1/24ustまとめー未決定なわたし、そして言葉と身体

 お久しぶりの更新なのです。

 今回の内容は昨日のustのまとめ+補足、ということで、元々喋るのが苦手である上に、正直なところなかなか話しづらいテーマであったためか、舌が思うように動かずスミマセンでした....(´・ω・`)こういうのって、原稿用意しないと難しいのかな...大まかなアウトラインを頭に入れて程よく脱線しながら語ろうと思ったんですがどうもわたしにはそういう器用なことは向いてないようです。ま、話しづらさを感じるのは、意外にも(?)わたしに「いい子」でありたいところがまだ残っているせいなのかもしれません。仲の良い数人と、音楽でテンションを高めつつお酒を飲みながら喋ればもう少し滑らかになったかもしれませんね。言ってもしょうがない話ですが。
 さあ、前置きはほどほどにして....

■マイノリティにさえなれない
 セクシュアリティについての言説を目にするとき、わたしがいつも違和感を抱くのは、多くの人々が実に無邪気に、あるひとつの身体の志向性と、ある言葉が一対一対応するものと思い込んでいることです。もちろんこの無邪気さは、マジョリティにより多く見られるものですが、しかし、マイノリティの側にも確実にあります。
 たとえば今のわたしはセクシュアリティの言葉で言えばMtFTGと表現することができるでしょう。しかしその言葉だけで、わたしの身体が持つ、そして持ってきた、そしてこれから持つかもしれないセクシュアリティをすべて表現できるでしょうか。あるいはもしかしたら持っていたかもしれないセクシュアリティを。どうもわたしは、この身体はこの言葉にかちっとハマらないような気がするのです。もちろん、他の言葉と同じように。
 確かにわたしは小学生の頃から女性ジェンダーに自分を当てはめ、自分が男性の身体を持っていることを不条理、何らかの暴力だと思っていたことが多かった、でもかといってこれまで常にその感覚を持ち続けていたというわけではありません。たとえば、中学3年生の頃や、大学の1,2年生の頃、このときはわたしの人生の中で良い友人に恵まれていた時期でしたが、その頃はこういう違和感は少なかったように思います。思えば、あの友人たちは、わたしが性別のあやふやな子どもであることをある程度容認してくれていたような気がします。そしてそんな中でわたしは自分の性を受け入れつつあり、ある程度ホモソーシャルな付き合いの中にも入ったりもしたのでした。何人かの女性とも付き合いましたしネ。(どれも1ヶ月も続かなかったなー☆)まあ、その後は...(笑
 あんまり自分の話をするのも気恥ずかしいので、また別の例を挙げましょう。たとえばゲイの人は自分が生まれた頃からゲイだと、レズビアンの人は生まれた頃からレズビアンだと、思っている人がすべてなのでしょうか。どうもわたしの見たところではそういうことではなさそうです。だいたい自分はどの性別が性的に好きかなんて物心ついた頃から知っているなどというのは、人によってはあるかもしれないにせよ、誰もがそうであるというのは、かなりあやしい話だと思われます。(あ、ひとつお断りですが、LGにしてもTにしても生物学的決定論の立場はわたしはとりません。これはやはり理屈としてかなり無理のある説だと思っています。かといって環境決定論もとりません。生物学的要因はあるが決定的ではない、という立場です)
 さて、そうだと自覚する前の、あるいは、そうであると自分を規定する前のかれら彼女らや、以前のわたし、こういうマイノリティ未満、の人はどういう風に扱われるのでしょうか?もしかすると最近とみに増えてきたように思えるAセクシュアルや、パンセクシュアル、Xジェンダーなどの非定型セクマイの話と関係がありそうな気がします。(非定型セクマイ、というのはわたしが勝手に開発した用語なのでご了承)

 こういうと性対象と性自認の問題を一緒くたにしている、とお叱りを受けるかもしれませんが、わたしがいまここでつかみたいのは、性対象であれ、性自認であれ、そういったかっちりとした言語による枠組みが届かない、他者から見ればカオスと矛盾に満ちた、だけれどもこの「わたし」の中では自明な、ゆえに通常の言語と論理では説明不可能な領域のことです。マイノリティ未満の、しかし確実にマジョリティではないかれら彼女らは、ここを彷徨っているように思います。そして、それはわたしの心の底でも黒々とした下水のように流れているように思います。そしてそこには言葉の光がほとんど——まったくではないのです——届かないのです。
 わたしはつまり、こういいたいのかもしれません、男も女も、異性愛もすべて言葉によって構築された制度でありフィクションであると。そしてこれらのものに疎外されたものこそが、「黒々とした川」であると。たぶん、同じ意味であるように思います。男、女、愛、セックス、結婚、出産...これらすべての言葉が自分の身体に馴染まず、やけに人工的なものに思え——言葉とは制度とはそもそも人工的なものであると諦めることをかれら彼女らは知らない——そしてこれらニセモノの言葉の外、この黒々とした川の中で、大部分の言葉の光から疎外された、ほのぐらい、身体感覚とイメージが支配する世界で、わたしはほんとうのわたしを探す、わたしが分らないわたしは、この世界に対して受け身の姿勢で、翻弄され、巻き込まれながら、ほんとうのわたしなどそもそも存在しないのではないかと感じながら——
 
 ……っとぉ、こういう話は小説でやれって話ですね。
 さて、この、「黒々とした川」に足を取られた人は、たとえば性自認の問題で既存の「男」からも「女」からも疎外されたならば、TGにさえなれない。性対象の問題で疎外されたならば、自分をゲイともビアンともヘテロだとも言えない、そういうことになるわけです。
 未決定のわたし、何ものでもないわたし。

 ここで、千葉雅也さん(@masayachiba)のツイートを引用します。
『ゲイが(なぜ自分はヘテロではないのか?という)アイデンティティ危機に陥って統合失調症的になるっていうのは、本当なんでしょうか。それは、同性愛者の自らに対する「内面化されたホモフォビア」をこじらせたケースだと思います。そういう苦しみをする人もいるだろうけれど、しない人もいる。』

 千葉さんが疑問を呈しているこの噂(?)ですが、まず統合失調症的、という表現がどうだろうかという突っ込みどころはありますよね。そして千葉さんの見解は、本当にぐさっと来るほど同意というか、その通りというしかないというか、これ、TGでもありますよ。内面化したトランスフォビア。わたし女装したオサーンじゃんマジ死にたいこんなのイヤだ嫌だもうわたしは別の存在になるっていうかわたしって誰マジ誰、みたいな。わたしにもありますよもちろん。フン、そんなはずはないし、たとえ女装したオサーンだったとしてもそれの何が悪い!と内なる自己に言い返すのがイイと分っていても。んー、認めないとダメ、かな。
 しかし、この、『ゲイが(なぜ自分はヘテロではないのか?という)アイデンティティ危機に陥って統合失調症的になる』という、このあやしげな話は、もしかすると、「ゲイ」の部分を先ほどわたしが述べた「セクマイにすらなれない人たち」に変えれば部分的に成り立つのかもしれません。かれら彼女らのよるべのない気持ち、「わたし」をどこに置いたらいいのか分らない状況、であるがゆえに言葉を奪われた状況、おそらくこれはフォビアとは微妙に異なるものではないのかしら。
 さて、彼ら彼女らがこの黒々とした川から脱出するには、方法はひとつしかないでしょう。自分は○○である!と規定し、できることならどこかのコミュニティに向かって宣言することです。つまり、カミングアウトということになるかなー、んー。カミングアウトって外にするものだけれど、わたし、これは対外的な効用や実利的な効用だけじゃなくて、内的な効用もあると思うのですね。TとLBではそりゃあ違う、かなり違いますけど。これは後ほど。
 つまり、カミングアウトの対象には、自分も含まれている、ってことかしら、あら、なんか既出っぽい結論だなあ。

 まーわたしなんてまだまだ。ぜんぜんですけどねぇ。どっちかっていうと黒い川を彷徨ってます、この歳でw


■自縄自縛こそが人生だ的な

 それにしても、正直、上の話はまったくもって暴力的な物言いであって、たとえば五年くらい前のわたしが読んだならブチキレもののお話かもしれません。何ものにもなりたくないわたし、何ものでもないというわたし、ありとあらゆる既存のカテゴリから自由なわたし、を自らの手で言葉でもって縛り付けよ、というのですから。枠に入れよ、と。ほんとうにMtFかどうかちょっとよくわかんないのに、どうもMtFっぽいみたいだから、MtFと宣言してみよう、宣言することで確信してみよう、だなんて、自己欺瞞もいいところじゃないですか。昨今タイムラインで決断主義なる言葉を見かけますがセクシュアリティ決断主義はちょっとやばすぎるような気もしますね。さすがにそこまで言ってませんにゃ。言ってませんが、あるセクシュアリティが100%自分にとって疑いなく身体に馴染んでなければ、そのように自己規定してはいけない、というのでは、どーにもならんではないか。そんなこというたらノンケもほんのちょいとしたきっかけで黒々とした下水道に落っこちてしまうわ、蓋のとれたマンホールがあっちこっち状態。ま、そうならないように世の中いろいろと整備されてるのだけれど。
 ほんとうのわたしの収まる場所、疑いを鋏む余地のないセクシュアリティ、そんな100%のアイデンティティは存在するのだろうか。わたしはひどく懐疑的だ。言葉は人工的なものであり、この身体はそうではない、のだから。それでは「わたし」は人工物か天然物か?......というと微妙だけれど。
 大学のころゲイの子が「たぶん、俺、女の子とヤッてみたら超気持ちいいと思うんだよね」と言っていたのを思い出す。やんないけど、と彼は付けたしたけど。

■ジェンダレスワールドでは同性愛もトランスも存在しなくなる?

 でもこれいかにもトランス的な視点だなあと思う。ゲイの人もビアンの人もちょっと違うと思う。ゲイやビアンやもっといえばバイでも、好きになっちゃえば、コーフンしちゃえば、それで自分はそうだと確信できるだけの条件が揃うもの。つまり、自分を規定するまでの迷いの期間が少ない、というか、0の人がけっこう多いだろうと思う。映画『メゾン・ド・ヒミコ』で、オダギリジョー柴咲コウにキスしたシーンは、おや、と思ったのだけれど、ああいう揺らぎはあり得るにしても、トランスみたいに自分は何ものなのか問題でグダグダ内面で悩まないような気もする。まあこれ現時点の話だけれども、子供産めないとか身体の構造がとか、いろいろあって、たとえばわたしなんてどんなに見目が女らしくなっても自分が完全に混じりっけなしの女だと確信できないよね。少なくとも内心はMtFのtに留まりつづけることだろう。SRSと同時に記憶消すとかすれば可能かな。でもさすがにそれは望まないわ。それ望んでる人がいたとしたらたぶん性同一性障害とかじゃなくて別の病気だよ。まあ内面の迷いのまったくないトランスもいるだろうけどさ。少数派だと思うけど。
 いやしかし、ゲイとトランスも隣接する部分があるのよなー。だって、昔ゲイでMtFっていう人もいるでしょう。同性愛を性同一性障害と誤診するケースが多い、みたいな話が昔タイムラインに流れてきたけど、それ、どういう基準なんだろう...。
 こういう性別がぐだぐだになった話、そしていかにこの世界の性規範が脆いかということを考えていると、やっぱりジェンダーが完全に相対化された世界というものを想像したくなりますね。男も女も関係ない!誰を愛そうが関係ない!そうすれば、あの傷だらけの少年少女が歩いていた薄暗い黒々とした下水の川にもまばゆい光が射すはずです。というか、下水の水が地上に溢れ出し、それはやがて大海とひとつになるでしょう。彼らは彼女らはいつまでも彼ら彼女らでいることができる。誰一人性別で縛られることはなくなる。確かにこれは現時点では理想論でしょう。しかし理想を持つことはよいことです。いいではありませんか。ばんざい!
 でもでもでも。
 そうすると一つ問題が出てきます。子孫の再生産なんてこの段階に入れば科学がなんとかしてくれるはずなので放っておきましょう。問題はそれではなく、この理想というのは実は同性愛やトランスを疎外するもの。この究極ラジカルな立場から見た時、同性愛やトランスはむしろ古い規範に縛られた反動的な存在、と見なされてしまう。そして実際、そのように言った人もいた。千葉さんが引用したドゥルーズ、「同性愛は強制異性愛システムの陰画である」と言った人、そして、性別が相対化されたらトランスはあんだけ頑張ってトランスするのにその意味がまったくなくなってしまうでしょう。
では問いかけましょう。

Q,"性別のない世界"の理想を掲げることはフォビアなのか?
 
 ごめん正直、わたしはこれはイエスじゃないかと思う。理解できるし、わたしも言いそうになるけど、フォビアだと思うよ。
 実はこの問いを見た時に、直感的に、そう思ったのだけれど、直感的に、でブログ書かれても困りますわね。んでわ、説明します。説明ってつまんないと思うけど、まあ、いいっぱなしじゃあね。
 この思想、どうも"否定"から入ってるのよ。字面なんか美しいけどさ。こういうものがあるのが悪いんだっ、いっそすべて消えてしまえっ、みたいな、消してやる!みたいな安直さ。性別が相対化されたって、何かしら別のものがあらわれてくるに決まってるの。性別だけでモノを考え過ぎ。人間のアイデンティティは性だけではない。そしてたぶんこれやっぱり、わたしが言うのもなんだけれど、ちょっと肉体を軽視しすぎじゃなかろうか。産まれたままの肉体を大事にしろっていう意味じゃなくって、人間みんなそれぞれ違う身体を持ってるんだよ、という。性別相対化したって、人間がみんな同じ形にならないんだったら同じことだ。性別規範に似た規範はまた出てくるだろう。どうもこの考え方は、見た目ほどには美しくなく、すべてのセクシュアリティに対するフォビアから観念的に生まれたもののように思えるよ。
(と、書いたところで、松浦理英子の『犬身』を思い出した。こうした「誰もが同じ世界」を夢見る主人公の語りがあったような。)

 なんというか、自己嫌悪を他人に背負わせてひどい人間嫌いに陥っている人が言ってるみたいで、神経質で余裕がなくて好きじゃないなー。
 それぞれの性がそれぞれのセクシュアリティを肯定できるようになればいい、というのが無難な落としどころではあるのだけれど、ね。
 だけどそれだとトランスは...........(まあこの続きは次回……があるかどうかわかんないな、疲れたお)