「トーマの心臓」について

少女マンガの萩尾望都の初期の代表作に「トーマの心臓」というのがある。この作品が、なんとも、座りの心地の悪いような感じをもつのは、一言で言えば、作品の「完成度」であり「初期条件」に求めることができるのではないだろうか。
この物語は、いわば、物語が終わったところから、物語が始まる。つまり、イベントが、

  • 悲劇

がひととおり終わった後から、それらを「回想」する形で物語が進む。
主人公のユーリを慕いながら、自殺した、トーマは作品の最初において、自殺する。この物語は、トーマの死が、

  • 起きてしまった

後から始まる。では、なぜトーマは死んだのか。それは、トーマが死ぬ直前に、遺言として、ユーリへの手紙をポストに投函していること、また、その内容から、読者は、それがユーリへの愛情と関係していることを理解する。
トーマが自殺する前に、トーマはユーリにふられている。もちろん、それによって、トーマはショックを受けるわけだが、では、なぜユーリはトーマを受け入れなかったのか。なぜ、そこまで、かたくなに拒絶したのかが、作品を追うごとに説明される。
なぜユーリは、ある日を境に、虚無的な人生観をもつようになったのか。これについては、作品の最後にあかされる。
トーマが死んだ後を追うように、彼とそっくりの顔をした、エーリクが、この学校に、転入してくる。彼の純粋で直情な性格にふれ、ユーリは少しづつ心を許していく。ユーリは、エーリクに、彼がここに来る前になにがあったのかを語り始める。
彼が来る前に、この学校を退学していた上級生がいた。彼らは、ユーリを脅し、暴力をふるい、彼に、キリスト教徒として許されない告白を強要し、ユーリに生涯、悪の存在としての生を選んだことの、血判をさせる。
つまり、トーマはユーリが、もうこの世界を生きていく気力も失っているのを察したからこそ、彼が生きることをあきらめさせないために、つまり、彼が自殺する前に、自分が彼の道を変えさせるために、死を選んだ、ということになるのであろう。
つまり、ユーリの絶望であり、虚無を、トーマは自らの殉死によって、「引き受ける」ことで、ユーリの今後の人生の方向を変えようとした、と言えるのかもしれない。
ここは、少し分かりにくいところで、はたしてユーリが受けた暴力がどこまで、キリスト教徒として、生きることを絶望させるものであったのかは、分かりにくい。しかし、いずれにしろ、このことを「前提」としたとき、トーマは、そのような絶望の虚無的な形で生き続けることは、キリスト教徒として、

  • 虚しい人生

という価値観がある、と考えられるのではないか。つまり、キリスト教徒として、そういった状態で生きることを選ぶことは、キリスト教の価値観として、受け入れられない、ということである。キリスト教徒が生きる人生とは、その価値を生きる人生のことなのであって、つまり、そういった価値を目指して「前向き」であることがその意味なのだから、それを目指して生きようとしないというのは、

  • 信仰

を生きる存在として、受け入れられない、というわけである。
私たちは、どうしてもトーマの自殺にこだわってしまう。つまり、ここに戻ってしまう。そもそも、自殺をするまでのことなのか、と。しかし、そういうふうに言ってしまうと、イエス・キリストの死だって、自殺のようにも解釈できるわけである。だれかの、なにかの罪を、引き受けようとして、死を「選んで」いるようにも解釈できる。
トーマは、心の優しい少年だった、とだけ回想される。そして、ユーリもトーマが好きだった、と告白する。では、なぜトーマは死を選んだのか。それは、自分がふられたからではなく、自分をふったユーリの中に、深い絶望とキリスト教的価値への「虚無」を見たから、ということになるだろう。トーマは、そうやってユーリがこれから、

  • キリスト教の価値観からは死んでいるのも同然に生き続けること
  • キリスト教の価値を前向きに実践しようとせず生き続けること

これらは、そもそも、今、自殺することと変わらない、と考えるわけである。つまり、そうだとするなら、トーマがユーリを「信じる」ことを貫くことの「究極的結果」によって、つまり、

  • 殉死

によって、彼に「価値」があることを、気づかせようとした、という感じになるであろうか。
もちろん、だからといって、この作品そのものが、結局のところ、どこまで前向きの結果を示せたのかは、疑問だと言わざるをえないだろう。というのは、ユーリの選択は、神学校に入り直し、聖職の道を志すところで終わっているから、である。
現世の世俗の「成功」であり、エーリクやオスカーといった、彼が「ある意味」、愛した、と言ってもいい彼らと、共に生きる道を閉ざし、彼は、いわば、

  • トーマと共に生きる

道を選んだんだ、と言えるのかもしれない。
どうして、この作品は、どこか、少なからず、不満足を感じてしまうのか。それは、そもそもの「最初」が、「自殺」という「結果」から始めてしまったから、だとしか言えないだろう。つまり、もう、どうしようもないわけである。どっちにしろ、後に残された人間たちは、死者の死と向き合うしかない。どんなにその死が理不尽に思えても、である。
この作品において、たとえば、ユーリも、オスカーもエーリクも、幼い頃から両親のどちらかが、死んでいていなかったりして、両親から深い愛情を注がれて育っている「普通の家庭」ではない、ことが強調される。
エーリクは、マリエという母親に育てられたが、彼女は、何度も、男を代えるような、あまり、身持ちの固い、つまり、「立派な女性」ではないが、エーリクはマリエを唯一の神のように、甘え、すがりついている、典型的なマザコンであったが、エーリクがこの高校に入った直後に、彼女が交通事故で死んだことを知り、一人、この世界にとり残された絶望と向き合うことになる(この辺りは、桜庭一樹の『ファミリーポートレート』と相似だと言える)。
エーリクはマリエが最後に愛して結婚しようとしていた男と、マリエがいなくなってからも生きようと決意する。つまりは、マリエが最後に信じたものを引き継いで生きようとする、前向きに人生を生きようとする姿が描かれたことがわかるであろう。
ではなぜ、エーリクはマリエの死を前にして、それでも「前向き」になれたのか(ここは、桜庭一樹の『ファミリーポートレート』との関係からも、興味深い)。それは、言うまでもなく、ユーリの存在がいたからであろう。
つまり、ユーリの視点から見たとき、トーマとエーリクは、ちょうど反対の関係にあることが分かるのではないか。エーリクは、「ユーリ」という存在がいた「から」、マリエの死という究極の絶望を前にしても、前向きに生きようという選択をすることになる(ユーリがいなかったら、そうなっていたのか疑問だ、ということである)。まあ、エーリクの性格も関係しているのかもしれないが、いずれにしろ、ここで、ユーリの視点が「相対化」されているというのが、重要なポイントであろう。つまり、ユーリはエーリクによって、少し生きることに、「自信」になった、と考えることができるのかもしれない。
つまり、全体的に言えるのは、彼らは、みんなどこか、子供の頃から、「不幸」を生きてきている。つまり、彼らは常に、「なぜ自分は今まで生きてきたのか」を常に問い続けてきた、その

  • ぎりぎり

を生きてきた、という感覚があるわけである。だから、

  • 功利的に人生の出世ゲームを生き抜く
  • 世俗の幸福をあきらめ、宗教と共に余生を生きる
  • 今この場で自殺する

この三つは、常に「等値」の問題として、彼らには「常に」感覚し続けてきた、ということなのである。
私たちは「普通」の家庭に生まれて、両親ともに、深い愛情を注がれて生きてきた「幸福家庭」をモデルケースにして、あらゆる「物語」を考えがちである(現在のアニメは、そういった感覚で一貫している、と言える)。しかし、「マイノリティ」としては、必ずしも、なにもかも満たされて生きてきた人ばかりではない、ということなのである。
そういった子供たちの中には、毎日、一日一日、一瞬一瞬を生きることさえ、常に、いつ「自殺」しても不思議じゃない、と考えながら生きていた人もいるのではないだろうか。
私たちは、彼らの「感覚」が分からない。その分からないことが、彼らの「感性」との「違い」から、派生していることに気づかない。つまり、そんなに「生きている」こと、生きることを「選ぶ」ことは、

  • 自明ではない

ということなのである...。幼くして、人生に絶望しながらも、こういった人と人との巡り合いの中で、たまたま、自分が生きることには、少しでも意味があるのではないか、と考えられる人が生まれる。そうやって、自分の人生になんらかの「意味」を見出そうとする彼らの姿を、私たちは、理解しなければならない、ということなのだろう...。

トーマの心臓 (小学館文庫)

トーマの心臓 (小学館文庫)