生活圏

前の記事で、アニメ「とある科学の超電磁砲」について書いたが、よく考えてみると、このアニメはいろいろと「バランスがとれている」。けっこうよく考えられてるなーと思った。
第7話で、御坂美琴(みさかみこと)は、デパート爆破の「救済者」として、子供たちにヒーローとされ、巷の噂は、御坂は英雄ということになっていたのだが、現場で起きていたことは、上条当麻(かみじょうとうま)の能力によって、相手の能力を「吸収」したことによって被害が回避されていた。御坂は当麻に、あんたにスポットが当たらなかったけど、それでよかったのかと聞くわけだが、彼の応えは、「別に被害がでなかったんだから、それでいいんじゃない」。
こんな感じで、何度も何度も、御坂は、当麻に、気付きのチャンスを提供される構造になっているわけですね。そうやって、御坂の幼さは「ガス抜き」されている。つまり、彼女は、こういう感じで、いつまでもウザいんだけど、視聴者には「よく言ってくれた」という代弁者として、当麻が機能している構造になっている。
佐天涙子(さてんるいこ)にしても、そうですね。
佐天さんは、仲良し四人組(御坂、黒子、初春さん、佐天さん)の中で、唯一、パブリックな活動をしていない。黒子、初春は、ジャッジメントという、自治警察のような、「仕事」をしているし、御坂も、彼女のあまりにもの強さは、さまざまな暴力とガチンコでぶつかることになるのだが、当然、唯我独尊で勝手に解決していく。しかし、そうなれば、当然、ジャッジメントとの連携も発生してくるだろう。つまり、他の三人は、こういったパブリックなタスクで「チームプレー」の経験を何度も重ねてきた「猛者」なんですね。
それに対して、佐天さんは、いつも彼らと一緒にいるけど、ただ、友達「というモード」の間だけ、一緒に行動するだけで、つまり、遊び仲間なんですね。
第9話で、不良の能力者の暴力を注意するのだが、逆にその不良に、パンチで脅され、長い髪をつかまれて何度も振り回される。また、別の回では、小さな子供をかばったことで、犯罪者に殴られる。たしかに、恐い経験であり、勇気のいる行動ではあったけど、ある意味、両方とも個人行動、自分で決めてやったこと、と言えるでしょう。
しかし、最終回の最後の展開は、少しチームプレーの側面がある。他の3人は、キャパシティダウンで、能力を「もっているがゆえに」なにもできなくされている。この妨害を逃れるには、さっきまで、みんなでいた、管理室にある、その機械を止めればいい。それを知り、彼女はその部屋まで、敵にさとられないように、急いで、一人、向かう。
しかし、見ているこっちは、ちょっとドキドキするわけです。だって、彼女がそんなチームプレーをやっているところを見たことがないからです。うまくやりとおせるのか。
よく心理学では、人間は考えてから行動してるんじゃなくて、行動してから考えているんだ、と言います。つまり、人間は、理性的なんじゃない、と言いたいわけです。むしろ、自分がやってまったことを、いつも言い訳しているのが、人間なんだ、というわけです。たしかに、これは、半分は真実を突いていると思いますけど、半分は間違っていると思います。
やはり、人間は、「ただ前に進む」ということはないんだと思います。一歩を踏み出す。その、
暗闇の中の跳躍
は、もし、その人になにもないなら、絶対に起きないのではないか。絶対に、その一歩が踏み出せないのではないか。その人がその一歩を踏み出すには、一つの「世界観」が必要なのではないか。まず、この世界がどうなっているのか、どうやってできているのか、そして、その中で、自分がどういう位置にいるのか。そういったものの、確信=自明性感がなければ、その一歩を前に進ませることはできないのではないか。
もちろん、私は、例えば、(朝鮮半島で言えば)朱子学のようなものを、イメージしていますが、しかしそれは、そこまで、ディジッドである必要はない。
たとえば、こんなふうに考えてみましょう。以前、松井孝典さんの、レンタルの思想、というものを紹介しました。そこでは、「世界」は、地球圏、と、人間圏、に分けられていました。この地球という環境の中で、人間が活動している「位相」の部分がある、と。しかし、私はこの把握は不充分だと考えます。ここに、さらに内側の位相として、「生活圏」のようなものを導入する必要があると考えます。
この発想の思想的バックボーンが、独我論になります。デカルトはさかんに、自らの自明性を疑います。「自分が今こうやって、見ている世界は、実は、夢の中なのではないか」。自分は、今、経験している、とか言っているけど、ずっと、病院のベッドの中で見ている夢なのかもしれない。いや、むしろ問題は、夢と夢でない現実の、「区別」に(独我論的な)意味があるのだろうか、というところにある。
ざっくばらんに言ってしまえば、「この世界がどうなっている」と感覚すると言っても、それが自分の感覚器官(神経)によって、「作られている」ことには変わらないわけだ。神経が勝手に自分に見させている夢となにが違うというんだ、ということだ。そう考えてみれば、この世界は「自分が作った」。自分のもの(のようなもの)というわけだ。
そして、実際に、観念論は、このデカルト的弁証論から出発することとなる。そうすると、問題は、では、そもそもの最初の「目的」であった、近代科学の基礎付けはどうするのだ、となる。まあ、その結論がどうなのかは置いておくとしても、いずれにしろ、「もうちょっと外に出る必要があることは確かなようだ」。
カントにしても、純粋理性批判は、そこで終わらず、より思弁的な、「実践理性批判」が要請されることになってしまう。
こんなふうに考えてもいい。確かに、独我論は、一つの真理を示唆していることは言えるとしても、一つだけ、だれもが不満に思うことがあることは確かなようだ。
なんで、自分はハッピーな夢だけを見ないの?
どうも、この世の中、「自分が作ったもの」のはずなのに、思う通りにならない。おい。これ俺だけの世界なんだよな。だったら、もうちょっと、俺をハッピーにしろよ。
このことは、どこか、人間と「物自体」(カント)との関係を示唆しているようにも思われるが、ともかくも、こういったことが、もう少し人間を「実践的」にさせる契機にはなっているようだ。
そうしたときに、あらわれると考えてみたい思考実験として、「生活圏」と言う表現を導入してみたい。それは、人間圏と比べれば、実は、「圧倒的に範囲が狭い」。ここで示唆したいのは、各個人が日々の生活で感覚する、視覚でいえば、毎日、眺めている光景のことを言っている。人間は、多くの場合、そんなに移動しない。多くの場合、毎日、ほとんど、同じルートを、同じ時間に占有しているだけだったりする。そこで感覚するものも、ほとんど変わらない。
その定常性は、人々に、生活のリズムと安心感を与える。なかなか、サバイバルな毎日だとしても、起きることは、たいてい同じだったりすることで、「日常化していく」。
私が言っている、生活圏、とは、こういった「あくまで、その個人の範囲で限定される」エリアである。
それは狭いとも言えるが、(上記のように)自分の意識の中だけと比べれば、逸脱しすぎなくらい、「突き抜けている」。
アニメ「とある科学の超電磁砲」では、何度も何度も、この学園都市の周辺の風景のシーンが挿入される。しかしこれらは、御坂さんや佐天さんが「毎日見ている光景である」。二人は、毎日毎日、この光景を「見ている」。
佐天さんは、一歩を踏み出す。管理室に向けて。彼女の始めての、チームプレー。この暴力都市の危険な敵のアジトの中へ、たった一人で。
コンピュータ管理室で、なにを操作したらいいか分からず、戸惑っていると、スピーカーから突然、敵の声が聞こえてくる。「お前たちも、この学園も、全部モルモット。私という、完成品、ができた今、全部破壊するのさ。私という完成品ができたんだ。もういらない、当然だろ」。
ここで、私たちの心配は杞憂に変わる。なんのことはない。彼女はたんにやっちゃう。怒りにまかせて、目の前のマシンを、持参した金属バットでぶっこわしちゃう。
つまり、確かに、彼女に要求されていたことは、そういうことであったわけだが、実際に彼女がやったことは、「自分の欲望に正直に反応」しただけのことであった。
しかし、本来の、「チームプレー」とは、そういうことなんじゃないだろうか。私たちには経験が必要である。いろんなことを体験して、「気付いていくしかない」。しかし、最初から、だれもそういった「ロール」を理解できる「はずがない」。どこかで、それを体験するしかない。しかしその最初の一歩とは、なんなのだろう。それが、たんに、彼女の「欲望」だったというのは、むしろ、当然のことなのではないだろうか。
いや、もっと極論をしてみてもいい。チームプレーと言っても、結局は、「個人プレー」なのではないか。各個人は、「自分がそれをやりたい」その自律性に正直に動く。もしそれが、チームプレーになっているとするなら、相手の行動に「反応」して動きたい、という、もう一つの自立性に正直に動いた、ということなのだろう。
それにしても、なぜ、佐天さんは、怒り、行動したのか。
自分の「生活圏」を否定されたからである。
彼女は、御坂さんとも微妙な感情はずっとどこかには思っていただろうし、やはり、能力がない自分へのコンプレックスは続いていただろう。しかし、そういったこと全部ひっくるめて、今、ここにある目の前の光景が、彼女の日常なわけだ。そこでの毎日の日々に彼女は、適応し、それなりに、コンフォタブルだった。それを最も象徴する存在こそ、目の前で敵に痛めつけられている、その、3人ということですね。んなわけで、今の自分の日常の破壊への抵抗ってことなんですね。
もちろん、そういった、「生活圏」しか、興味のない、自分の身の回りの人間関係に閉じた、最近の日本人の内向き傾向は、問題じゃないかという指摘は、正論ではあるが、むしろそこ、その外に視線を向けるということは、たんにそれだけでは、一つの「抽象性」になってしまうんですね。次元が変わってしまうわけです。自分から遠くなるほど、より、イメージになってしまう。曖昧になってしまう(その辺りに、科学のルールの存在意義があるということなんでしょうけどね)。
ですから、大事なことは、その次元の違い、ということなんですね。そこに自覚的にあるべきだ、ということでして、もちろん、どんな地球の裏側でも、一瞬でも、そこに行けば、「そこが」一瞬でも生活圏になるわけですけどね。
アニメ「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」の最後は、リオ先輩が、砦に帰ってくるシーンであった。戦争を終結させた、彼女が国王に唯一のお願いとして選んだことがこの選択であったわけだが、彼女がそういった選択をした理由はともかく、なぜ、カナタやクレハはあれほど、リオ先輩が戻ってきてくれたことを喜んだのか。彼女たちの「生活圏」が「元に戻った」から、ですね。その「欠損」が元に戻った。以前のバランスが回復されたわけで、それだけ、「生活圏」は重要なのだ。
なぜか。上記の議論から自明でしょう。
だって、「生活圏」って、「自分自身のことだったじゃないか」。