(13)偶像崇拝を避けエホバを専心崇拝する

 エホバ神は、専心の崇拝を捧げるに値する方です。エホバ神は万物を創造され、全知全能の神だからです。(創世記1:1。啓示4:11)エホバ神以外の神を崇拝することを、偶像崇拝と言います。(啓示9:20)聖書は偶像崇拝を禁じています。(コリント第一10:7,14)


 なぜエホバ神を専心崇拝するのがふさわしいのでしょうか。エホバ神は、命の源です。(詩編36:7)エホバ神は、すべての生ける者に命を与えられ、父となっておられます。(マタイ6:9)エホバはみ子を創造され、さらにみ子を通して、幾億もの霊者を創造されました。(コロサイ1:15,16)


 さらに、神は地球を含めて物質宇宙を創造されました。そして、地球を人間のすみかとして準備され、動物と植物を創造されました。そして、アダムとエバを創造され、人類はみなその夫婦を通してエホバから命を与えられています。(使徒17:26)それで、エホバ神だけを専心崇拝するのは正しく当然のことです。




ESO image of galaxy NGC 4595 by thebadastronomer (galaxy)
エホバ神は全宇宙とその中にあるものを創造されたので崇拝に値します


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エホバ神は地球とその上にあるすべてのものを創造されたゆえに私たちの崇拝に値します



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エホバ神はアダムとエバを創造されました
私たちの命はアダムとエバから来ているのでエホバ神は私たちの崇拝に値します



 また、エホバ神はその特質からいっても専心の対象としてふさわしい方です。人類はサタンのために罪に陥り、永遠の命の見込みを失って死すべきものとなってしまいました。けれども、エホバは、最愛のみ子という最も貴重な所有物を犠牲にして、人類が罪と死から救い出されるための手立てを設けられました。 (ヨハネ3:16)


 そのことによってエホバの支配がみじんも利己心がないこと、エホバの支配の土台が無私のアガペー愛、義と公正であることが実証されました。(詩編33:5)このことも、エホバ神がただひとり崇拝を受けるにふさわしい方であることを証明しています。

 さらに、エホバは偶像崇拝者が今一時的に生き続けることを許されていますが、永遠に許されることはありません。(使徒14:16)それで、偶像崇拝を退けることはとても大切なことです。


 では、どんな形の偶像崇拝があるでしょうか。
 

 聖書は、エホバ以外の他の神々に対する崇拝があることを認めています。もちろん、真の神はエホバただおひとりですが、万物の創造者でないのに、自ら神と自称する者たちがいます。聖書は、「天をも地をも造らなかった神々は,・・・滅びうせる」と述べています。(エレミヤ10:11)


 聖書は、また、悪魔サタンに対する崇拝や悪霊たちに対する崇拝があることを述べています。(コリント第一10:20)また金・銀・銅・石・木でできた偶像に対する崇拝もあります。偶像は,話すことも、見ることも、聞くことも、歩くこともできません。(詩編115:4-7。啓示9:20)偶像はその崇拝者のために何もすることができません。



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偶像は命がなく動くことができずその崇拝者のために何もできません


 また、聖書によると「野獣」に対する「崇拝」があります。(啓示13:4,8)聖書の中で「野獣」または「獣」とは「王」すなわち国家もしくは政府を表しています。(ダニエル7:17)例を挙げると、「二本の角のある雄羊」は「メディアとペルシャの王」を表していると述べられています。(ダニエル8:20)



Sheep with interesting horns by NicePics (sheep1)
聖書の中で二本の角のある雄羊は国家です
聖書は野獣である国家に対する崇拝に気をつけるように警告しています



 人間の政府の取り決めは「神の取り決め」であり、クリスチャンは人間の政府に服するようにと聖書は勧めています。(ローマ13:1,2)人間の政府は、「権威」をふるう「支配者たち」の集団です。(ローマ13:3)それらの人々は、クリスチャンの「益のための神の奉仕者」として奉仕してくださるので私たちは感謝できます。(ローマ13:4)クリスチャンは、「王たち」のために「祈願と、祈りと、とりなしと、感謝」をささげるよう勧められています。(テモテ第一2:1)


 しかし、もし、神に言われることと、人間の権力者の言うことが違う場合は、神に従うようにと聖書は命じています。(使徒5:29)もし、神の命令に反しても、人間の支配者の言うことに盲従するならば、それは「野獣」の「崇拝」すなわち、人間の政府を崇拝していることになります。


 例えば、イエスは剣を取る者は剣によって滅びると言われて、武器をとって人殺しをすることを戒められました。(マタイ26:52)しかし、クリスチャンが政府の命令に従って兵士として戦うならば、神の命令に反していることになります。神の命令に反しても政府の命令に服従して神の律法に違反するなら、それは神の目に偶像崇拝になります。



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もしクリスチャンが国家に服従して武器をとって兵士として戦うならばそれは神の目に偶像崇拝です



 また、聖書は、人間一般に対して過度に信頼したり依り頼むことは期待はずれになると述べています。なぜなら、人間はいつか死ぬからです。(詩編103:15;146:3,4)また、人間は、みな罪を犯します。(ヨハネ第一1:10)その上、人間は全能の神のように全知全能ではありません。ですから、政治指導者に世界の問題を解決することを期待すると失望させられることがあります。ですから、人間崇拝もエホバに喜ばれない偶像崇拝です。



人間を崇拝しても失望させられます
また人間崇拝も神の目に偶像崇拝です



 一方、聖書はエホバに対する崇拝が報いのあるものであることを示しています。「敬虔な専心はすべての事に益があるからです。それは,今の命と来たるべき[命]との約束を保つのです。」と述べています。(テモテ第一4:8)ですから、エホバを専心崇拝することにより、「今の命」をエホバに支えていただけますし、永遠の命に導かれます。


エスは、「『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』」などと思い煩わないように、エホバ神は人間のそうした物質的必要はご存知だと言われました。(マタイ6:25,31,32)エホバ神は、鳥を養ってくださるように、この事物の体制でのご自分に仕える神の僕の物質的必要物を顧みてくださいます。(マタイ6:26)


 でも、確かに神の僕は時に迫害によって今の命を失うことがあります。もし、今の命の希望しかないのであれば、クリスチャンの人生はとても惨めなものであると言えるかもしれません。(コリント第一15:19)しかし、聖書は、天への復活と地上の楽園での復活があることを約束しています。


 エホバ神へ敬虔な専心を捧げることにより、来るべき世界での永遠の命の約束にあずかることができます。これからも偶像崇拝を避け、エホバ神を専心崇拝していきましょう。