島袋道浩『鹿をさがして』






きょうもスープをつくる。
食べるのは明日。
お気に入りの詩を打ち写す。
いい感じ。
でも、こんな時間だからね。
もうちょっと早ければ、もっといい感じ。
もうちょっと、もうちょっと。


鹿をさがして


星の家をみつけた。
星は屋根に空いた大きな穴から出入りしていたが、その体は小さかった。
昼過ぎ、遊びにやってきた5才ぐらいの男の子に星の家の写真を見せた。初め、男の子は体を一杯に使って中ぐらいの星を作ったけれど、「いや、とても小さかったんだ」と言うと今度は右手の親指と人差し指で小さな星を作って目の前にかざした。それはまさにそのとおり、という大きさとデコボコさだった。指の星は光った。その反射で僕と男の子の瞳もキランと光った。


守谷にやって来る前に名古屋の動物園で鹿を見た。しかし鹿はほとんど僕を相手にしてくれなかった。理由は簡単。僕の頭には一本の木も生えていなかったから。


さがしていた。通り過ぎるたくさんの車を横目に見ながら。ネギ畑の中で。スーパーマーケットの中で。秋の中で。
空を見上げるといつも鳥が飛んでいて。鳥は次に降り立つ場所をどんな風にさがすのかな?巣を作る場所をどんな風に決めるのかな?


作品を作る時、いつもその始まりになるようなものを自分のいる環境の中からさがす。時にはそれを自然とみつける。不思議な風景。不思議な話し。不思議な人。
守谷でそれをさがすのは最初、なかなか難しかった。その困難さの距離感と名古屋の動物園での僕と鹿との距離感は似ていた。しかし、鹿を振り向かせたり、守谷で何かをみつけるのは不可能ではない。



タイトルが決まった。「鹿をさがして」守谷で。
タイトルというのは時々、作品の説明なんかではなく、僕に速度と角度をくれる。


茶色い犬がやってきた。「ハリケーン」と呼ぶことにした。「鹿をさがして」と「ハリケーン」。交差する二つの速度と角度。時々並んで走る二つの速度と角度。


自分の作品について話す時、よく「森のように作りたい」と言う。森のよう、とはたくさんの入り口や通り道があるということで、例えば、10人の人がいたら、それぞれ違うものをみつけることができるということだ。大きな木。大きな木の下の小さな花。うさぎ。石の下の小さな虫達・・・ そしてその森が、長い坂道を駆け降りていく姿を思い描く。夜空から青空まで走ったり飛んだりしている姿を思い描く。


自転車の上に小さな森を作った。小さな森の中には、「タコとハトの出会い」や「南半球のクリスマス」がいる。
僕が走っていく未来の方向には、ピンクや黄色い花がいつも咲いている。小さなバラのトゲもあるけれど。
鹿に出会う日のために、僕は花と木の生えた僕の自転車を作ることにした。


僕のじいさんは自転車職人だった。
じいさんがいじっていた古い自転車の時間への旅行。じいさんから聞いた車社会以前の自転車生活の時への旅行。


町の中の人達は、花が咲き、花が枯れていくのを走り抜ける自転車の上に見るだろう。
そして、その中の数人の人達は一緒に鹿をさがしに出かけるだろう。



両手に靴を持って歩き、左側の靴にだけ小さな土のかたまりをいくつも入れている子供と背骨の絵とその治し方が書かれたダンボール製の大きなペンダントを首からかけたおっちゃんと髭を生やした宣教師のおじさんに出会った。この三人はどこかが似ていた。少なくとも、その懐かしそうな笑顔が似ていた。


「鹿をさがしています」ポスターに僕が描いた鹿を見た人が立ち止まって言った。「これは木の前を通り過ぎる馬の絵か?」
そんな鹿もいるかもな、と思った。その人は柿を三個くれたので僕のポスターの鹿の頭の上の木にも柿を三個描き足した。
木の前を通り過ぎる馬の鹿はすぐにみつかった。それはビール工場の裏の坂を曲がったカウボーイのおじさんの所で僕が来るのを待っていた。


ピエール・ジョセフは「お前のさがしている鹿は侍じゃないのか?ほら、あの兜に付いている角。」と言った。それについては僕にも思うところがあった。当初から僕のさがしている鹿のひとつは、頭に立派な木を生やし悠然と緑の中を歩くお父さんかもしれない、と思っていた。昼間、とにかくお父さんの姿の見えない町で、ある朝、駅前で頭に木の生えたお父さんが現れるのを待って見た。しかし、その日そこには現れなかった。


ピエールはフランス語で凧はcerf-volant「飛ぶ鹿」と言う、ということも教えてくれた。それ以来、僕の心の空には鹿が風に乗り飛んでいる。



ある日、太陽の光の下の洗い立て大根の白さには何かがあると思った。幻の白鹿を思った。そして青いオープンカーがやって来た。
その青さは大好きなマフラーの青さで空にも海にも近かった。しかもオープンカーということが心踊らせた。オープンカー、開いている車。開かれた二人乗りのスポーツタイプの青い鹿。
その車のハンドルを握っていたのは女性で、彼女と僕は近くの畑から一番白い大根を調達し、ついでにネギとニンジンももらい、速度に乗った。角度は海へ。
白鹿は海に着くなり泳ぎ始めた。白い波を越えて泳いだ。波の間を行ったり来たりしながら白鹿はやがて夕闇の中に消えた。


僕のやっていることは、ヒッチハイクに似ている。
百台の車が通り過ぎるのを見ながら、きっといつか一台の車が止まるのに賭ける。ヒッチハイクでは、同時に二台の車が止まるととても困る。ヒッチハイクの旅は、いつも一人分の太さの細くて強い紐のようなものを未来に伸ばしていくことだ。
そしてヒッチハイクは、車が止まると信じることから始まる。


「鹿をさがしている」町で出会った人達に話しかける。最初、笑って話しを聞いていた顔が話すにつれ、ある確信と輝きを持って、ある一点を指さす瞬間。そこにははっきりと鹿がいる。


一緒に鹿をさがしていると思っていたおっちゃんは、気がつくと鹿だった。僕のさがしていた鹿だった。西遊記に出てくる白い馬のように。「白い馬は実は人間なんだ」と、隣の部屋の中国人アーティスト、タン・フイは教えてくれた。


鹿はいつの時代のどんな町にもいて、森の奥からこちらをじっと見ている。
そして想像力と信じる力の方へ歩いていく。


島袋道浩


※ photo by montrez moi les photos