ジェンフリもう飽きたよ

chiki さんの「ジェンダーフリーとは」にくだらない因縁をつけているサイトがあるので、解説しときます。

しかし、ジェンダーフリーが、「双子の症例」を大成功だと吹聴した性科学者、ジョン・マネーに強く影響されて出てきたことは、マネー博士の嘘を暴いたミルトン・ダイアモンド教授が明瞭に述べている。

 あのね、ダイアモンド博士は生殖学者であって、フェミニズムの歴史についてそんなに詳しくないの。たしかにダイアモンドは「双子の症例」について「この報告により、人は性心理的ジェンダー・レスの状態で生まれ、ジェンダーに特徴的だと思われるものはもっぱら養育によるものだというフェミニストの主張が生まれたのです」と書いているけれど、「双子の症例」以前にそのような主張が書かれたフェミニズムの本はいくらでもあります。つまり、この点についてはダイアモンド氏が間違い。ダイアモンド氏は性科学について詳しいばかりに、性科学の影響を過大評価してしまったのね。
 もっとも、マネーがフェミニズムに影響を与えたというのはある意味事実。それは、マネーがもともとは言語学の用語であった「ジェンダー」を「生物学的性別=セックス」に対置されるものとして使用したことをきっかけに、フェミニズムにおいて「ジェンダー」にまつわるさまざまな考え方や理論が生まれたという意味であって、「双子の症例」とは無関係。
 つぎ、

ジェンダーフリージェンダーレスと違うと言うが、ジェンダーフリーの提唱者で、男女共同参画社会基本法の理念作りに中心的役割を果たした大沢真理・東大教授は、「ジェンダーからの解放=ジェンダーそのものの解消」とはっきり書いている。

 これは、大沢さんがどういう意味で「ジェンダーそのものの解消」と言ったのか、Bruckner05 さんが理解できていないだけ。ジェンダーというのは辞書的には文化的・社会的な性役割や「男らしさ/女らしさ」といったものを指す価値中立的な言葉だけれども、現実にそれは一種の規範として強制力というか圧力を持つわけ。ジェンダーフリーの立場は「性役割の強制はよくない」「男らしさ・女らしさの強制はよくない」というものだけれど、強制力を伴わない「ジェンダー」というのは実質的に考えられない。というか、辞書的な定義はともあれ、現実には強制力を伴う規範的なものが「ジェンダー」として認識されるわけ。大沢さんが「解消」するべきだという「ジェンダー」は、このような規範のことであり、また性別という差異にことさら大きな意味が与えられ違った扱いの理由とされる社会的構造のことでしょ。
 「ジェンダーフリージェンダーレスとは違う」というのは、「ジェンダーフリーは(保守派が言うような意味での)ジェンダーレスとは違う」と言っているの。保守派が言う「ジェンダーレス」とは、男と女がみな同じことをしなければいけない社会、あらゆることが50%と50%で分けられなければいけない社会でしょ。大沢さんが求めている社会は、そんなのではないはず。大沢さんの言う「ジェンダーの解消」とは、性別を元とした規範がなく、性別にことさら大きな意味が与えられていないような社会を作ることでしょ。
 わたしは別に大沢さんの言動を支持するわけじゃないし、彼女の文章には誤読を招きやすい要素があるとは思うけど、それでも誤読は誤読。相手の言うことは正確に理解してから反論しましょうね。
 あとなんですか、「ジェンダーがセックスを規定する」という言明も、このヒトはいまだに理解できていないみたい。これは簡単な話で、要するに「あなたがセックスだと思っているものは身体そのものではなく、文化的・社会的なレンズを通して見た、身体についてのひとつの解釈ですよ」というだけの話。こんな当たり前のことが、どうして「狂気のジェンダー論」になるのか。
 というかね、「ジェンダーがセックスを規定する」なんて話、はっきり言って分からなくて構わないの。だって、そんなことはジェンダー論を学んでいる人が分かっていれば良いことで、直接ジェンダーフリー周辺の議論とは関係ないもの。ところが、ジェンダーフリー反対派の中に、ジェンダー論の少し分かり辛い部分を脱文脈的に取り出してみせて、これだからジェンダー論は全部駄目で、それと何やら関係があるらしいジェンダーフリーも同じく駄目である、と決めつける困った論者がいるのね。
 そりゃ、学問的な議論の中の一部だけを文脈から引き剥がして取り出せば、一般の人には理解し難い内容に見えるでしょうよ。でも、だったら性役割分担や「男らしさ・女らしさ」は強制すべきだということになるわけですか? 関係ないでしょ。ジェンダーフリーというのはその程度の身近な話しかしてないんだから、ことさらややこしい話を持ち出して読者の混乱をさそう論者には気をつけましょう。