農学者、農政家、法学者、教育家。農学、法学、哲学の博士号を持つ。
「武士道」の著者として有名。旧五千円札の肖像画の人物。台湾総督府技師として台湾の殖産に携わり功績を挙げる。また国際連盟事務次長として国際的に活躍した。教育にも深く携わり、多くの学校の教職を歴任し、また多数の啓蒙書を著す。
1862年
盛岡に生まれる。
1877年〜
札幌農学校にて農学を修める。
上京して東京帝国大学に入学。
入学試験面接にて「太平洋の橋となりたい」と述べる。これはのち人生で実践された。東大では英文学、理財、統計学を学ぶ。その後海外の大学へ留学。経済学、史学、農政学、農業経済学などを学ぶ。
1891年〜
同じキリスト教クエーカー教徒のメリー・エルキントンと結婚。母校札幌農学校の教授となる。
1897年〜
過労がたたり重症の神経症にかかる。農学校教授を退任し療養生活に入る。
1900年〜
療養地で書き上げた英文「武士道」、「BUSHIDO THE SOUL of JAPAN」発刊。出版と同時に新興国家日本の真の姿を紹介する本として世界中で大きな反響をおこす。
アメリカ大統領、セオドア・ルーズベルトを感激させ、日露戦争講和にアメリカが協力する一因となった話は有名である。
帰国後台湾総督府技師として台湾の殖産に尽くし、精糖産業などを伸ばし、台湾の経済的自立を助ける。
京都帝国大学教授を兼務。
1906年〜
第一高等学校長となる。
1909年〜
東京帝国大学教授を兼務。
この間「修養」「世渡りの道」「一日一言」「人生雑感」などを著す。「修養」は昭和までに148版を重ね青年に大きな影響を与える。「世渡りの道」は93版を重ね、こちらも好評を博す。
1919年〜
国際連盟事務次長となる。国際平和に力を尽くす。知的協力委員会を設立の任にあたり、アインシュタインやキュリー夫妻とも交流。バルト海のオーランド諸島帰属問題を「新渡戸裁定」によって解決。見事な紛争解決手腕を発揮する。
1926年〜
国際連盟事務次長辞任。貴族院議員となる。アメリカで排日法が成立し、悪化した日米関係の修復を目指す。太平問題調査会理事長とし太平洋会議などで活躍。
松山にて「日本を滅ぼすものは共産党と軍閥である。そのいずれが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」と発言し、新聞や軍人より批判される。
1933年
日本、国際連盟から脱退する。
「なんといっても日本を国際社会の孤児にさせてはならない」と訴える。
第5回太平洋会議日本代表としてカナダ・バンクーバーへ向かう。会議終了後、腹痛を起こし入院。
10月16日、死去。享年72歳。
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