AKB48総選挙を宗教現象学から見る

今更ながら今年初めてこれが認識範囲に入ってきて考えたお話。
これってまさに正しく『宗教』だなぁと思ったので。あ、いや別に批判したいとかそういうわけじゃないです。でも盛り上がってる最中に書くのはアレだったので今更ながら適当に書きます。「日本終わってる」とか言うだけじゃつまらないしね。あと似たようなネタを既にもう誰かがやってそうなので予めごめんなさいしときます。ごめんなさい。

前置き「神さまのつくりかた」

かつてルドルフ・オットー*1さんという人が述べたように、『信仰』や『究極的関心』という行為に値するような圧倒的存在な信仰対象、いわゆる「神さま」という概念には二重構造が備わっているんです。
信仰対象としての神という概念に備わっている「魅する秘義」と「戦慄する秘義」という相反する二重構造。それは例えば「光と闇」や「祝福と呪い」「破壊と再生」「平和と災い」のようなもの。結構よく聞くお話ですよね。
でもそうした「神」や「聖なるもの」が持つ重要な二重性ってこれだけじゃないんです。
もう一つ重要な二重構造として「超越性」と「日常性」があるんです。
つまり、勿論その信仰対象はすごければすごいほど良いんだけど、それがあまりにも全知全能で万能すぎると逆に意識から遠ざかってしまうんです。少なくとも私たちの理解の範囲内に居なければ認識することさえできない。あまりにも超越した存在はやがて忘却されてしまう*2。だから当然、信仰者の日常に入り込む余地のある(生活の中で意識される)ような俗性がなければならない。
「超越性」と「日常性」という、その相反する二つを併せ持つからこそ、信仰の対象であり続けられるんです。

本題「AKB48総選挙の果たしている機能」

AKBの人たちって確かに「努力家」なんだろうなぁとは思いますけど、まぁ良くも悪くもフツーの子たちですよね。その要素がウケているとも言えるんでしょうけど。しかしながら、AKB48総選挙を見るとほんとすごい。一人で何百枚とか何千枚とかCD買う人たちが居るんだから。その意味で宗教といわれてもおかしくはない。
じゃあ何で(そんなフツーの)彼女たちが『宗教』と揶揄されるレベルの信仰対象にまで昇華されているのか?
ってそれはやっぱり本来あった「日常性」だけでなくて、彼女たちがある種の「超越性」を獲得しているからでもあるわけで。


AKB48総選挙の果たしている機能ってつまりそういうことだと思うんですよね。
あの総選挙というランキングのシステムによって、「これだけの支持がある」ということを投票結果の形で明示することで、彼女たちは直接的に個人の資質にではなく、間接的に「超越性」を獲得することに成功している。
それは人為的に付与された超越性ではありながら、それでも本来あったものと併せて二面性を備えた彼女たちは、現状のような多数の(広義の宗教的)信徒をも獲得できるようになった。


本来の総選挙システムとしてはただ「センターで歌える権利」だったはずが、しかしその明示的なランキング制によって、逆説的にその上位者たちにそれまでなかったわかりやすい「超越性」を付与する宗教的儀式になっている。
そしてこうして二面性を備えた「神」が発生することになると。
だからAKB48総選挙って単なる人気投票の結果としてのイベントではなくて、機能的にはむしろ通過儀礼としてのイベントなんだと思うんです。そこを通過する事によって彼女たちは多数の信徒を抱える信仰対象という「神」になることができる、というような。

*1:19~20世紀のドイツの哲学者、宗教哲学ルドルフ・オットー - Wikipedia

*2:旧約聖書にある神さまの名前『YHWHヤハウェ)』なんて「みだりに神の名を唱えてはいけない」と教えてたせいで、発音が忘れられてしまったりする。神の名なのに。