『秘密とウソと報道』

「奈良少年調書漏洩事件」の章だけ、むかし立ち読みしたことがあった。今回は図書館本を借りて通して読んだ。

報道というのはそもそもご立派なものか。下世話な興味を満足させることは必要なことですらある。「ご立派さ」にこだわると、思考にこわばりが生じて言うことに矛盾や脱落が生じる(三井環篠田博之西山太吉ほか)。下世話なことはたいていは秘密にされていて、だから職能をもった者が「あばかなければならない」。他人(警察発表など)のいったことを唯々諾々と受けて、文末に「という」を添付するだけなのは退廃である。しかし、「あばく」ことにはルールが存在する。虚報をもって秘密をあばいたとするのは論外(西澤孝)。証拠を盗んでしまうのはいかがなものか(山崎朋子草薙厚子ほか)。身分を秘匿して取材対象内部に潜入するのは考えもの(鎌田慧)。虚言症の世界は奥深くて、虚言症の疑いがある者の「告白」を聞く側は悩んでしまう。「ご立派」な宣伝でもてはやされた足利事件の「DNA鑑定」はお粗末だった。名誉毀損の厳罰化は公明党が頑張ったから。なにも「ご立派さ」から離れることは、かならずしも無頼を意味するとは限らなくて、少部数の定期購読者向けの雑誌は、「ご立派」ではないし、質も保たれている。…本書の話題の流れは、おおよそこういう感じ。

「ご立派」なだけの「空気」を撃ちたいという著者の気概は、わからないでもないが、「空気」だけに、その批判も散漫なものにならざるをえない。だいたい、人間の生活に「空気」は必須のものである。自明性とでも言い換えうるか。

西山事件における安川審議官の手紙と、松川事件における倉嶋記者のエピソードは興味深い。