アニメの絵柄にどう対するか


さて、前回の記事のブコメ
>アニメファンは作画の安定度は見てるが画面を見ているわけじゃないの
という話があった。
確かにそう部分否めない。
アニメオタクではなくて、いわゆる「ライトファン」の中にはそういう目線で見ているものも多い。


また、その作画の安定度の基準となる「キャラデザ」や「絵柄」というものも
非常に重視される。


「可愛いキャラデザ」にこだわって、そうでないと見ないというファン層がいる一方で
逆にスノッブに考えて「売れ線の萌え絵のアニメなんて見れるか!」という層も同様に存在する。
「リアルな絵柄こそアニメのクオリティの証し」と思っている人もいれば、
「糞リアルは不要。”絵として魅力のある”アニメこそ至高」という人もいる

あるいは、年代差みたいなもの、つまり
「こんな”古い”絵柄のアニメは見たくない」
あるいは
「こんな今風の絵柄には”深み”を感じない」
そういう人もいるだろう。


実感で言えば、「俺たちに翼はない」をいろんな人に勧めているときにこれを特に感じた。
いわく「西又葵の絵が受け付けない」
いわく「こんなハンコ絵に価値はない」
こういうことを”まだそのアニメを見ていない”人が言うのである。


しかしアニメの価値は絵柄やキャラデザでは決まらないというのは
おそらく、多くのアニメオタクは経験しているであろう。
上記の「俺たちに翼はない」を勧めた友人も、絵柄を理由に一年間抵抗していたが、
見てみたら非常に面白かったらしく
「もっと強く勧めてくれよ!」と逆切れされたくらいのものだ


つまり、これはアニメオタクとして一回は経験しておかねばならない、一種の儀式なのだ。
絵柄が合わないと思ってみてみたら、”絵柄とは関係なく”面白かったという経験が。


そういう意味では、私は「少女革命ウテナ」という作品に早くに出会えて非常に運が良かった。
少女漫画的な絵柄に抵抗を覚えつつも見たこの作品が非常に面白かったことで、
「絵柄に抵抗があったからと言って、作品を選り好みするものではない」
ということ学べた。


これにより、その後「おにいさまへ・・・」という超名作にめぐり合えることが出来、
出崎統という巨匠の作品にのめりこむこととなっていく。
私にとっては「少女革命ウテナ」はまさに
アニメオタクとしての第一歩を歩むことなる、その一歩を後押ししてくれた作品だったのだ。


それが私だけのものではないと実感した出来事に
とらドラ」のキャラデザ批判事件がある。
これは原作ファンの人が、とらドラのアニメ版のキャラデザが公開されたところで
関係各所等に電凸した事件であり、色々と話題となった。


しかし、実際にアニメが放映されてみると、
あのアニメのキャラデザがどんどんと受け入れられていき、
電凸して人物も「アニメの本編を見てみたら、これも良いと思った」と
譲歩する姿勢を見せていた。


これらのこと鑑みても、「絵柄」や「キャラデザ」なみたいなものは絶対なものではなく、
本編を見た上で判断してほしいと思う。
勿論、見た上で駄目であれば駄目というのも良いだろう。
しかし、見る前から
「このキャラデザはあんまり興味がわかない」とか
「古い絵柄のアニメは見る気がしない」などというのは、
チャンスをドブに捨てているのと同義なのだ。



というわけでこの3連休は「旧エースをねらえ」三昧じゃい!

1話冒頭は素晴らしい!
約1分30秒の”モノローグ”から始まる華麗な展開!


え?前回の記事で”モノローグ”を否定してたじゃないかって?


型があるから”型破り”がある。型がないのに型を無視すれば、それはただの”型無し”


出崎さんのモノローグの素晴らしさを説明するには、
まず、「アニメの基本としてモノローグはアニメ的ではない」ということを説明する必要があったので。
型破りを説明するにはまず型から。
(グダさんが予想外に反応してくれてそれもグッド!)


あるいは、”一貫性”否定の類と見てもらっても構いませんね。
「モノローグはアニメ的ではない」という一貫性を超えたところに、
アニメの発展があるわけです。
じゃあ「綾奈ゆにこ」を否定するなって?
それはまた別の話。
ダブルスタンダード、トリプルスタンダード、そういうものこそが人間の想像力の産物なのですよ。