「こくご はいしろん じょせつ」への ほそく

 まえに かいた こくご はいしろん じょせつという きじに 2どほど id:ma_zuさんから コメントを いただいて おりました。いそがしくて のびのびに なっていた ふたつめの コメントへの おへんじを かこうと おもいます。コメントらんに かくつもりが、だいぶ ながくなったので、あらたに エントリを たてる かたちで こちらに アップします。
 いかは ma_zuさんより いただいた ふたつめの コメント。

返信ありがとうございます。
エントリを読んだのですが結局「なぜ漢字をなくすべきなのか」がよく理解出来なかったので、質問しました。
公用語としての日本語教育を廃止したい旨はわかりましたが、その場合の言語教育をどうするのか?(英語なり他の言語を公用語とするのであれば、ひらがなは不要では?) いずれにせよ、コミュニケーションにおいては用いる言語に対する共通認識が必要であり、漢字を廃止したところである程度の「規範」に乗っ取った形態になる必要はあるのでは? といった疑問があります。
漢字が無事廃止されたところで、今度はひらがな分かち書きの共通ルールが徹底され、そのルールの下「君の日本語はおかしい」と言われるだけだと思うのですが。


いずれにせよ、コミュニケーションにおいて必要なのは相互共通認識であり、社会が一対一の関係のみでは完結しない以上、ある程度の社会通念的共通認識がそこには必要となるわけで、漢字を廃止したり、日本語を廃止したところで、「標準」が定められる限りそこから外れた物は「正しくない」と言ってしまえると思うのですが。
逆に「標準」を定めないのであれば、言語は各々好き勝手な定義・用法で用いられることになり、コミュニケーションは完全に断絶することとなってしまうのではないでしょうか。


 わたしの きじについて 2てん ほど ごかいが あるようです。
 まず だい1に、わたしは かんじの 「はいし(廃止)」などと いうことは いって おりません。だい2に、わたしが はいしすべきだと しゅちょうしているのは、こくご(としての にほんご) および こくご きょういくであって、「こうようご(公用語)としての にほんご(にほんご)」の はいしとは いって おりません。
 ma_zuさんが どのような いみで 「こうようご」という わたしの きじでは つかってない ようごを もちだされているのか わかりませんけれど、わたしが りかいするところに よりますと、すくなくとも せんご(戦後) にほんの げんご せいさく(言語政策)において、「こうようご」という はっそう じたい、あった ためしが ありません。せんご にほんの げんご せいさくでは、にほんごのみが 「こくご」としての とっけんてきな いちづけを あたえられており、にほんご いがいの げんご きょうどうたいは じじつじょう むしされてきたと いえると おもいます。
 こっかの げんご せいさくの ねっこ(根幹)を なすのは がっこう きょういくだと いって よいでしょうが、そこでは がっこうに かよう すべての じどう・せいとに 「こくご」としての にほんごの がくしゅうが むりじいされて います。がっこうを はなれた せいかつに おいても、にほんごの よみかき*1が できないと さまざまな ふりえきを こうむるような しくみに、こんにちの にほん しゃかいは なっております。この いみでも、げんごにおいては 「こくご」としての にほんごが、その ひょうき(表記)においては かんじ・かな まじり ひょうきが、きょうせい(強制)されていると いえるわけです。
 なお、わたしが こくごの はいしという しゅちょうに こめている もんだい いしきは、おおきく わけて ふたつ あります。ひとつは にほんごの ひょうきの もんだいです。「にほんご=こくごは こう かかなければ ならない」という きはんとして、ふひつように めんどくさい かんじ・かなまじりの ひょうきが おしつけられていること。もう ひとつは げんごの もんだいです。つまり、「こくご」として にほんごのみが とっけんてきに きょういくされ、また ほごされ、したがって にほんご いがいの げんごの つかいて(話者)が はいじょされる しくみに なっていること。
 さきの わたしの きじでは、ふたつめの げんごの もんだいについて かく じゅんびが まだ できていない こともあって、ほとんど ひとつめの ひょうきの もんだいばかり あつかいましたが、わたしが 「『こくご』としての にほんごを はいしする」ことを ていあんしたのは げんごとしての にほんごを とっけんてきに あつかうのを やめましょうという いみでもあります。
 そういうわけで、「かんじを はいししよう」とか 「かんじを まなんだり つかったり することを きんししよう」とか しゅちょうしているのでは ありません。かんじを つかいたい ひとは そうすれば よいでしょうし、かんじを まなびたい ひとは どうぞ ごじゆうに こころゆくまで まなんで くださいと そう おもいます。わたしは 「こくご」の なの もとに きはんてきな げんごとして にほんごを きょうせいすること、また きはんてきな ひょうきほうとしての かんじ・かなまじりぶんを まなび つかうことを きょうせいすることに はんたいしているのです。
 すなわち たんに むりじいは やめましょうと いっているのであって、わたくしの しゅちょうは きわめて おだやかな ものだという ことが ごりかい いただけると さいわいに ぞんじます。
 いじょうを ぜんていに しまして、うえで いんようした、ma_zuさんから いただいた コメントに おへんじ いたします。

公用語としての日本語教育を廃止したい旨はわかりましたが、その場合の言語教育をどうするのか?(英語なり他の言語を公用語とするのであれば、ひらがなは不要では?) いずれにせよ、コミュニケーションにおいては用いる言語に対する共通認識が必要であり、漢字を廃止したところである程度の「規範」に乗っ取った形態になる必要はあるのでは? といった疑問があります。
漢字が無事廃止されたところで、今度はひらがな分かち書きの共通ルールが徹底され、そのルールの下「君の日本語はおかしい」と言われるだけだと思うのですが。


 わたしの ていあんが じつげんされた あかつきには こくご きょういくが はいしされる ことに なりますので、「ひらがな分かち書きの共通ルールが徹底され、そのルールの下『君の日本語はおかしい』と言われる」しんぱいは とりあえず 「ない」と おもいます。
 また、「その場合の言語教育をどうするのか?」という ごしつもんに つきましては、こっかは げんご きょういくから てを ひけ、というのが わたしの かんがえです*2
 ただし、ざんねんながら すぐに こっかによる げんご きょういくが はいしできるとは おもえません。ので、とうめんは できるところから こつこつと、つぎのような げんご せいさく(言語政策)を じつげんして いくべきだと かんがえています。

  1. こくないの じゅうみんに きいて きぼうの あった げんごを かたっぱしから こうようご(公用語)に していして ゆくこと。
  2. こっかは こうようごに していした すべての げんごについて、きぼうする ひとに その げんごでの きょういくを ほしょうし*3、また せいかつじょう ひつような てつづきなど(やくしょでの てつづきや うんてん めんきょの しけんなど)を きぼうする こうようごを つかって できるよう かんきょうを せいびすること。
  3. にほんごの いちづけは 「こくご」から いち「こうようご」に かくさげし、これを とっけんてきに あつかうのを やめること。


 いわば、とうめんは たげんご しゅぎ せいさくを てっていてきに おしすすめましょうということです。しかし、たげんごしゅぎを とる ばあい、りねんてきには 「かたっぱしから」「すべての げんご」を れいがいぬきに あつかうことが とうぜん もとめられるわけですが*4、げんじつには 「どの げんごを こうようごに していし、どのげんごを していしないか?」という せんたくが、せいじ けんりょくによって おこなわれることに なるでしょう。
 また、このようにして 「していすべき こうようごを せんたくする」という てつづきは、「げんごは かぞえる ことの できる ものだ」という ぜんていに もとづいて おこなわれる ことに なります。つまり、げんごを 「りんかくを もった ひとまとまりの もの」として あつかう ことに ならざるを えないと いうこと。というより、「していすべき こうようごを せんたくする」という てつづきが げんごを りんかくづけて しまうのだと いったほうが せいかくでしょう。このため、りんかくづけられた それぞれの げんごの つかいて(話者)たちの あいだに けいんりょく かんけいが はっせいして しまいます。たとえば 「にほんご」と りんかくづけられた げんごの つかいての ないぶに 「より ひょうじゅんてきな にほんごの つかいて/ひょうじゅんから はずれた にほんごの つかいて」といった かくさが しょうじて しまいます。そして、その りょうしゃ(両者)の あいだの コミュニケーションにおいては 「ひょうじゅんから はずれた にほんごの つかいて」が 「より ひょうじゅんてきな にほんごの つかいて」に いっぽうてきに あゆみよることが もとめられるという、ふびょうどうな かんけいが できてしまうのです。
 したがって ma_zuさんの しんぱいなさっている 「きみの にほんごは おかしい」と いわれてしまう じょうきょうを なくして いくためには、こっかによる たげんごしゅぎ せいさくでは ふじゅうぶんです。こっかによる げんご せいさく そのものを はいしすること、もっと いえば こっか そのものを はいしすることが ひつようなのです。
 では、つぎに ma_zuさんに いただいた コメントの こうはん ぶぶんについて。

いずれにせよ、コミュニケーションにおいて必要なのは相互共通認識であり、社会が一対一の関係のみでは完結しない以上、ある程度の社会通念的共通認識がそこには必要となるわけで、漢字を廃止したり、日本語を廃止したところで、「標準」が定められる限りそこから外れた物は「正しくない」と言ってしまえると思うのですが。
逆に「標準」を定めないのであれば、言語は各々好き勝手な定義・用法で用いられることになり、コミュニケーションは完全に断絶することとなってしまうのではないでしょうか。


 「いずれにせよ、コミュニケーションにおいて必要なのは相互共通認識であり、社会が一対一の関係のみでは完結しない以上、ある程度の社会通念的共通認識がそこには必要となるわけで」までは わたしも どういします。しかし、その 「そうご きょうつう にんしき(相互共通認識)」を かのうに するために 「ひょうじゅん」を さだめることが ひつようだとは かならずしも いえないと おもいます。
 この てんは いずれ じっくり かんがえたいと おもって いまして、さきの わたしの きじでも、さいごの だんらくで つぎのように もんだい ていきを して おります。

 もうひとつ かんがえたいのは 「こくご(および こくご・きょういく)を はいししましょう」と いったときに よそうされるはんろんについて。まあ、「そんなことを したら にほんの くにの なかで ことばが つうじなくなってしまって こまるだろうが」というはんろんは あるでしょうね。しかし、その ばあいの 「つうじる」とは いったい どういうことなのだろう? いまげんざい 「にほんご」が「こくご」として にほん ぜんこくで 「つうようしている」のだという いいぶんを かりに みとめるとして、その 「つうようしている」とは どう「つうようしている」ことなのか? そして、その ひろく(?)「つうようしている」ということを ほんとうに てばなしで 肯定して よいものなのか?*5


 わたしが いじょうの もんだい ていきを したのは、ma_zuさんの いうような 「ひょうじゅん」を さだめないと コミュニケーションが だんぜつ(断絶)して しまうという かんがえを こんぽんてきに うたがって みる ことが できると かんがえて いるからです。
 まず、れきしてきに みて、かんぶん(漢文)の ような、とっけん かいきゅうの どくせんぶつであることが うたがわれることの なかった かきことばは べつとして、すくなくとも はなしことばにおいて こっかてきな 「ひょうじゅん」を さだめることが くわだてられるように なったのは、にほんにおいては めいじ じだいより あとの ことです。それぞれの ちいきごとに はなされていた たような げんごを 「にほんご」という カテゴリーで くくり、その 「ひょうじゅん」を おしつける ことを はじめたのは、めいじの てんのうせい こっかに ほかなりません*6。なお、この えんちょうせんじょうに しょくみんちでの こうみんか せいさく(皇民化政策)が あります*7
 では、「ひょうじゅん」としての 「こくご」が おしつけられるように なる まえの じだいに おいて、ma_zuさんの いわれるように 「コミュニケーションは かんぜんに だんぜつ」していたでしょうか? むろん、おたがいの げんごの ちがいが おおきければ、その おおきさに おおじて コミュニケーションの むずかしさが あり、「いいたいことが あいてに つたわらない」あるいは「あいての いってることが わからない」ということが おおく あったでしょう。しかし、「かんぜんに だんぜつ」していたかと いえば、そんなことも ない はずです。
 わたしたちは コミュニケーションに さきだって、あるいは コミュニケーションの さなかにおいて、おたがいに あいての ことばを まなぶことが できるからです。おかみの さだめる 「ひょうじゅん」など なくても、その いし(意思)さえ あれば、おたがいが あゆみよる ことで コミュニケーションの かのうせいは ひらかれる はずです。
 ma_zuさんは、「『標準』を定めないのであれば、言語は各々好き勝手な定義・用法で用いられることになり」と おっしゃります。たしかに、あいてと コミュニケーションを する いしが ないので あれば そうなるでしょうね。しかし、あいてを そんちょうして その ことばに みみを かたむけ、また あいてに つたわるような ことば・ひょうげんを もさくする いしと しせいが あれば、そこに コミュニケーションの かのうせいは ひらかれるでしょう。
 こっか けんりょくの さだめる 「ひょうじゅん」が なければ みんなが すきかってを はじめて コミュニケーションの だんぜつが おこって しまうというような かんがえかたは、わたしたち じしんの いしと しせいを みずから おとしめる ものであり、てんけいてきな 「どれい こんじょう」と いわなければ なりません。


 いじょう、「ほんとうに 『ひょうじゅん』を さだめないと コミュニケーションが だんぜつして しまうのか?」という てんを うたがたって きた わけですが、はんたいに こう とうて みる ことも ひつようでしょう。「『ひょうじゅん』を さだめる ことで コミュニケーションが スムーズに なるとは どういう ことなのか?」「『ひょうじゅん』を さだめる ことは つねに コミュニケーションの だんぜつを かいひする こうかを もたらすのか?」と。
 わたしは とうほく ちほうの しゅっしんですが、90さいを すぎた そぼの はなす ことばを あまり うまく りかいする ことが できません。ずっと はなれて くらしてきたという ことも ありますが、わたしの はなす 「ひょうじゅんご」に ちかい げんごと、そぼの はなす 「ひょうじゅんご」から とおい げんごの あいだの きょりが おおきいためでも あります。
 とうほく ちほうでは いっぱんてきに いえることだと おもうのですが、わかい せだい ほど、がっこう きょういくや テレビなどの マスメディアの えいきょうで 「より ひょうじゅんごに ちかい げんご」を はなします。というか、それしか はなすことが できません。はんたいに、としよりほど ふるくからの ちいきの げんご、すなわち 「より ひょうじゅんごから とおい げんご」を はなします*8
 このように 「ひょうじゅん」を さだめることによって、コミュニケーションが スムーズに いくどころか、かえって だんぜつが おこるという じじつは そんざいする わけです。しかし、この てんで、わたしの そだった とうほく ちほうは まだ マシな ほうでしょう。アイヌや おきなわ、ざいにち ちょうせんじんや ざいにち ちゅうごくじんの コミュニティでは、もっと ずっと しんこくな だんぜつが おこってきた はずだし、げんに おこっている はずです。
 そして、わたしが そぼと はなすとき、そぼは わたしに あわせて、かのじょが ふだん としより どうしで はなす ちいきの ことばよりも より 「ひょうじゅんご」に ちかい ことばで わたしに はなしかけます。このように、「ひょうじゅん」を さだめることで コミュニケーションが スムーズに なるというのは、なんのことは ない。「『ひょうじゅん』から とおい げんごの はなして」が 「『ひょうじゅん』に ちかい げんごの はなして」に いっぽうてきに あゆみよる*9ことで かのうに なるものに すぎないのです。
 10ねんぐらい まえに わたしは ゆうじんたちと かんこくを りょこうしたことが あります。キョンジュ(慶州)という まちの やどの しゅじんに わたしたちは しんせつに して いただいたのですが、その ねんぱいの しゅじんは りゅうちょうな にほんごを はなす ひとでした。その きおくが あって、わたしは まえの きじの さいごに さっき いんようしたように 「そして、その ひろく(?)『つうようしている』ということを ほんとうに てばなしで 肯定して よいものなのか?」と かいたのです。あいてに いっぽうてきに また ぼうりょくてきに 「こちらに あわせること」を しいることで かのうになるような、ことばが 「つうよう」してしまうという じたい(事態)。これを てばなしに こうてい(肯定)する わけには いきません。
 だから、ことばにおいて 「ひょうじゅん」を さだめることを はいししなければ ならないと わたしは かんがえます。それは こっかは げんご せいさくから てを ひけと いうことでも ありますが、そのまえに、また それと どうじに、わたしたち じしんが げんごに おける 「ひょうじゅん」という はっそうから じゆうになることが ひつようです。それは じっせんてき(実践的)には たすうしゃが しょうすうしゃの げんごを まなぶという ことぬきには ありえないでしょう(この てんに ついて わたし じしん げんじょうでは なにも できていないので、こんなことを いうのは はずかしいかぎりなのですが)。
 くりかえしますが、「ひょうじゅん」が かのうに する コミュニケーションなどというのは、マジョリティが マイノリティに いっぽうてきに ふたんを おしつけることで かのうに なっている ことに ほかなりません。「ひょうじゅん」など なくても、おたがいが たいとうな かんけいに ある もの どうしとして あゆみよる ことで、コミュニケーションの かのうせいは ひらいて ゆくことを めざしたい ものです。


 ぜひ たくさんの ひとに よんでもらいたい きじ。
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「ありがたい」ということ。 - hituziのブログじゃがー

*1:しかも、そうして ようきゅうされる よみかきの ハードルが きわめて たかく せっていされているという ことは、さきの わたしの きじや、1ねん いじょう まえに かいた 漢字についてという きじで すでに もんだいに してきた とおりです。
「ともかく、おびただしい種類の漢字とその熟語のあらわれる日本語文章の読み書き能力というのは、日本政府の教育行政に屈服しつづけ、学校に通いつづけた者(かく言うわたしもそのひとりです)の《特権》となっております。ニューカマーの移民たちをふくめて日本政府の支配する学校に通わなかった/通えなかったひとびとが、これをマスターするには、なみたいていでない苦労を要するでしょう。」(「漢字について」)

*2:ちなみに わたしは アナーキスト(むせいふ しゅぎしゃ)を じしょう(自称)しておりまして、こっか・せいふ そのものの はいしを しゅちょうして おります。これも 1ねん いじょう まえの きじですけど、デヴィッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』などを さんしょうして いただければ さいわいです。

*3:もちろん だいがくなど こうとう きょういくも ふくむ。

*4:しょうすうしゃの げんごけん(言語権)を そんちょうする しせいを しゅびいっかんさせる かぎり、そう なります。

*5:じんるい がくしゃの かわだ・じゅんぞう(川田順造)さんが こうした もんだい ていきを おこなっていたのを どこかで よんだ きおくが あります。

*6:てんのうせい こっか、ファック オフ!

*7:にほん ていこくしゅぎ、ファック オフ!

*8:ちなみに おなじ としよりでも、がっこう きょういくを ながく うける きかいが あったり、また へいたいに とられて ぐんたいでの せいかつを けいけんしたりした だんせいの ほうが、じょせいよりも 「ひょうじゅんごに ちかい げんご」を はなすことが できるという けいこうも みうけられるように おもいます。

*9:「あゆみよる」という ひょうげんは ぎまんてきと いえるかも しれません。「あゆみよる」を いっぽうてきに ようきゅうしているのは この ばあい わたしであり、「あゆみよらせている」のだから。