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戦国

戦国

画像は、松永家でビグザムプレイして越後まで織田家を追い込み、めずらしく(?)最終戦無血勝利で天下統一を果たそうというところ。ビグザムプレイというのはオタクの「ボールで勝てる戦にでもガンダムを持ち出す発想。圧勝がだめなら完敗もやむなしとする逆ギレ気味の両極端志向」(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20041218#p1)をさらに発展させて「ボールでも勝てる戦にビグザムを持ち出す」という超ヘビー級コンダラ舗装作戦みたいなものを指す。小学センススレスレの悪趣味行為なので頭使わないわりに手続き煩雑で普段ならやってられないが、電車乗ってて暇とかだとこういうプレイもたまにはいい。

戦国の場合は、「とにかく最前線に兵力&鉄砲を 100 集めて開墾も町造も 100 になるまで決して自分からは攻めず(あらかじめ訓練を 100 にしておくのは前提)、攻め込ませることで敵戦力を削り(こちらの兵力は後方からどんどん補充する)、すべてが MAX でやれることがなくなったときにようやく前進」という作戦。一歩進めばまた前線に兵力&鉄砲を集めて内政充実の繰り返し。最初に前線と後方を作るときにだけちょっとあぶなっかしいが、一度体制が整えば磐石。後方は開墾も町造も 100 になってるはずなので、基本的には兵雇と移動だけを実行、その必要もなくなれば残兵を 1 にしてから(←余剰兵力を残しておくのはオタ美学違反だから)鉄砲を 100 になるまで買い、それも MAX になれば延々「パス」。いちおうおれの中に基準はあって、「小坊センスなら全国で兵力 100 の最強状態を目指す」「中坊センスなら前線のみ兵力 100 で後方は 1」「高坊センスならそういうの馬鹿らしくなって効率重視プレイ」というかんじ。だからおれの精神年齢設定は、中坊レベルだな。

しかし、こればっかやってるとつまらん。台無しにする遊び方だ。おもしろくするのは省エネプレイとかだ。最短クリアとか、最少兵力 or 犠牲者クリアとか。そういう遊び方をするにはプレイ記録&閲覧とかの機能でモチベーションを煽ったほうがいいわけだが、戦国にはそんな機能はなく、第一それなりの振れ幅&収束のみられるようなゲームデザインでなければならず、どんなもんかはわからん。

ともあれ、もうちょっとだけリッチな戦略級ゲームが遊びたいにゃー。それが iPod Touch で出るというなら、iPod Touch 買うから。たとえば Audio Surf for iPhone みたいなやつが出ると言われても、あんま心揺さぶられないけど。なんかイカすインターフェースで信長の野望全国版程度のヨーロッパユニバーサリス的なゲームとか出ると言われれば…。

ON/OFF 雑考

まとめる段階ではないので雑に。

  • おれは OFF だと挨拶魔だけど ON(及び ON の延長の OFF)ではほとんど挨拶をしない。たぶんこれ元は無意識から発生したポリシーで、OFF においておれは結構一期一会的な感覚をベースに持ってるんだけど、ON においてそれがない、ということだろうな。
  • 「意志があればいつでもどこからでも再会できる(というより誰もが偏在している)、距離や位置が無関係、ということは、(互いを視野に入れたいといつも思ってないだけで)いつも誰とでも一緒にいるようなもの」というのは、挨拶とかするのに及ばない関係性じゃねーかみたいな感覚かな。挨拶すればするほど遠ざけてるかんじがするわけよね。インターネットは場所の問題を解消するから、問題は共時性だけということに。半同期メディアはさらにそこも曖昧にしていこうという試みだ。過去には絶対に戻れないし未来へもジャンプできないが、現在の幅を拡げたり曖昧にすることはできる、みたいな。
  • それを一面的&政治的&曖昧&ポジティブに発声すれば「挨拶って嫌いなんだ、「こんにちは」って言っちゃうと、いつか「さようなら」って言わなきゃいけない気がするから…」というふうになるんだけど、でもまー感性としては別にそうじゃなくてむしろ積極的に距離感は作ってかないといけないと思ってんだよね。
  • いつでも誰とでも相互監視できるんだから、だったらなるべく多くの人間と常時距離を取っておかないとコミュニケーションだけで人生終わっちゃうんだよね。いや人間にそれ以外のことができるとはなかなか思えないわけなんだけど、結果と可能性でいうと可能性だけ確保しとけばだいたい満足はできるはず。
  • ON という感覚については、むしろ OFF 会という場を一旦想定して、そこに便利な仕様を追加していく方向で妄想したほうがいいのかもしれない。つまり、巨大な宴会場がある、そこには無数の話題の輪が存在する、参加者は全員がその会場内すべての場所に偏在することができる。といっても身体はひとつなので、ある瞬間にコミットできる話題は大抵 2,3 個までで、効果的に支援機能を活用すれば(Plagger とか)、同時にいくつもの視点から観測することもできたりはする。基本的に受信だけしていて発信していないときは、参加者はどこにでも存在しうるけどもどこにも存在していない状態になる。そのひとのリテラシによって会場の大きさは変わる。ある輪の中で発信した次の瞬間に、まったく別の輪にまるでずっとそこに居たかのような顔をして発信することもできる(事実ネットにおいてひとは、どこにも居ないようでいて、どこにでも居るようなものだから)、そして誰がどの瞬間にその「場」から居なくなってもおかしくはない。
  • とはいえ、「過去ログを読んだかどうか」は重要で、輪の空気感みたいなものが、実際の暮らしにおける空間と同様に醸成されているような擬似感覚はこのへんからきているんじゃないかという気もする。偏在できるとはいっても、処理能力や理解力、記憶力など、身体的な性能に依存している部分はまだまだ大きい。…というあたりを考えると、これってまじめに追求すると「自称初心者」問題とかと接続しなくもないのかなと思ったりする。「自称初心者はとりあえず質問して済ませようとせずに、自分が何で困っているのかまず調べろ」みたいなのと同様に、「「はじめまして」とか言わずに過去ログ読んで文脈把握しろ」みたいな。でもそれはめんどくさそうだなー。ROM 期間とかログ漁りとかやりたくないひとのほうが多いわけだから、むしろ「挨拶を交わすことによってそういう手間を省きましょう」ってかんじに世の中進んでるかんじもするし。

とかなんとか。ていうかあれなんだよね Twitter とか一行メッセージで遣り取りしている場合に、おれの考える理想的な状況が生まれるんだよねー、つまり、初対面のひととも全然挨拶してない。いきなり本題、というか語り合うようなことでもなく、単に枝葉の反応や応答だけが飛び交っているような。あれは、いいな。でも Twitter には、挨拶文化圏の強固な根城としての顔もあるので、それ自体がシステム固有の特徴というのではなく。おれから見える世界はおれの選択によって作られる(=SNS がおもしろいかどうかという個人評価は、そのひとのフレンドリストの評価とイコールである→http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20050410#p3)みたいな話か。