信夫の心は千々に乱れて

小島信夫の時代論や文学論は、彼のエピゴーネンである高橋源一郎保坂和志などがもう五十代をすぎて六十代に向かっている現在では、まじめに読むにはこちらのほうが飽きあきしてしまっているのだが、小島による先行作家の評伝やその作品にひきよせて自己を語ったエッセイは興味深い。『現代文学の進退』で草平や秋声、漱石から独歩について語っているのを読んでいるのだが、ぜんぶ女の話になってしまうのである。これはなんなのだろう。

秋声の項にいたっては、老いて妻と死別してから得た若い愛人をのろける秋声を読者に紹介した後で「こうしているうちに秋聲は、順子の側に立ち、内側から、めくるようにしてそれまでの自分を眺めることをおぼえたようにも思われる」(『現代文学の進退』157ページ)とまで書いて、ようするに先行作家の艶福をうらやんでいる(これを書く数年前に小島もまた妻と死別し次の年に再婚していた)。萌えるってまさにこのことだ。

新潮現代文学37の小島信夫集巻末にある年譜は「この年譜は編集部で作成し著者の校閲を得ました」というものなのだが、兄弟姉妹が死んだことをいちいち記し、昭和45年には「弟日出夫死去。肉親のすべてを失う」とあって、小島自身が書き込んだものとおぼしい。編集部がここまで踏み込んだことを書かないだろうと思うのである。

出版社が似た小説を宣伝するために先行した作品を絶版にするなんてことがあるのかしら

http://ja.wikipedia.org/wiki/佐藤亜紀#.E6.96.B0.E6.BD.AE.E7.A4.BE.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82.E9.80.94.E7.B5.B6.E3.81.AE.E7.B5.8C.E7.B7.AF

しかし『鏡の影』という小説は出版社をかえて現役でありつづけているのだから、ようするにファンはついているわけで慶事であると思うのだ。

私はつい、「出版社が似た小説を宣伝するために先行した作品を絶版に」したのだと訴えることで、なにか別のモメントを佐藤が晴らそうとしたのだと、思ってしまうのである。

http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20060915

5年後のいまになって、この文章をはじめて眺めたのだが、いきなり他人の思惑の駒にされた当惑や憤りがよく伝わってくる。

さまざまなスクイーズ

なにをもって自分が搾取されていると感じるかは、人によってさまざまである。佐藤亜紀文学賞の応募作の下読みの仕事をした話を軽くすませたことに私はなにかひっかかりを感じる。私の語彙でいえば、このとき佐藤は「平和ということの実相」に触れたのだ。ここのところをもっと詳細に、克明な私小説として佐藤は書くべきだと思う(もしかしたら書いているかもしれない)(そうそう、倉阪鬼一郎の『活字狂想曲』みたいな感じで)。小説が定期的に途切れなく粛々と人々に供給されていくことの冷厳さを、そのプロセスの歯車になった自分のことを客観的に書けばいいのだ。

私は視覚的な人間なので、映画の物語にはさして興味がない。だから俳優への関心も薄い(どれだけ物語を背負えるかが俳優の仕事だ)。いつからか、私は、私の見ている現実が、映画なんかよりもよほど珍妙、ストレンジで、面白いものだなあと思うようになってしまった。商業映画の自己規制がきびしくなって、あれもダメ、これもダメとなってきたのと軌を一にして、新作の映画を見る楽しみを感じなくなってきた。物語が好きな人は、いまの映画でも楽しめるのかもしれない。私は、そうではない。それだけだ。

小谷野さんにも言外につたわったかもしれないが、私は『母子寮前』よりも『中島敦殺人事件』のほうが好きなのである。「なんとなく、リベラル」も悪くないが、書き込みが少ない。『中島敦殺人事件』のほうは、平和であることの実相を読者に開示する入り口までたどり着いていた。