河野裕『汚れた赤を恋と呼ぶんだ』

うーん。
前回だったか、功利主義と徳倫理学は相性が悪い、といったようなことを書いた。
一方において、功利主義は「無敵」と言われる。なぜかというと、どんな「推論規則」も、その妥当性を、功利主義的に計算できるからなのだ。つまり、功利主義とは

  • 何が目的(=幸福)なのかを確定記述できれば、どんな行為(=確定記述)の幸福度を「計算」できる

と言っているに過ぎない。例えば、ある行為が私にとって「幸せ」だとして、計算をしていたとする。ところが、ある「事情」によって、実は、自分が「幸せ」だと思っていたものは、これと違っていた、ということが分かったとする。すると、功利主義は、

  • その新たに見つかった「幸せ」を基準にして、再計算をすればいい

ということを言っているに過ぎない。つまり、この過程が「無限」に続くのだから、絶対に負けない、と言っているわけである。
しかし、そもそも徳倫理学に「幸せ=目的」といったような確定記述的な表現は正しいのか。
例えば「心が優しい」という徳性をもった子どもがいたとき、果して、この子どもはどんな「行為」を行ったら、そう呼ばれるであろうか? これはパラドックスである。というのは、どんな行動をとろうとも、結果として相手にとって「迷惑」になることがありうるからである。つまり、行為によって徳性を確定記述することには限界がある、ということを示している。
倫理学において、「心が優しい」子どもの行動について、ただ一つだけ言えることは、

  • 相手のことを考えて行動する

ということである。つまり、この子どもは「ハイコンテクスト」な文脈において、その時々に応じて、なにかの行動を選択する、ということしか言えない。また、もっと重要なこととして、徳倫理学は、結果としてのその行為が、功利主義的な「幸せ=目的」であるかないかに、ほとんどこだわらない、ということなのだ。つまり「間違う」ことは

  • 当たり前

なのだ。
ということかどういうことか? 徳倫理学は「謎」の倫理学である。ほとんど、世界中のだれも、これがなんなのかを分からない。
例えば、次のように考えてみるといいのかもしれない。功利主義は、古典物理学における「質点」のようなものと。他方、徳倫理学は、速度や加速度といった「ベクトル」だけが分かっている何か、なのである。まあ、運動量と言ってもいい。
例えば、儒教において「道」という言葉は非常に重要である。道の特徴は、その

  • 端点

がどこで止まるのかが、今いる場所から見通せない、というわけである。はっきりと分かっているのは、その方向(=ベクトル)だけ、というところにある。
つまり、どういうことかというと、所詮、有限なる人間には

  • 目的

など分からない、ということなのだ。つまり、絶対に「功利計算はできない」というのが、徳倫理学の結論なのだ。

「たしかに私は我儘だけど、でも、自分が選んだことの意味はわかっているつもりだった。傷は痛いことを知っているつもりだった。誰を傷つけているのか、知っているつもりだった。上手く言えないけど、それが私のプライドだった。でも、ねぇ、七草。私はきみを傷つけたことなんて、一度もないと思っていたんだよ。それが大間違いだったなら、私はこれまで、なにもかもを間違えていたのかもしれない」

「私はきみが笑った理由を知らないといけないんだと思う。それで、私は変わらないといけないんだと思う。間違いは正す必要があるよ。だから、お願い。教えてほしい」

真辺は、七草のある「行動」に、ほのかな疑念をもつ。つまり、自分が今まで生きてきて、七草との、さまざまな関係においてあったものについての、自分の解釈は間違っていたのではないか、と。
この認識は、ある意味で正しいが、ある意味で間違っている。

本音を言えば、僕の考え方は、きっと安達に近いのだろう。
----私、本当の自分みたいな言い回しって、嫌いなの。
と彼女は言った。じゃあ一体、どこに偽物の自分がいるっていうんだろ。
僕もそう違わない。僕は自分らしさなんてものに、そもそも興味がない。都合よく自分を変えられるなら、ただただ便利で、後悔なんて思考にはならない。

真辺が、自分が間違っていたのかもしれない、という認識が正しいというのは、こういうことである。七草にはそもそも、

  • 正しいことを言う

とか

  • 正しいことを行う

という「基準」がないのだ。彼は嘘を言うことを、ためらわない。なぜなら、全ては「真辺由宇」のためだからだ。真辺の基準において、彼女が「納得」したり、「理解」することを言う。そのためなら、自分が嘘かどうかなど、どうでもいいのだ。
七草は、自分というものが「ある」という認識すらを嫌う。それくらいに、真辺を基準に生きることに殉じる。だからこそ、自らが行わなければならなかった、自分が、あの時、嘘をつけなかったことを呪うわけである。

「僕にはそもそも、君があんな質問をしたことが、許せなかったんだ。君があんなことを尋ねたなら、不用意に笑った僕が、許せなかったんだよ」
だからあの時だけは、真辺に誠実でいたかったのだと思う。インスタントな嘘は便利で、つい頼ってしまうけれど、あの質問にだけは正直でいたかったのだろうと思う。
真辺は深い瞳で、吸い込むように僕の顔をみている。
「なぜ、許せなかったの?」
「だって」
僕はなにかをごまかすために、くすりと笑う。
「あの質問をしたとき、君はまるで傷ついているようだった。これまでを反省して、変わろうとしているようだった。長いあいだ、ずっと僕が怖れていたのは、それだったんだよ。君が傷ついて、変わってしまうことだったんだよ」
真辺にはそんなつもりなんてなかったのだろう。
僕にさえ、わからなかった。あとから振り返って考えてみるまでは。
でも真辺由宇の質問は、まっすぐに、僕の弱点を突いていた。僕をいちばん傷つける質問だった。
目の前で真辺は眉を寄せる。
「変わるのは、いけないことなの?」
「いけないわけがない。人はそれを、成長と呼ぶんだ」
本来なら、それは正しいことだ。考えるまでもなくわかることだ。
だから、これは懺悔だ。ほんの少しだけ言い回しを変えるなら、僕は真辺由宇が当たり前に成長することを受け入れられなかったんだ。それは明らかに歪んでいて、愚かで、恥ずかしいことで、だから。
「だから僕は、その感情を捨てた」

七草は、あの時、あの一瞬だけは、どうしても真辺に「誠実」でないようにできなかった。「誠実」にあらずにいられなかった。この「嘘」の関係は、あの一瞬だけは瓦解した。そして、あの一瞬以降、この関係が前に戻ることはなかった。
それは、七草が真辺に嘘をついていたことと、同じ理由だと言うことができる。つまり、真辺が七草に「影響」をされて、変わってほしくなかった。そういう意味で、これは一種の「キャラクター」論になっている。
キャラと呼ぶためには、そのキャラという属性が「存在」しなければならない。ところが、キャラをそう呼ぶ人は、自らがそう呼ぶことによって、そのキャラの対象が別のものになることを理解していない。そういう意味での、キャラの不可能性を分かっていない。
まるで、量子力学において、位置の測定が運動量の測定を不可能にし、運動量の測定が位置の測定を不可能にするように、なんらかの「測定=観測」が、その観測対象に影響をおよぼしてしまうことを分かっていない。
私たちは生きているのであって、そうである限り、他人を傷つける。どんなに私たちが「心の優しさ」という徳性をもっていても、他人を傷つけないなんていうことは不可能なのだ。
しかし、である。
だとするなら、七草はなぜ真辺に嘘をついてきた、ということになるのか。この嘘を嘘で固めた関係とは、一体、なんの意味があったのか。
七草が真辺に行ってきたこととは何か? それは、ある意味において、真辺という「キャラ」が変わらない、ということによって、自らの認識が「変わらない」

を作ることだったと言うこともできるであろう。七草の「考える」真辺であることを「確認」することで、七草は

  • 安心

するわけである。エリートパニックから免れることができる。つまり、真辺がそうだと言うことによって、むしろ七草が安心したかった、自分が行っていることが正しいと思いたかった。
真辺が「変わる」ことは確かに、彼女の「成長」である。そういう意味においては、この変化は避けられない。しかし、他方において、これは「成長」なのか、という疑いもある。というか、そもそも「成長」なら正しい、とはどういった理屈なのだろうか。
というのは、ここでの真辺の変化は、そもそも、七草のある行動をトリガーにしている。その結果において、つまりは、七草がこの真辺の変化を「強いて」いると言っていいわけである。
つまり、ここにパラドックスがある。
真辺はなぜ、今まで変化をしなかったのか? なぜ、今回のこの七草の「変化」のトリガーなしに変わらなかったのか、という。

「僕は本当に、君の変化を受け入れたいと思っているんだよ。一方で、君に変わって欲しくないとも思っている。簡単に君が変化してしまうとやっぱり寂しい。たぶん知らないと思うけれど、僕は君の色々なところが気に入っているんだ」
どうしようもなかった。真辺由宇が変わるなら、それは仕方のないことだ。わかっているのに僕は、これまでの彼女への執着を捨てられないでいる。
「嬉しいよ。私は七草に嫌われているんじゃないかと、ちょっと不安だったから」
「嫌いなところもたくさんある。嫌いなところも、気に入っている。思い返してみれば、僕がちゃんと嫌いになるのは、君くらいなんだ。僕を本当に苛立たせる部分であれ、君からなくなってしまうと、とても悲しいよ」
真辺由宇は笑う。
彼女にしては珍しい。冗談を言うときみたいな笑い方だった。

七草にとっての真辺への「嫌い」という感情は、いわば「アンビバレント」な感情である。それは、「好き」とすら、区別がつかない。そもそも、嫌いという「明確」な感情を、その他の全ての場合に対してもったことがないのだから、それを「嫌い」なのか「好き」なのかの区別をするのが無意味だ、と言うこともできるのかもしれない。

「七草。きみがいたからだよ。きみはいつも私の先回りをして、間違えていたならそれを正してくれた。だから私は間違いを怖れる必要がなかった。ただ走れば、いつかきみの背中がみえるんだって信じていた。知っているよね、七草。私はいつも、きみに置いていかれないように必死で、そうしているあいだは迷う必要なんてなかった」

「だって、七草はいつも楽しそうだったから」
「僕が?」
「私が困っているときほど、楽しそうに手を貸してくれた」

この二人を、徳倫理学的なアプローチにおいて考えるとしたら、どういうことが言えるのだろうか?
この二人の関係を、ある種の「共進化」的なものと考えることもできるであろう。真辺が自分が間違っていたかもしれない、という認識が間違っているとするなら、このことに関係している。
私たちはある行動を、確定記述的に価値を決めることができない。それは、唯物論的に価値を決められないのと似ている。七草にとって、そもそもの価値の源泉は、真辺であった。真辺の「安心」であり、それが七草にとっての「安心」であった。つまり、真辺が変わらないことが、自分が真辺を傷つけていないことの証明であり、自らの「心の優しさ」という徳性を証明する基準であった。つまり、七草にとって、自らが「良い」人間であることを示すためには、真辺が成長をしないことが必要であった。真辺のキャラ化が

  • 正しい

ことを、なんとしても維持しなければならなかった。つまり、そのためには、どんな嘘も、どんな悪も「許された」わけである。ここに、ある意味におけける、七草のパラドックスがある。
他方において、真辺はどうか。真辺にとって、七草は「いつも自分の回りにいて楽しそうにしている」なにか、であった。彼女にとっては、自らのことなどどうでもいいわけである。そうやって、七草が「楽しそう」にしている限り、彼女はこの関係を壊す必要はない、と考えた。
ということは、自分のその「キャラ」的特徴をどうこうしなければならない理由にもなからなかった。そういう意味で、彼女は七草のために、自分のアホキャラを演じていてやった、と言うこともできるであろう。
これは、一種のニーチェ的な超人(=貴族)の態度だと言ってもいい。一つ一つの行動に意味があるんじゃない。それをやろうとしている意図が大事なのであって、そういう意味において、同じ行動を、まったく反対の意図によって行うということは、往々にして起きる。その場合、功利主義唯物論論においては、それは一種のパラドックスを形成してしまうが、徳倫理学においては、その差異は普通に起きうることと言うこともできる。
真辺と七草は、お互いがお互いの「ため」を思って、自らを殉じてきたという意味において、徳倫理学的な徳性を生きてきた、と言うことができる。そういう意味において、お互いは「共生」的に、お互いがお互いに「依存」をして、生きてきた。
たしかに、その形において、お互いは正反対と言ってもいいくらいに違っている。しかし、徳倫理学的に言うなら、お互いの

  • ベクトルの方向(=向かっている道)

は同じだったと言うこともできる。つまり、お互いはお互いで、反対の位置から、同じ方向(=道)に向かっていた、と考えることもできる。
それは間違っていたのかもしれない。正しくない方向に向かっていたこともあるのかもしれない。しかし、徳倫理学はそういった細かいことを、それほど気にしない。というのは、大きく言って、その向かっている方向を問うのが、徳倫理学だから。つまり、結局のところ、真辺と七草が、基本的にはお互いのことを考えていたというなら、それは正しい、ということになるわけである...。

汚れた赤を恋と呼ぶんだ (新潮文庫nex)

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