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一日一冊一感動!小野塚 輝の『感動の仕入れ!』日記

2016-05-31 「東海林さだおの大宴会」(東海林さだお)

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全作品読破を狙っている東海林さだお氏。彼の「食」に対する表現力はまさに天才である。


さて、この本、「食エッセー界の金字塔、ご存知「丸かじり」シリーズを著者自らが厳選・精選した、「弁当箱」「フルコース」に続く傑作選。初めて読む人も、丸かじりマニアを自称する人も、抱腹絶倒間違いなし!」その中で代表的な二つを紹介しよう。


チャーシューの“行く春”】


チャーシューは、ラーメンの丼の中ではとてもエラソーにしている海苔メンマナルトなどと一緒に並んでいると、一族の長という貫禄さえ感じさせる。チャーシューは丼の中では間違いなくキャリアである。いきなり本部長


ところが、こうしたチャーシューも、チャーシューメンの丼に配属されると様子が一変する。まわりは本部長だらけだ。右を見ても本部長、左を見ても本部長。おつまみのチャーシューは、本部長が転んで将棋倒しになっているのだ。だからラーメン屋の厨房にいるときのチャーシューは、どこに配属されるか戦々恐々としているはずだ。おつまみの皿にだけは配属されたくないと思っているはずだ。


ラーメンの周辺では権勢を誇るチャーシューも、ひとたび高級中華料理店に配属されると地位は更に低下する。チャーシューは、コース料理の最初の前座として出てくる。蒸し鶏、クラゲ、ピータンアワビの冷製などといっしょに皿に並ぶ。どう見ても、この皿の中ではチャーシューの地位が一番低い。ラーメン屋では本部長だったのに、ここではノンキャリである。チャーハンの中にはこま切れ状態になって配属され、ノンキャリ以下、パートのおじさん扱いとなる。チャーシューラーメンを懐かしがるゆえんである。


【チクワ天讃江】


「チクワは疲れている」という名言を吐いた人がいるが、こんど一度ようくチクワを観察してみてください。丸ごと一本、チクワを皿に横たえてじっくり見てやってください。どうです、チクワは疲れているでしょう。なんだからシワシワで、ぐったりしていて、ところどころ命からがら被災地から逃げてきたような焼きこげがあって、もう欲も得もない、とりあえずちょっと横にならしてもらいますよ、と言っているような気がするでしょ。ぐったりと横たわったその姿には生活のやつれが見える。少なくとも元気に見えない。同じようなすがた格好のソーセージは、見るからにとても元気だ。見るからに張り切っている


コロッケは確かに生活感はあるが、疲れている、というふうには見えない。生活感があるということは苦労をしているといういことでもある、苦労しないで育った人には生活感はない。たとえばカマボコは苦労してない。苦労してないから性格もわりとさっぱりしていて、かじると弾力はあるもののコロッと噛み取れる。そこへいくとチクワは苦労しているから性格もねっちりしている。カマボコなんかよりずっと柔らかいのに、意外にあっさりとは噛みきれない・少し伸びたりして抵抗する。この“苦労人のネチネチ”がチクワの味わいなのである。だからチクワがそばにいると、それだけで安心するところがある。


なるほど!ときどきチクワを食べたくなるのは安心感だったのかあ!疲れた時には東海林さだおのエッセイが特効薬である。オススメです。(^^)

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2016-05-30 GOURMET〜絶品!アイスキャンディ!「京都本くず氷 清水本店」

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フルーツポップス 500円

京都本くず氷 清水本店

京都市東山区清水四丁目168-3  050-5539-4935

10:00〜18:00 水休

http://honkuzu.kyoto.jp/

京都清水寺に向かう松原通の坂道の途中。友人が、アイスキャンディ屋さんを開店して大人気!ということで

行ってまいりました。(^^)


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修学旅行の子どもや外国人が多い。この通りを歩くだけでルンルン!!!


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その名も京都本くず氷」。提灯がアイスキャンディになっているのがキャワユイ。(^^)


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いいねえ!雰囲気あるねえ。


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吉野葛で作った新食感の和氷菓子アイスキャンディ」。聞くとめちゃくちゃこだわって、原価がシンジラレナイくらい高い!


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メニューは個性的。みんな食べたいんだけど、やっぱりいろんな味が楽しめる「フルーツポップス」だなあ。


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おおー!!!美味い!フルーツがそのまま入っている!そして一つの味じゃなくて次から次へと味が変わる。

まるで「アイスクリーム界のカメレオンや〜〜!」(彦麻呂ふうに


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古さと新しさが共存しているまさに京都ならではの味!


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歩いてすぐ近くのこちらのKEY'S CAFE 京都八坂の塔店」でも扱っています。http://ameblo.jp/kyescafe-kyouto/

全製品を背杯したいなあ。超オススメです。\(^o^)/


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2016-05-29 「屋根裏の仏さま」(ジュリー・オオツカ)

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この本はスゴイ…壮絶だ…タイトルからは想像もつかない…facebookの友人からススメられて読みました…。こんな歴史があったとは……。それが事実だったとは……。


20世紀初頭、写真だけを頼りに、アメリカに嫁いでいった娘たち。百年前、「写真花嫁」として渡米した娘たちは、何を夢みていたのか。厳しい労働を強いられながら、子を産み育て、あるいは喪い、懸命に築いた平穏な暮らし。だが、日米開戦とともにすべてが潰え、町を追われて日系人収容所へ――。女たちの静かなささやきが圧倒的な声となって立ち上がる、全米図書賞最終候補作」そのエッセンスを紹介しよう。


船のわたしたちは、ほとんどが処女だった。黒くて長い髪、幅の広い平らな足、背はあまり高くなかった。子どものころから薄い粥しか食べたことがなく、がに股気味の者もいた。14歳で、まだほんの少女のものもいた。多くは田舎の出で、船では何年も着古した着物を着ていた。


・船でわたしたちは、最初に、おたがいの名前さえ覚える前にー夫となる人の写真を見せあった。彼らはハンサムな若者で、瞳は黒く、髪は豊かで、肌はなめらかで傷ひとつなかった。三角屋根の木造の家の前で撮った写真もあった家は白い杭垣で囲まれ、芝生はきれいに刈り込まれていた。家の前の車回しでT型フォードにもたれいる写真もあった。彼らはみな、そこにいると、わたしたちを待っていると、サンフランシスコで、船が港に着いたら待っていると、約束していた。


・船でわたしたちはよく考えた。あの人のことを好きになるかしら。愛せるかしら。波止場にいるのを初めて見るとき、写真の人だとわかるかしら。


船のわたしたちは、初めて夫に会ったとき、いったいだれなかのか見当もつかないとは思いもしなかった。送られてきた写真が20年前のものだとはわたしたちに宛てた手紙が、夫ではなく、嘘をついて心をつかむのが仕事の、字の上手なそれ専門の人が書いたものだったとは。海をはさんで自分の名前を呼ばれるのを初めて聞いたとき、ひとりは帰りたいと目を覆って顔をそむけた。ここはアメリカだ、とわたしたちは自分に言いきかせた。心配することはない。それは、誤りだった。


19世紀に始まった日本からアメリカへの移民は、大半が肉体労働に従事する独身男性だった。結婚するために一時帰国する余裕などない彼らが頼ったのが。いわゆる「写真結婚」。見合い結婚の変形で、自分の写真と履歴を日本の親族に送ってもらって相手を探してもらう。花嫁候補からも同様に写真と履歴が届き、縁談が成立すると、花婿不在のまま日本で入籍をすませ、花嫁は船でアメリカの夫のものへやってくる。異国のちで初めて顔を合わせる夫が、もらった写真やりれきとは大違いだった。という事例はよくあったものの、大半の花嫁は帰国費用など持ち合わせず、泣く泣くそのまま夫婦としてやっていくこととなった。見込み違いだった夫と暮らし、辛い労働の日々に耐えるうちに、やがて子ができ、生活もじょじょに安定していく。だがその後に待っていたのは、強制収容によってすべてを失うという試練だった。そうした「写真花嫁」たちの忍耐のうえに、アメリカにおける今日の日系人社会の基盤は築かれたと言えるだろう。


描写が実に細かく、ドキュメンタリー映画を見ているよう。日本人であればこの歴史を知らなければ。オススメです。(・o・)


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2016-05-28 「企業家活動でたどる日本の食品産業史」(宇田川勝:監修)

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この本は、何気に感動するよー!(・o・)

私たちが当たり前だと思っているものでも、誰かが作り、発明し、行動し、普及していったのだ。その中でも身近な、食品産業の開拓と発展に貢献した熱き企業家たちの姿が学べる1冊。なかでもサントリー創業者鳥井信治郎を紹介しましょう。


鳥井信治郎サントリー)】


1879(明治12)年大阪生まれ。父は両替商米屋を営む。信治郎は13歳のとき薬種問屋小西儀助商店(現在のコニシ株式会社)へ丁稚奉公。小西儀助商店は主に漢方薬を取り扱い、西洋の薬も輸入し、ブドウ酒やブランデーなどの洋酒も手がけていた。信治郎にとって丁稚奉公はかなり苦しいものだったが。そこで化学の知識や薬品の調合技術を身につけ、洋酒についても知識や製造方法、さらに微妙な味と香りを嗅ぎ分ける舌と鼻を養っていった。


そして1899年鳥井商店(のち寿屋洋酒店)を開業。主にブドウ酒の製造販売を行っていた。といって、アルコールに砂糖や各種の香料を混合してブドウ酒に近い風味を出したいわゆる合成酒だった。やがて本場の輸入ワインを売りだそうとしたが、スペイン産のブドウ酒は当時の日本人にとって酸味が強すぎて舌になじまなかった。信治郎は日本人の舌に合う少し甘目のブドウ酒を何としても作ろうと思った。やがて「この酒は世界のどこにもない、日本のブドウ酒、日本のポートワインや」と、独特な味と品質の甘みブドウ酒=赤玉ポートワインだった。1907年販売


信治郎はウイスキー製造を車内で打ち明けたとき、社員全員が反対した。ウイスキー事業は莫大な資金を要する上に、出来不出来は長年の貯蔵を経てみないとわからない。それゆえ製造方法の良し悪しも、短期間では判断できない、ましてウイスキー醸造スコットランド以外の地で成功したことがなかった。たとえ醸造に成功したとしても、消費者に受け入れられるか不明である。ウイスキー事業への進出は、「赤玉ポートワイン」で軌道に乗った寿屋の全資産を賭けるものだった。スコットランド醸造学の権威、ムーア博士からスコットランドウイスキーを学んだ日本人がいる。自分の代わりに彼を雇ったらどうか」という手紙を受けた。その人物の名は竹鶴政孝と記してあった。1923年山崎工場の初代工場として、日本初の本格的なウィスキー製造が開始された。


苦心の末にできた国産初の本格的ウィスキーサントリーウィスキー白札」1929年発売。「サントリー」の名称は、「赤玉ポートワイン」の商標「赤玉」を象徴する太陽(サン)と自分の名前(トリイ)を結びつけたものである。しかし評判は「焦げ臭い」などと厳しい評価1931年には原酒の仕込みを断念した。信治郎は再び技術者スコットランド派遣ウィスキー製造について研究させた。信治郎は、ウィスキー事業の成功を信じて、原酒の改良に努めるとともに、粘り強くブレンドを繰り返していった。こうして1937年12年もののサントリーウィスキー角瓶」を発売した。じっくり熟成された原酒のうまみと、信治郎のブレンドの才能と努力が結集したものだった。すっきりとした亀甲切子の角瓶も大きな特長だった。発売後3年後には、売れて困るという事態を招来した。山崎工場の庫出料は、1930年の17キロリットルから1940年には291リットルまで増加した。こうして信治郎は、日本の洋酒国産化への道を切り開くことに成功したのであった。


信治郎の口ぐせに「やってみなはれ」という言葉がある。会社のため、顧客のため、さらに社会のために何か役立てるものはないかと常に考え、よかれと思ったらこれを即実践していったのである。ウィスキー事業に挑戦する際も、信治郎は自分自身にこの言葉を投げかけていたと思われる。寿屋の歴史は常に新しいものに果敢に挑戦していった軌跡でもある。


その他、三島海雲カルピス)」「二代鈴木三郎助味の素)」「中島董一郎キューピー)」「鈴木藤三郎(台湾製糖)」「相馬半治(明治製糖)」「藤田田日本マクドナルド)」「安藤百福日清食品)」「二代茂木啓三郎(キッコーマン)」「七代中埜又左エ門(ミツカン)」など。


どのページから読んでも企業家(起業家)の躍動感が伝わってくる!オススメです。\(^o^)/


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2016-05-27 「知らなかった!「県境」「境界線」92の不思議」(浅井建爾)

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私の大好きな地理。著者の浅井建爾さんの本は特にオモシロイんだよね。(^^)

「23/47。この数字、全国47都道府県のうち県境未確定地を抱えている都県の数。なんと未確定地の面積は、長野県の面積に匹敵する13,399平方キロメートル、つまり日本の総面積のなんと4パーセントを占めている。そこには悲喜こもごも様々なドラマとは」そのエッセンスを紹介しよう。


県境市町村境は行政区分上の単なる境界線に過ぎないかもしれないが、この目には見えない一本の線には非常に大きな意味が含まれていることを忘れてはならない。極端なことをいえば、境界線がその地域および、そこに住む人々の命運をも左右しかねないと言っても過言ではないのである。その境界線をめぐって、これまで全国各地で激しい争いが繰り広げられてきた。


複雑に屈曲している県境市町村境は、いったい何を意味しているのだろうか。そしてその境界線はどのようにして決められたものなのか。それを突き詰めて調べていくと、県境市町村境は極めて重要な線でることを知るだろう。不自然に曲がった境界線からは、血なまぐさい争いの跡が見えてくる。そして、現在の境界線が確定するまでには、私たちが、知らなかった悲喜こもごものドラマが隠されていたのである。


その他、廃藩置県後のあとに誕生した藩がある!?〜七年足らずで消滅した幻の藩〜」「三府三百二県が三府七十二県に〜わずか半年で県の和が四分の一に激減したわけ」「繰り返された政府の強引な統廃合〜47都道府県が成立したのは戦後になってから〜」「なぜ県名に旧国名がない?〜県名は郡名と都市名に由来する〜」「奈良県が地図から消えた〜堺県と大阪府に併合された奈良県〜」「四国には愛媛高知の二県しかない時代があった〜めまぐるしく変わった」「石川県は人口日本一の大県だった〜併合され、分離独立した福井県富山県〜」「北海道にもあった「青森県津軽郡」」「長野静岡県境は毎年移動する?〜熱気あふれる「峠の国盗り綱引き合戦」〜」「神奈川県だった三多摩東京に移管された本当の理由〜三多摩多摩県として独立していた可能性も」「西東京市埼玉県だった?〜練馬区の大泉地区、北区の浮間地区も埼玉県だった〜」「埼玉県に住んでいるのに住所は東京都境界線をまたいで建つ施設の住所はどちらになるのか〜」「川の対岸になぜ同じ地名がある?〜神奈川県民が東京都民の仲間入り〜」「日本一摩訶不思議福島山形新潟三県の県境〜わずか幅1メートル弱の福島県が7.5キロ続くわけ〜」など。


どこから読んでもオモシロイ!県民性の違いってここからくるんだねえ…。おすすめです。\(^o^)/


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