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滴了庵日録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2006/01/30(Mon) 旧暦で新年会

旧暦で新年会

昨日の2006年1月29日は、旧暦の元旦 ( 旧正月春節 ) にあたる。だからというわけではないけれど、機械研OB会関西支部(?)の新年会が開かれた。関西で働くエンジニア/プログラマーと院生 ( 工学/情報学 ) のあつまりなので、しぜんと業界の話や仕事の話になる。こういう、仕事以外でのご同業のつながりというのはとても貴重なものだと思う。

まあ、エンジニアリングな話題に終始したわけではない。とくにNくんとは久しぶりにオフライン哲学的議論ができた。


浄土真宗のNくんがハイデガーについて語ったのには驚いた。浄土真宗とハイデガーってかなり相容れないものがあると僕は思っていたので。

ハイデガーの哲学は、『人間には「死」というタイムリミットがある。「死」を自覚することで、人間は死ぬまでの限られた時間を自分らしく生きることができる。』というものだと僕は解釈している。( 浅薄な解釈だと思うが。) それに対して浄土真宗は、『阿弥陀さまの本願によって、人間は死んだら極楽浄土へいける。』という宗教死生観が相容れないように思うのだ。


Nくんは仏教悟り=涅槃 (「縁起」を悟り「苦」を超越すること) をハイデガーの「本来的な在り方」と結びつけて考えているようだ。それは分からなくもないのだが、やはり浄土真宗の「極楽往生」に結びつけるのには飛躍があると思う。


そもそも「浄土三部経」を経典とする浄土系の宗派 ( 浄土真宗、浄土宗時宗、融通念仏宗など ) は本来の釈迦の教えからかけ離れている。だからといって邪教だとかいうつもりは毛頭ない。浄土の教えは釈迦の死後500年くらいたってから北インドあたりで起こり、中国をへて日本で独自の展開をとげた偉大な宗教であると思う。ただ、釈迦本来の教え( 原始仏教 ) とは別物。そもそも「阿弥陀如来」とか「極楽浄土」とかいう概念は釈迦の時代にはまだ無かったのだから。

2006/01/28(Sat) 思考猫車たまきゃっと

思考猫車たまきゃっと

ひさしぶりにロボットを作ろうと画策しています。

  • ターゲットは今年の知能ロボコン (できればテクニカルコース)
  • 脚車輪 (正確な車輪走行と、脚による台の踏破) を特徴とするメカ
  • ウケと得点の両立をめざす。外装デザインは重要な要素。
  • 今後の開発のプラットフォームにできるような機体にしたい。(MS-06ザクみたいな)

ということで、一昨年の暮れ頃に構想を練ってて頓挫していた、「思考猫車たまきゃっと」プロジェクトを発動しようと思います。

機構的には Chariot とか チャリべえ みたいな ∧○∧ 型。で、タ●コマっぽい感じに設計したい。足はかかとが自由輪で、歩行時はつま先で立つような感じ。対象物を掴む手もほしいけど(というか絶対要るけど)どう詰め込むか。脚はとりあえず2自由度でいいか。カメラも載せたいなあ...などなど構想を練っているところです。

2006/01/27(Fri) 日韓歌曲?

日韓歌曲?

中国のCDショップでのこと。

日本のCDショップとだいたい同じようなつくりで、国内の曲と外国の曲でコーナー分けされている。奇妙に思ったのは、「外国歌曲」のコーナーとは別に「日韓歌曲」のコーナーというのがあることだ。日本・韓国は中国にとって「外国」じゃないんだろうか? まさか「属国」と思ってるんじゃないだろうな? とあらぬことを考えてしまった。


まあ、そういうつもりじゃあないとは思う。日本でも C-POP や K-POP を「洋楽」とはあまり言わない。それと同じことだろう。日本では C-POP や K-POP はマイナーなジャンルなので洋楽の隅っこの方に置かれていることが多いが、中国では J-POP や K-POP はメジャーなジャンルっぽいので、「外国歌曲」( =洋楽 ) のコーナーとは別に「日韓歌曲」のコーナーが設けられているのだろう。


そういえば、中国本土、香港台湾のポップをひとまとめに C-POP といっていいのかな? 少なくとも香港は言語じたいが違う (香港は広東語圏) 。まあ、フェイ・ウォン (王菲) とかアンディ・ラウ (劉徳華) とか、北京語と広東語 両方歌ってる人もいるけれど。

shagashaga 2006/01/27 21:20 日本橋にある上海新天地(http://www.chuka-ichiba24.com/mall/)には、C-POPと並べて、なぜかK-POPが置いてましたよ。食材も、中華食材に混ざって、韓国のものも混ざっていたし。中国の雑貨を取りそろえた結果なのでしょうか?

2006/01/25(Wed) 最近読了的漫画

最近読了的漫画

書くことがないので最近読んだマンガについて


鉄腕バーディー 11巻 ゆうきまさみ 小学館

帯に、よしもとばなな氏推薦の言葉。 「バーディーが力持ちに見合った性格をしているところがとってもリアルです。」 ...純文作家ならもうちょっとらしいコメントをしてほしい。ってぜんぜん「バーディー」の感想じゃないですが。


破壊魔定光 12巻 中平正彦 集英社

学生時代から読み続けてましたがついに完結。「エヴァ」の影響をつよく受けた作品でしたが、なかなか面白かった。主人公らがやたらワイルドなのもエヴァ系にしては珍しい。定光×神代は良いかんじでした。「エヴァ」にしろ「破壊魔」にしろ、途方もないことを企てた母親がじつは諸悪の根源のような気がします。


修道士ファルコ 青池保子 白泉社文庫

中世ドイツの修道院の物語。青池保子はとてもよく取材と勉強をしてると思います。そしてその円熟した筆が中世の修道院をよく描き出しています。個性的な修道士たちのやりとりにもニヤリとさせられます。

印象的なキャラは娼婦のフィリス。「聖女マグダレネ (マグダラのマリア) は娼婦だったのよ。罪の女だってちゃんと天国へ行けるんだからね」というセリフが彼女のその後を暗示します。考えなしだが根は意外に純真なのがいいかんじ。聖女サウラの奇跡に与り、後に尼僧となります。フィリスと院長の尼僧らしからぬやりとりにもくすぐられます。


フルーツバスケット 19巻 高屋奈月 白泉社

いよいよ終盤に入ってきました。この作品はキャラを一人一人よく掘り下げて描いているのが好きです。夾×透は確定のようですね。ということは由希×真知ですね。よしよし。( 真知萌え〜 )  本筋はかなり重いストーリーなので、どういう結末になるのか気になります。

2006/01/24(Tue) ビアズリー再論 このエントリーを含むブックマーク

去年の11/21の日記ビアズリーが嫌い、という内容の文章を書いたところ、ご不満のむきがあったようなので再論。


べつにビアズリーの芸術的価値を否定しているわけではない。ただ単に好きになれないだけ。そもそも絵というのは「どう感じるか」であって、「考えて分かる」とかいうようなものではないはず。僕はビアズリーを魅力的には感じられない。ただそれだけだ。


僕は端正で優美な絵が好き。たとえばラファエロの「小椅子の聖母」。調和と均整のとれた端正な筆づかいで、しかも柔らかな優しさに満ちている。まさにマリアさま

ビアズリーの絵は端正でないし優美でもない。べつに画力がないと言っているのではない。ビアズリーの描線はとても洗練されているとは思う。むしろ不均衡で退廃的でグロテスクであることが彼の個性なのだと思う。その個性は認めるが好きにはなれない。僕の好みとは対極にあるといっていい。


話はかわって、江川達也東京大学物語』と藤島康介ああっ女神さまっ』を比較する。上の文章から分かると思うが、僕は江川嫌いで藤島好き。

藤島康介はもともと江川達也のアシスタント出身であり、じっさい画風にかなり似ている部分がある(あった)と思う。ただ江川には猥雑さやドロドロした部分があるのに対し、藤島の絵はそれを脱して、端正で優美。まさに女神さま! (最近の仕事はさすがにマンネリで凡庸すぎると思うが)。

おそらく江川は、藤島の描くような幸せいっぱいのおとぎ話が嫌いなのだろう。そしてそういうものに依存する他力本願な読者の姿勢が嫌いなのだろう。まあ、言いたいことは分かる。だからといって、江川の描くような猥雑で露悪的で鬱陶しいマンガは僕は好きになれない。


要するに、僕が絵に求めるのは端正さと優美さであり、女神さま(マリアさまや観音さまなども含む)はその究極のモティーフ。ビアズリーの描く妖女サロメはその対極にある退廃美。まあ、趣味に合わないということで。

2006/01/22(Sun) MAGIC このエントリーを含むブックマーク

Don't waste my time with empty stories of love

I've wasted too much time on my own

If I don't find the right solution for me

I'd rather stay at home all alone

...

'Cause I'm not looking for a love affair

I need the magic when I hold you near

It's more important than a one-night stand

I need the magic when I touch your hand

機動戦士ガンダム0083 「MAGIC」より


昨日、久しぶりに機械研の友人と長電話した。話の内容は例によって、仕事の話や技術的な話、アニメ・マンガの話など多岐にわたったけれど、最後のほうは今の僕にとって鬱な話題となり、少しムキになってしまったような気がする。


彼も僕も求めているものは本質的に同じだと思う。ただ、彼はそれを「現実」の中に見出し、僕はそれを「神話」のようなものだと思うようにしてきた。「神話」というか「宝くじ」のようなもの。当たればハッピーだと思うけど、いつ当たるか分からない ( というか当たる可能性の極めて低い ) くじに期待感を持つことができなくなってしまった。寂しいけれど疲れた。だから I'd rather stay at home all alone.


僕が求めてやまないのは、穏やかな日常。話題を共有でき、議論を交わし、穏やかな時間を共有できる朋友。

ま、けっきょく僕には機械研だけかな。

shagashaga 2006/01/22 21:51 あんな議論でよかったらいつでもお付き合いするので、遠慮なく言ってください。

2006/01/20(Fri) おひとりさま

おひとりさま

中国を旅行中、レストランやチケット売り場でよく「几位(チーウェイ)?」ときかれた。「几」は「幾(いくら)」と同じ。「位」は「各位」の「位」で、つまり「人」の敬称。つまり「何名様ですか?」という意味だ。

一人旅なので、毎回「一位(イーウェイ)」と答えていたが、よく考えると自分のことを「位」というのは変かなと思った。「何名様ですか?」ときかれて「お一人様です」と答えてるような感じがする。「一个人(イーカレ゛ン)」のほうが正しいような気がしてきた。

で、辞書で調べてみると「一位」でもよかったみたい。でもなんか変な感じがする。日本語とは敬語の感覚が違うんだろうか?

2006/01/19(Thu) 知能ロボコン このエントリーを含むブックマーク

shagaくん『「会社」の中だけで、「会社」のためだけに修行をするのならば、おっしゃる問題も多く発生すると思います。だけど、「会社」以外に修行の場を持っても問題ないのではないでしょうか?』


もちろんその通りです。ただ実際問題、起きてる時間の大部分を会社で働いてるわけですから、会社で修行できるのがベストだと思います。


それに、個人レベルでは手が出ないことってありますよね。純粋ソフト屋ならパソコンとコンパイラさえあればいいかもしれませんが、組み込み屋やハード屋は個人では用意できないような高価な開発環境 ( 数百万円するような計測器とかソフトとか) が必要になってきます。基板製作にもすごいお金がかかりますよね。

それに能力的にも一人でできることには限界がありますよね。たとえば携帯電話なりデジカメなりを一人で開発することなんてできるわけなくて、いろんな技術分野の人間が協力してはじめて可能になるわけじゃないですか。


もちろん、会社のために修行するんじゃなくて、会社は修行のための一つの手段にすぎません。会社ばっかりじゃなくてそれ以外にも修行の場はあったほうがいいですね。

というわけで、ひさしぶりに知能ロボコンに出てみようかな。

shagashaga 2006/01/19 22:21 そこまで言ってしまうと、転職するしかないかと。昔と比べて、転職がやりやすくなっているという話はよく聞きますよ。

僕も、時間がとれれば知能ロボコンの観戦に久しぶりに行きたいものです。

2006/01/18(Wed) エンジニアとマネージャー このエントリーを含むブックマーク

shagaくん『何かを始めるのに遅すぎるなんてことはないと思いますよ。やる気さえ維持できればいくつになっても新しい技術は身に付くと上司からも言われてます。』


それはそうなんだけど、問題は会社がそれを許してくれない現実があります。前も言ったけど、うちのような会社では(多かれ少なかれどこでもそうだろうけど)、年が上がるにつれ、だんだんマネージメント的な仕事の比重が大きくなり、いつまでも現役エンジニアではいられなくなります。


会社としては40代の正社員より20代の請負社員を使うほうがはるかに安上がり。うちの会社が正社員に求めているのは、熟練した職人エンジニアになることではなく、プロジェクトを切り盛りできるマネージャーになることのように思います。まあ、いずれはそうならざるをえないんだろうけど、エンジニアとして不完全燃焼のままマネージャーになるのはイヤだなあと思います。


て、いつだったか、mixiさくらださんとこで、shagaくんとさくらださんが議論されてた話にいきつくわけですが。うちの課長なんて開発にはノータッチで、請負社員のスタッフ管理に専念です。開発は課長の下のグループリーダーたちの合議制です。課長だって、こんなことは望んでないはず。そんな管理職にはなりたくありません。


ま、そんなことばかり考えてもしかたないので、とりあえず目の前のことに集中します。

今日は挙動不審なウォッチドッグタイマーの動きを追っていて一日終了。

shagashaga 2006/01/18 21:52 僕が言いたかったのは、修行を始めるのに「いささか歳をくってしまった」ことなんてない、ということです。「会社」の中だけで、「会社」のためだけに修行をするのならば、おっしゃる問題も多く発生すると思います。だけど、「会社」以外に修行の場を持っても問題ないのではないでしょうか?

2006/01/17(Tue) 再出発 このエントリーを含むブックマーク

僕ももうすぐ30になる。20代の前半は大学で無為に過ごし、後半は会社で無為に過ごしてしまった気がする。結局、何一つ確たるスキルをのばすことができなかった。

会社では、ぜんぜんやりたい仕事ができなかった。人事に理不尽を感じることも多かったし、やりたい仕事について上司と話が全くかみ合わなかった。それで去年はかなり鬱になりついに3ヶ月の休職にまでいたった。ぜんぜんスキルアップできない自分に焦りを感じ、仕事に恵まれない不運を嘆いていた。


けれども僕自身が明確な希望を持っていなかったのもいけなかったんだなあと、最近思うようになった。強い主張をしてこなかったから、状況に流されてこんなふうになってしまったんだなあと思う。


29歳。エンジニアとしてはいささか歳をくってしまったが、いまから再出発しようと思う。

自分がいちばんやりたいことは何かというと、やはり組み込み系かなと思う。学生時代、機械研でロボットを作ってて、ソフトウェアハードウェアを動かすということに面白さを感じた。組み込み系はソフトとハード、両方分かってないといけないけど、僕はソフトの方を追及しようかなと思う。「ハード設計もできるソフト屋」が目指す理想かな。

まずは ARM のペリフェラルを叩くところから修行を始めます。

shagashaga 2006/01/18 06:53 何かを始めるのに遅すぎるなんてことはないと思いますよ。やる気さえ維持できればいくつになっても新しい技術は身に付くと上司からも言われてます。
# ただ、年をとるとそのやる気が持たないとも言われてますが。

僕もスタートが遅い方だったので、お互い頑張りましょう。

2006/01/16(Mon) 知識の価値 このエントリーを含むブックマーク

知の難きに非ず。知に処するは則ち難きなり。 「韓非子

(知ることが難しいのではない。知っていることにいかに身を処するかが難しいのだ。)

史記」の「老子・韓非列伝」にも引用されている韓非の言葉。

身につまされる言葉だ。

僕は世界の歴史を学び、いろいろな宗教哲学を学んできた。知識の広範さでいえば、まあそこそこの物知りだと思う。ただ全然それが自分の人生に活かせてないように思う。

身のまわりを見渡すと、釈尊の教えを知らなくともそれを実践している人がいる。老荘の教えを知らなくともそれを体現している人がいる。人間的に全然成長していない自分を省みて恥ずかしく思う。

ここ10年のインターネットの普及、特にgoogleなどの検索エンジンのおかげで、知識を手に入れることは、ものすごく容易になってしまった。そのため単なる「物知り」であることの価値は大暴落したように思う。大切なのは知識をいかに活用するかなんだけど...やはりそこが難しい。

いこまいこま 2006/01/16 23:22 ししょうこんばんは。ネットで得られる知識なんて、しょせんタダで手に入る程度のもので、根拠がうさんくさいものも多いですよね。そしてネットで調べたものは非常に忘れやすい。ネットで得た知識をもとに創造的な仕事をするのは不可能だと思います。基礎的な知識があるからこそ高度な思考ができると思いますよ。

2006/01/15(Sun) のどかな週末 このエントリーを含むブックマーク

なんだかずいぶん久しぶりに、一人暮らしののどかな週末でした。といっても、昨日は、長年たなあげしていた案件を片付けるという、大イベントがあったのですが。


今日は散髪に行った後、梅田ジュンク堂に入ってきました。お目当ては「史記列伝」。中国春秋戦国時代は僕のホームグランドともいうべき世界なのですが、じつは「史記」をちゃんと読んだことは今までありませんでした。せめて「列伝」だけでも読んでおこうと思い立ちました。岩波文庫の「史記列伝」全5冊セット。文庫本五冊が箱に入っています。まあ「列伝」は人物エピソード集なので、ヒマな時にちょびちょび読んでいくことにします。


ついでに一階のマンガコーナーで冬目景の「ハツカネズミの時間」1巻を入手。帰ってから読みました。しかし、あいかわらずの人物配置ですねぇ。まあ冬目景に限ったことではない、ありがちなパターンなのですが。なんというか、下からのまなざしが、彼岸を見つめる主人公の存在価値を保証しているのが都合良すぎですよねぇ。「羊のうた」では(マジの)彼岸には行かずに八重樫のもとに帰りましたが、「イエスタデイをうたって」はどうなるのでしょう。ハルENDはないと思いますが。

しかし、あいかわらず冬目景は遅筆ですね。


関係ないけど、NHK大河ドラマの合戦シーンはあいかわらずショボイですね。

2006/01/14(Sat) ドイツ三国志

ドイツ三国志

森鴎外の「うたかたの記」に「バワリア王ルウドヰヒ第二世」という人名が出てくる。誰のことかなと思ったら、どうやら南ドイツのバイエルン国王ルートヴィヒ2世のことのようだ。あのノイシュバンシュタイン城をつくったバカ殿である。


ドイツという国は近代統一国家ができるのが意外と遅かった国である。ドイツ帝国の成立は1871年だから、じつは明治維新より後である。統一以前のドイツは、室町〜江戸時代の日本みたいに、各地にたくさんの領主 (日本の大名みたいなもの) がいてそれぞれが自分の領邦 (日本の藩みたいなもの) を治めていた。そして最も有力な領主が「皇帝」を名乗っていた。日本で最も有力な大名である足利家や徳川家が「将軍」を名乗っていたのに似ている。とても統一国家といえる体制ではなかった。

19世紀の帝国主義の時代になって、イギリスフランスに遅れをとったドイツは、このままではいかん!と、ようやく国家統一をめざすようになった。当時のドイツの有力な領邦トップ3を挙げると、

第1位は、ハプスブルク家が治めるオーストリア帝国

 (当時オーストリアはドイツの一部だった。というよりドイツで最有力の領邦であり、

  オーストリア領主が、長く代々ドイツ皇帝を名乗っていた。)

第2位は、ホーエンツォレルン家の治める北ドイツのプロイセン王国

第3位は、ヴィッテルスバッハ家の治める南ドイツのバイエルン王国


第1位のオーストリアは当然、オーストリアを中心にドイツを統一しようと考えた。

第2位のプロイセンは、オーストリアをドイツから追い出して、プロイセンを中心にドイツを統一しようと考えた。

こうしてオーストリアとプロイセンが対立し、戦争が起こった。1866年の普墺戦争である。結果、プロイセンが勝利し、オーストリアはドイツから追い出された。そして1871年、プロイセンを中心にドイツは統一されて「ドイツ帝国」となり、プロイセン国王ヴィルヘルム1世が「ドイツ皇帝」となった。対して敗れたオーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世は、広く東欧を支配する「オーストリア・ハンガリー帝国」の皇帝となった。


で、この大変な時期に第3位のバイエルン王国はどうしていたかというと...

ルートヴィヒ2世というバカ殿が王位についていた。美男子で、芸術を愛し、中世騎士道に憧れるロマンティスト。太平の世ならそんな王様がいてもいいかもしれない。彼はこの時代に生まれるべき王ではなかった。ドイツが統一に向けて動いているさなかに、彼は国政を顧みず、現実から逃避して、ただ自分の趣味のためだけにノイシュバンシュタイン城という華麗な(しかし戦略的には全く無意味な)城を造営したりしていた。

というわけで、高校の世界史の教科書にもバイエルン王国やルートヴィヒ2世の名は出てこない。


現在、ドイツ連邦共和国内のバイエルン州は、人口約1200万人、GDP約3800億ユーロ。これはオーストリア共和国の人口約800万人、GDP約2300億ユーロを上まわっている。なにしろBMWアウディシーメンスといった世界的企業があるから。

2006/01/13(Fri) アップルまでもがインテルに... このエントリーを含むブックマーク

とうとうMacにもインテルのCPUが載るようになったんですねぇ。(http://www.cnn.co.jp/business/CNN200601110001.html) アップルまでもがインテルを載せるとなると、もはやパソコン用CPUはインテル系ばっかになりますね。


十数年前、僕が中学生の頃は、Macはモトローラの68系CPUを使ってました。まだ日本はパソコン鎖国状態で、NECのPC98が国内標準機で、そのCPUはインテルの86系でした。国内では他に富士通FM-TOWNSがインテルの86系、シャープX68000がモトローラの68系CPUでした。「CPUはインテル86系 VS モトローラ68系」というふうに見ていました。

1995年、Windows95が発売され、群雄割拠の時代は終わり、「パソコンは Windows(多数派) vs Mac(少数派)」という、今に至る勢力図が固まりました。Windowsではインテル86系CPU (ペンティアム/セレロン) が使われました。一方のMacには、それまでのモトローラ68系にかわって、IBMの PowerPC系CPUが使われるようになりました。また、Windowsでも、AMDなどがインテル86系互換CPU(K6やアスロンなど)を出すようになりました。こうしてパソコンのCPUは「Windowsではインテル(多数派) vs ADM(少数派), Mac(そもそも少数派)ではPowerPC」という構図になりました。AMDK6-2のころは日本でもよく見かけましたが、最近ではインテル(80%) vs AMD (20%) くらいの世界シェアらしいですね。

で、このたびMacがインテルのCPUを採用するということで、またまたインテル帝国の勢力が拡大することに。もはやパソコン用CPUはインテル系ばっか。(AMDもしょせんインテル互換ですからね。)

でも、PowerPCとインテルじゃ(あたりまえだけど)、ネイティブコードレベルで互換性がないですよねえ。いままで積み上げてきたソフトウェア資産の移植はどうするんだろう。まあ、Macも、Mac OS X になってからは中身はBSDUNIXだから、インテルへの移植はそう大変じゃないのかな?


二千年前、秦の始皇帝中国を統一した時も思ったけれど、帝国による統一は、交流の利便を増すいっぽうで文化の多様性を失うことになりますね。それを寂しいとおもうのがただの感傷でしょうが。


パソコンのCPUはインテルの独占市場になるけれど、パソコンだけがCPUの用途じゃありません。ゲーム機に、サーバに、携帯電話に、そのほか多くの電子機器にCPUが載ってます。IBMのPowerPC、そしてIBM+東芝+ソニーCell。組み込みではARM、そして日立(ルネサス)のSH。まだまだCPUのアーキテクチャには多様性がありますね。日本人としてはやはり国内メーカーを応援したくなります。SHはすばらしいCPUだけど、もう進化しないのかな???

2006/01/12(Thu) トキメキ分補充支援 このエントリーを含むブックマーク

きぐるみくんの日記(mixi)で、

先日、トキメキ分の補充支援を依頼された。

という文章があった。老子室生犀星にトキメキを感じるきぐるみくんの感性もよくわからないが、そういえば僕もかなりトキメキ分が欠乏しているような気がする。だれが補充してくれないかな。


ときめく言葉について

  • 「犀の角のようにただ独りゆけ!」 (仏典「スッタニパータ」)
  • 「戦場で百万の敵に勝つよりも、ただ一人の自己に打ち克つものこそ実に最上の勝利者なり」(仏典「ダンマパダ」)
  • 「一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易」(「涅槃経」)
  • 「義を見てせざるは勇なきなり」(「論語」)
  • 「王侯将相いずくんぞ種あらんや。」(陳勝)
  • 「革命いまだ成らず。」(孫文)
  • ザクとは違うのだよザクとは!」(ランバ・ラル)
  • ジオン公国に栄光あれー!」(ガルマ・ザビ)
  • 「塩がないと戦力に影響するぞ」(タムラ)

う〜ん、あんまり浮かばないなあ。もっといっぱいあったはずなんだけど。

やっぱりトキメキ分が欠乏してるなあ。

2006/01/10(Tue) タオと縁起

タオと縁起

おとといの日記に対するきぐるみくんのコメント

僕はタオについて仏教で言うところの縁のようなものと考えているみたいです。そういうわけで、どちらかというとタオってのは、過去というよりすぐ近くに常に存在するものではないですかね。それゆえ「道に帰る」というのは過去に向かってというより、現在において「道」(縁)を味わうって感じではないかと思います。だからこそ、未来においても「道」を味わえるよう努力せなあかんな、と思うわけです。その意味で釈尊の言うハードボイルドさと通じるものもあるのではないですかね?

う〜ん、たしかにタオは万物の生成と変化の原理だから、過去の存在ではなく、そういう意味では仏教の「縁起」に近いかもしれません。

ただ、タオイズムの影響を受けた文学、たとえば陶淵明の「帰去来辞」(帰りなんいざ!)や「帰田園居」(拙を守りて田園に帰る)なんかには、望郷、自然回帰、脱世俗、遁世の思想があります。僕の世捨て人的な生き方もそういう文脈の中にあります。

「縁起」は自性の否定(全てのものが独立に存在することの否定)だから、「諸法無我」や「空」につながると思います。自性の否定はいちがいにネガティブな思想ではなく、「自分が何者でもないからこそ、何者にもなりえる」という未来志向の思想でもあると思います。サルトルの「存在と無」に近いかもしれません。人間は「何者であるか」を規定された存在ではなく、「何者になりたいか」を未来に向かって投げかける存在であるとサルトルは言ってる(と僕は解釈してます)。

10年ほど前のアニメソングの一節を思い出しました。(奥井雅美なつかし〜)

子供の頃に想った将来の姿を

一緒に投げかけよう

あの時と同じように見上げた星空へ

こういうアグレッシブな思想を実践できる人には憧れるんですが、自分はヘタレなもんで、ついつい回帰的な甘い思想にひかれてしまうのです。

2006/01/08(Sun) 道冲、優しさと夢の水源 このエントリーを含むブックマーク

12/30の、きぐるみくんの日記(mixi)に、いささか唐突に次の漢文が引用されていた。

道冲、而用之或不盈。淵兮似萬物之宗。

挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。

湛兮似或存。

吾不知誰之子、象帝之先。

老子」っぽいな、と思って調べてみたら、案の定、「老子」第4章だった。

タオは全ての源であり、いくら汲み出しても減らない無限の海。

タオの中に帰れば、全てのとげとげしさは丸くなり、全てのもつれはほどけ、

全ての激しさはなだめられ、全ての煩わしさは消える。

タオは無限の過去から常に深々と水をたたえた深い深い海。

(かなり意訳)

なんか、そういう源へ帰りたいという願望がある。

その源は、道家では「タオ」とよばれ、朱子学では「太極」とよばれ、国学では「天御中主」とよばれ、密教では「大日如来」とよばれ、古代インドでは「梵」とよばれ、イスラムキリスト教では「神」とよばれる。

そういう源に還り、一つになろうという思想を一般に「神秘主義」という。

洋の東西を問わず、常にそういう願望が存在し、思想として結実してきた。


ミもフタもない言い方をすれば、胎内回帰願望だ。

遠い過去の安らかな世界に還りたいという願望。とても甘えん坊な願望。


10年前、キリスト教神秘主義をモチーフにしたアニメがあった。「エヴァ」というやつだ。その劇場版で使われた「魂のルフラン」という歌にこんな一節があった。

私に還りなさい 記憶をたどり

優しさと夢の水源(みなもと)へ

...

私に還りなさい 生まれる前に

あなたが過ごした大地へと

釈迦様はハードボイルドな人だからこんな軟弱な思想は否定するでしょうね。

「全てのものは過ぎ去ってゆく。過去には帰れない。執着をすて、怠けることなく前に進め」と。

全くその通りです。でも寂しがり屋で甘えん坊の僕にはなかなかそれができません。僕は仏教者として失格ですね。

きぐるみきぐるみ 2006/01/09 22:31 どうも、ここに書き込むのは初めてです。
はじめまして。
今回、解説してもらって、あらためて自分のタオについての理解の拙さを痛感しました。
当時、僕はこの「優しさ」の部分をあんまり酌量せず、「水源」の部分のみ酌んでいました。
今ちょっと考えたのですが、僕はタオについて仏教で言うところの縁のようなものと考えているみたいです。
そういうわけで、どちらかというとタオってのは、過去というよりすぐ近くに常に存在するものではないですかね。
それゆえ「道に帰る」というのは過去に向かってというより、現在において「道」(縁)を味わうって感じではないかと思います。
だからこそ、未来においても「道」を味わえるよう努力せなあかんな、と思うわけです。
その意味で釈尊の言うハードボイルドさと通じるものもあるのではないですかね?
自分の都合の良いように解釈している面が多々あるので、かなり不安です。
中公文書の老子を買って、もう少しちゃんとした解釈を試みることとします。
長文失礼しました。

2006/01/05(Thu) あけましておめでとうございます

無事中国から帰国しました

新年あけましておめでとうございます。

李徴は、3日に無事、中国から日本に帰国しました。

なんちゃって中国人の李徴としては、中国の土を踏むことは長年の念願だったのですが、ついに果たすことができました。初めての海外ひとり旅の6日間は新鮮な体験でした。まあ、慣れ親しんだ漢字の国なので、そんなに違和感はありませんでした。一人でも意外と何とかなるものです。言葉に関して感じたことは

  • 江南でも北京語が共通語として通じる。駅のアナウンスなどもすべて北京語。
  • 最低限の中国語の知識が意外と役立った。
  • 発音や四声がいい加減でも、意外と通じる。
  • 文字(中国語)で書けばほぼ確実に通じる。
  • 漢字で書かれている表示はなんとなく意味が分かる。
  • ホテルや空港では英語でOK。

というわけで込み入った会話は全くできませんでしたが、旅行するぶんにはあまり不都合はありませんでした。

たとえば長距離バスの駅でのこと。(中国の長距離バスは鉄道のような駅があります。) 勝手が分からないので、駅員らしき人に、「我想去上海(上海に行きたい)」と書いた紙を見せながら「我想去上海(ウォーシャンチーシャンハイ)」と言うと、「マイピャオ」と言われた。「マイピャオ」とは「買票」つまり、「票(切符)を買え」ということらしい。「ツァイナァル?(どこで?)」ときくと、指さされた。指さされた方に行くと、「售票」つまり「切符売り場」があり、窓口に行列ができていた。窓口でまた「我想去上海」と言うと、「几点?(何時?)」と訊かれた。出発時刻のことを言ってるらしい。なるべく早い便に乗りたかったが、中国語でなんて言ったらいいかわからない。しかたないので「可及的早急」と紙に書いたらなんとか分かってくれたようで、10分後に出る便の切符を売ってくれた。

まあ、万事そんなかんじでした。何とか意思疎通できたのは漢字のおかげ。同じことをインドとかロシアとかでやれと言われても僕には無理です。いやひょっとしたらイギリスアメリカでも難しいかもしれない。やはり漢字のご利益は絶大です。たとえば「ENTRANCE」/「EXIT」と書いてあれば意味は分かるけれど「入口」/「出口」と書かれている方がなにか心安さを感じます。「乗換2号線上楼」と書かれてあれば「2号線への乗り換えは階段を上がって下さい」という意味だと直感的に分かります。

ほんとうに漢字はすばらしい。耳で聞いてもさっぱり分からない言葉が、文字に書いたら分かるのですから。