ジャーナリストの「プロ」自慢について

新聞のテキストから、いろいろ。
記者の目:ライブドア堀江貴文社長への反論=渡辺雅春(社会部)毎日新聞 2005年3月17日 東京朝刊)

 ◇調査報道は新聞の生命だ ブログに使命感あるか
 
 ライブドアフジテレビジョンニッポン放送株争奪戦は、いよいよ激しさを増している。ライブドア堀江貴文社長(32)の行動やスタイルを批判するつもりは毛頭ないが、「ジャーナリズムは必要ない」という発言には、声を大にして反論したい。いかにインターネットが発達しようとも、ジャーナリズムが存在意義を失うことはない。
 堀江社長毎日新聞のインタビュー(5日付朝刊)に「皆さんが考えるジャーナリズムはインターネットがない前提でのお話なんです。インターネットがない時代はもしかしたら必要だったかもしれない。今は必要ないと私は言い切ってもいいと思う」などと述べた。
 ジャーナリズムは、自由で公正な社会を実現するため、人々に必要な情報を提供することだと考える。その機能がはっきりと表れるのが調査報道である。
 私は「旧石器発掘ねつ造」報道にかかわった。アマチュアの考古学者が約70万年前の日本最古とされた遺跡などで穴を自分で掘って石器を埋め、掘り出すというねつ造を繰り返していた問題だ。記者たちは2カ月以上、発掘現場に張り込むなどの取材を続け、00年11月、この事実を報道した。日本考古学協会は検証作業を実施。03年5月、全国の162遺跡でねつ造があったと断定した。
 70万年前とされた日本列島の人類史はせいぜい2万年前までになり、約20年間にわたる研究が無に帰した。日本の考古学の信頼性は揺らぎ、発掘方法などが見直された。高校教科書「日本史B」全19冊が訂正を余儀なくされ、新聞もこれまでの考古学報道の反省を迫られた。取材は結局、約3年半に及び、40人以上の記者が参加した。
 この考古学者はかつて「100万年前の石器と原人の骨を見つける」と周囲に公言していた。ねつ造が暴かれなければ今ごろ、“100万年前の遺跡”が見つかっていたかもしれない。
 同僚の大治朋子記者によるスクープ「防衛庁リスト」報道(02年5月)も記憶に新しい。防衛庁が情報公開を請求した人の身元を調べ、「反戦自衛官」「反基地運動の象徴」などといった説明を書いたリストを作成していた問題だ。
 当時、国会で審議中だった個人情報保護法案は、民間業者に対して設けられた罰則規定が行政機関にはなかった。政府は「行政機関はそもそも違法行為をしない」と説明したが、スクープ記事は行政機関が違法行為を犯すことを証明した。個人情報保護法案は廃案となり、政府は翌03年、行政機関に対する罰則を盛り込んだ新法案を提出した。
 米ワシントン・ポスト紙のウォーターゲート報道(72年)を持ち出すまでもなく、不正を暴くことで制度の根幹を変えた調査報道は枚挙にいとまがない。いずれも使命感に裏打ちされた記者たちの粘り強い取材がなければ、表に出なかった事実である。
 新聞が今、ジャーナリズムを十分に発揮していると言いたいのではない。日本新聞協会の03年「全国メディア接触・評価調査」で、新聞は「情報内容の信頼性」や「多種多様な情報を知ることができる」などの項目で、テレビ(NHK)やインターネットに劣ると判断された。新聞を読まない人も増えている。新聞はジャーナリズムの原点に立ち返って、不断の研さんに励む必要がある。
 堀江社長も「(新聞は)取る必要もない。携帯とネットのニュースサイトで十分だ」と言う。だが、ニュースサイトの情報を提供しているのは新聞などの既存メディアだということを忘れているのではないか。
 ただインターネットもジャーナリズム的機能を担う可能性はある。注目されるのはウェブログ(ブログ)だ。ホームページより簡単に開設できるウェブサイトで、誰もが情報を発信できるだけでなく、知らない人同士で双方向のコミュニケーションができる。
 趣味の話から、専門家が政治・社会問題を論じるなど、内容は幅広い。米国ではブッシュ大統領の軍歴報道を巡り、ブログが発信した情報からCBSテレビの誤報が明らかになり、幹部が辞任した。影響力を持ち、多種多様な意見の交換が可能なブログには、一種の世論形成機能もある。
 しかしながら、組織的、継続的に社会をウオッチし、報道を続けることがブログでは不可能だ。情報を集め、裏付けを取り、その事実が社会にどのような影響を与えるのかを考慮して報道するのは、訓練を積んだプロのジャーナリストでなければできない。社会は倫理観と責任感を持ったジャーナリズムを必要としている。そう信じる。

↑(太字は引用者=俺)
Sankei Web 産経朝刊 産経抄(03/18 05:00)

 ライブドアの社長が語った「インターネットがテレビや新聞を殺す」という言葉を、新聞作りに携わるものとして反発を覚えつつ考えている。下品なもの言いは別として、インターネットの優位性を誇大化して話しているとすれば、言いたいこともあるからだ。
 ▼インターネットが普及し始めた十数年前、既存のメディアとの競合や融合は未来論としてすでに語られていた。手短に言えば、個人が自分で情報を受発信できる時代がきて、情報産業の存在意義が問われる、と。
 ▼振り返ればネットの黎明(れいめい)期、価値のある情報を得るのは難しかった。つたない日記や他人の悪口雑言…こんなものは読む気はしないだろう。時を経て、「電車男」(新潮社)のようにネットゆえの作品なども登場したが、情報の奔流を泳ぐのはなお難しい。
 ▼ネットの利便性はわかる。古書店で探し続けた絶版の書物をたまたまネットで見つけて、注文後わずか数日で家に届いたときには感激した。だからといって、インターネットが万能だとは少しも思えない。
 ▼ネットどころかテレビも持たない人がいる。大阪市中央卸売市場で「生き字引」と呼ばれる資料室長は、三十年ほど前に白黒テレビが壊れたのを機に、買わずに過ごしてきた。「本読む暇がなくなるがな」と。大阪の鮮魚流通に通暁し、ニュースに疎いわけではない。話すたび、その慧眼(けいがん)に驚き、情報の質を見極めることの大切さを痛感する。
 ▼僚紙のホームページ作成に携わっていたときにも、こう考えた。玉石混交さまざまな情報の真偽を確認し、伝えるべき事柄を掘り起こす。それを読みやすい形に編集し提供するプロ集団が必要だと。思いは今も変わらない。新聞を殺せばその集団も消える。それはあり得ない。

↑(太字は引用者=俺)
ライブドアの社長の人の意見に刺激されて、「プロ(プロを中心としたジャーナリズム)ってのはそんなに簡単なもんじゃない」という意見が出てきたみたいです。俺の新聞関係に対する認識は、「そこがネタとして取り上げるようになったら、ブームは終わってるよな」という、ブームを判断するためのめやすである、程度でしょうか。ただ、時事的なものに関しては、この俺の日記の中で、極力一次資料に当たって、新聞が少し間違った報道をしている場合には俺のほうでネタにしてたりはしますが。
まぁ、新聞に対するカルチャー的な不満は、クリエイターの最終就職口というか、高い金で今現在売れている人たちに声をかけるだけ、みたいなところですか。いしいひさいち司馬遼太郎手塚治虫も、最初に世の中に出したのは朝日新聞じゃないだろ、みたいな。要するに、クリエイターをサポートする方向で世の中に働きかけていない人たちに対しては、ある種「メディアとして世の中に、あってもなくてもいいもの」みたいな解釈をする人間がいたりするわけで。
俺の認識では、コミケで本売ってたり、ギャルゲー作っている人のほうが、小泉総理につきまとって、その言動をオモシロおかしく記事にしている人よりえらいです。だって、後者のマスコミの人って、何も創造してませんから