夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

美。

最近こんなことばかり言っているような気がするが、池田さんや小林秀雄の覚悟にはまさに月とスッポンとでもいうべき我が”真善美”。

しかし、小物は小物なりに、考えてもよかろう。”考える”の入門者であろうと、その思いを持つことまで咎められるわけではないはずだ。

などと入口で相変わらずうろうろするわけだが、そうこうしているうちに連休も最終日となった。

まさに人生の縮図のように、あっというまに過ぎ去った感があるのだが、まあ、物事は達成するより達成のための努力の期間が実は愉しいというのと同じく、休みというのはやはり来る前が一番楽しいのかも知れない。

暇に任せて部屋に積んである漫画を再読していたら、いっしょに積んでいた本に藤沢令夫”プラトンの哲学”と”国家”があった。

プラトンの哲学 (岩波新書)

プラトンの哲学 (岩波新書)

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

この”プラトンの哲学”、池田さんの”2001年哲学の旅”(いま本は東京に持っていっており、参照できないが)で、池田さんが藤沢さんと対談されており、藤沢さんはこの自著を池田さんの本が一般読者に届いているが如く、自らも届けたいという思いを持って書いた、というようなことをおっしゃっているのを拝見して、購入したものだ。

勿論、池田さんの週刊誌掲載の哲学エッセイと比べ、すらすらと読めるはずはなかったが、しかし”新書”という体裁、多くの人がちょっとした入門書を求める場としての新書にした、ということから既に、対象読者を広く想定されていることはわかる。

話が脱線するが、やはりこの”積ン読”、部屋の空間を占領し、ひとたび震災が起きでもすれば我が頭上にアリスのトランプが如く飛翔しのしかかるリスクとなるわけだが、こうして漫画再読の折り、ふと、いっしょに発見されたりすること、そしてぱらぱらとめくってしまう度、これはこれでいいものだなあ、などと思うわけである。

たぶんこれは本屋と似た機能だろう。いまの東京の単身宅、ほぼ池田さんの本を中心に持って行っている(それでも少しずつ増えているが)ので、それはそれで無人島に池田本を持って行った感でいいのであるが、まあこの”積ン読のなかからの発見”はほぼ無い。

予定せずに流れ出て導かれる心。

そのきっかけとなりうる、先賢の古典はやはり強烈な磁場を持っているということを実感した。

冒頭部からサブタイトル込みで引用してみる。

プラトンの思想的闘い

「金や評判・名誉のことばかりに汲々としていて、恥ずかしくないのか。知と真実のことには、そして魂をできるだけすぐれたものにすることには無関心で、心を向けようとしないのか?」
(『ソクラテスの弁明』29D〜E)

 自分を裁く法廷において、「息のつづくかぎり哲学することをけっしてやめない」と宣言したソクラテスは、アテナイ市民に向かってこう訴えかけていた。それはすなわち、彼を告発した訴人たちを背後から支える、ひたすら金と名誉への欲望によって動いている人々の広範でしたたかな日常的現実を、「いつもと同じ(哲学の)言葉」で逆に告発し返すことにほかならなかった。”

藤沢令夫 プラトンの哲学 P.2

卑近ながらも自らと同じテーマがあるようだ。つまり”生きるとはなにか”。イコール”死とはなにか”。

ソクラテスが、大プラトンが遺した問いは、いまだすこしも答えが見いだせず、むしろより五里霧中にあるようだ。

そのように恰好をつけて詠嘆して見せることは簡単だ。だがそんなことをしている場合なのか。自分の、自分しかない、この生の中で。

とこうなる。こうなってしまう。

で”美”。

美は、まえもおなじようなことを呟いた気もするのだが、真や善のあとに来るもの、という感が僕はしている。だが、一番に惹かれる。この感じ。なんなのだろうか。

これは人間のタイプを示すのではないかという気がする。

真に惹かれる。善に惹かれる。あるいは美に惹かれ、殉じる。

明らかに、自らが内包する魂のタイプに反応しているような実感がある。どうやら僕は”美”に一番反応してしまうようなのだ。

池田さんは、残念ながら”美”タイプではない、と感じている。やはり”真”であろう。真の本質をとことん掘り下げるタイプ。これには池田さんが実は”美”を体現していらしたことが関係する、と睨んでいる。いやいつもの池田さん賛美ですか。そういう(自らの内部告発の)声も聞こえるわけだが、そうでもあり、そうでもなく、美は池田さんの中にあった。心の善、心の美とともに、”体現する美”も確かにお持ちであった。

自覚、されていたと思う。そこにそうあるもの。だからどうこう、ではなく。

結局人の中での美の審美には、あまりぶれがないという。

美しいものは、美しいのだ。


それを持っていること。これは”天才”と同じだ。あらやだ、もってたのね、だ。

別に頼んで持っているわけではない。たまたま持っている。別に偉くもない。

そこのところが、”嫉妬と羨望、やっかみ”とからむとややこしくなる。それが”天才の孤独”。

そう、理解している。

だから、たぶん、美にはちょっと無頓着であられたのだと思う。

だが、持っていないものは、美に惹かれる。どうしようもなく、惹かれる。

惹かれるものは、しょうがない。我が魂(プシューケー)の要諦、じっくり付き合うしかないのかな。

などと最近は、感じて、おります。