾』の真吾の摩利に対する態度、『日出処の天子』のついぞ実体では結ばれなかった二人などは一体どうなってしまうのか、と問いただしたくなります。これについて、藤本氏は少年愛が「純粋な関係性のみを問題にしえた」と述べるように、それに倣い「性愛のみを問題にしえた」ということは出来るかもしれません。しかし、上野氏のように少年愛は魂の触れあいであるより前に、肉体的な触れあいである(p.139)」と、一部の作品を一般化して何もかもがぶっ飛んでいることを言うのは不可能です。エロ化した『少女コミック』の一部作品になら可能でしょうけれど。


さて、ここで、上野氏はジルベールの痛みを引き受けることがないと告白しているのですが、それは間違っているように思えます。上野氏がなぜそのような感想を抱いたのか、想像してみるに、おそらく彼女自身が二項性に囚われているからではないでしょうか。言い換えれば、彼女は漫画から何かを学んだり、得てそれを血肉化しなかったということです。私は、冒険文学が好きだった幼いころからそうでしたが、少年漫画・少女漫画の影響もあり、今でも読み手としてのジェンダーを、作品を読む際に、上野氏ほど持ち込まないようです。もちろん、そんな私には、「私は女だから(第三の性である*1ジルベールの痛みを引き受けなくてすむ」という物言いは非常に奇妙で深いなものとして映ります。単一性社会に憧れを持つものとして、現実の自分の性自認を、(読書時だけでも)そこに馴染むようにゆるやかに変化させるのは当然のことです。
私はジルベールをいとも簡単に体内化できますし、それが自分ひとりの偏った読みでないことを証明できます。その証拠こそが、なぜか上野氏がさっぱり触れていない一連の少年を主人公とする作品群です。



少年愛のみを語らずやおい少年愛を混同し、また少年愛のみしか語らず少年主人公に言及しないのは何故か

このようなジルベールへの不理解の原因は、この論文で語られていない部分にこそありました。上野氏はこういいます。「美少年漫画が本来的には男性同性愛漫画である(p.129)」と。しかしながら、この理解が正しいといえるのは、「70年代の美少年漫画」という限定条件の下だけです。


80年代の「少年主人公」は、それまでと全く違った意味を持ち出します。たとえば萩尾望都トーマの心臓』の人気キャラクター、オスカー・ライザーの少年時代を『訪問者』で悲劇的に描き出し、また去勢されたマーリーが宇宙と時空を旅する銀河叙事詩SF『銀の三角』を描き、そしてなんといっても、異性愛者であり、様々なジェンダーを投影させられる、女名を持つ少年のものがたり『メッシュ』を一気に描き始めたのが1980年という時代でした。『メッシュ』を境に、少女漫画の少年/男性主人公は大きく変わってしまったのです。その流れを汲む作品は、銀の髪・銀の瞳を持つ賢く美しい神官を主人公に世界の前史を描く『夢見る惑星(80)』をはじめ、『マルチェロ物語(81)』、『エイリアン通り(80)』、『エリオットひとり遊び(82)』など枚挙に暇がないほど指摘できます。
詳しく知りたい方は、『メッシュ』精読および少女漫画の70年代―『メッシュ』以前をご参照くださいまし。


さて、このような歴史理解が欠如した状態の上野氏は、それゆえ『マージナル』を引き合いに出して自身の「第三の性」説を補強しようという重大な過ちを犯します。『マージナル』は86年の作品です。つまり、萩尾望都『メッシュ』をすでに通過している。彼女が差し出す色子制や第三の性は、まさに“病んだ地球”としてのそれであり、彼女はその復活を、母性と女性の回復をこそ志すのです。よって、このテキストにおいて『マージナル』に言及された部分はすべて意味をなしません(しかしながら、散々言ってきたように、70年代のという限定つきであれば、有効な指摘も存在するのです。しかし問題は、読み手にそのことがわかりづらい状態で、有効な提言と無効な読解が混在しているというこのテキストの気持ち悪さです)。


このように、少女漫画の進化性、歴史性、分断性と継続性に理解を示さない上野氏は、「70年代のギムナジウム少年愛」「80年代以降の主体性の表出としての少年とその敗北」、さらにはそれに続く「90年代の敗北からの回復と脱出」という別々のファクトが“別々である”ということに気付いていません。そしてさらに、そこから派生した「やおい」もまた、もはや「70年代のギムナジウム少年愛」とは“別物である”ということに気付いていません。それなのに、上野氏は、なぜか同じ作家が書いた80年代の作品には言及せず、「やおい」には言及するという態度を取ります。


わたしはやおいは門外漢なので、ここでは多くを語りませんが、大塚英志とのやおい論争において争点になったのは、その少年が「第三の性」であるゆえ性欲の対象ではない、といった上野氏の主張だったようです。その際問題となるのは、男性が性の対象とならないことではなく、上の引用部分から見て取れるように、そもそも上野氏が「女性だから男性第三の性=少年*2の感情を引き受けない」という立場であることが、この論議の中核となると思いました。わたし個人にとって、やおい少年愛の少年たちに感じる感情はまさしく共感と憧憬にほかなりませんし、作者にとっても同様であったがゆえ、『メッシュ』や『訪問者』のような痛々しい作品を少年を主人公に書く必要があったのだ、と断言できます。
上野氏が引用する少女漫画たちが、少年愛「葛藤」や「対等」を求めているというのは、やおい少年愛の差を読み解く大きなヒントであるように思えます。私にとって少年愛とは断絶と拒否の美学です。いっぽうやおいは、最終的には「くっつく」ことを目的に作られているという点が大きく違うように思えます。また、現在のやおいが「対等」であるかは私には疑問です(しかしながら、対等であれば良いという思想を持ち合わせているわけではないので注意してください。やおいが対等ではないため劣っているといっている訳ではありません)*3



以上でこの批評は終わりです。このように、参考になる部分を上手く嗅ぎ分けるのが、このテキストと上手く付き合う鍵です。しかしながら、私はそれを読者に要求するのはあまりに酷だとも感じます。語彙の誤用、ジャンルの不理解、一般的でない読解。私には、それがフェミニストによって、フェミニズムの論理に当てはめるために、フェミニズムの方法(しかも間違った)を持ってなされたという不快感が付きまといます。実際、この文章を発端に、少女漫画は、いつのまにか「いびつなジェンダーレス」を志向するものとして評論に位置づけられてしまうのですから。



まとめ/あとがき

時間ばかりかかる割に人気がないのでここで打ち切ります(どーん)。
今回はテキストを読み解いただけで、このテキストを使って少女漫画そのものを評論するということはしませんでしたが、このテキストへの反論のひとつとして、いつか誰かのお役に立てれば幸いです。

*1:コメント欄の指摘をうけて追記

*2:コメント欄の指摘をうけて訂正

*3:もしかしたら、やおいストさんは性別的には対等でありながら、恋愛において対等ではないという部分に萌えているのでしょうか? その気持ちはすこし分かる気がします