いかにしてユーロ通貨は象徴となったのか

ということで前回続き。補遺編。
なぜ欧州の人たちは『ユーロ』を守る事にそんなに必死なの? - maukitiの日記
彼らはそこに単なる『通貨』以上のものを見出しているわけです。国旗が単なるデザインではないように、国歌が単なる歌ではないように、公用語が単なる言語ではないように、欧州連合の象徴としてのユーロ。でもそれだけじゃ片手落ちなので、一体なんでそんな所に立っているのか、なお話。


よく日本でも「何故戦争はなくならないのか?」なお話が出ることがあります。まぁそこでは「全員が武器を捨てればいい」とか「世界政府を作るんだ」とか「世界を牛耳る支配者(大抵はユダヤ)が戦争を望んでいるからだ」とか、それはもう気の抜けるお話が繰り返されるわけです。しかし60年位前にその途方もない問いに対して明確に答えを出した人たちが居ました。二度の世界大戦とそれでも尚続く戦争の気配に、彼らは真に必要に迫られて答えを出す必要がありました。ヨーロッパをこれ以上戦場にしない為の何か。その「何か」への解答として『欧州連合』は生まれたのです。


20世紀以降のヨーロッパの平和とは究極的にドイツを如何に扱うかという問題でもありました。1871年ドイツ統一以来、ヨーロッパの勢力均衡は決定的に破綻してしまったのです。その時期にイギリスの首相となるディズレーリが看破し「欧州の勢力均衡は完全に破壊された」と述べたように、ドイツが強すぎて最早均衡状態を維持することができない。その破綻したバランスオブパワーが、案の定というべきか、結果的に二度の世界大戦を招いたのです。
現在の(再び統一された)ドイツを見てもそれは解りますよね。やっぱりこうしてドイツはヨーロッパ最強の経済国家として君臨し続けている。故に欧州連合はその成り立ちである『欧州石炭鉄鋼共同体』からずっと如何にしてドイツを封じ込めるかということが焦点となってきました。結果的にその試みは成功したと言えるでしょう。他ならぬドイツ人自身の「もう戦争などやりたくない」という意識によって、ヨーロッパの平和そのものである『欧州連合』はドイツ自身の協力の下進んだのです。欧州から戦争を根絶させる為の一つのヨーロッパとして、そして対ソ連の為に必要な一つのヨーロッパとして。


しかしそんな『欧州連合』への人びとのモチベーションとなってきた、悲惨な戦争の記憶や次の戦争(ソ連)への恐怖は、徐々に過去の物となりつつありました。(イギリスやフランスが懸念した)東西ドイツ統一もなんとか無難にこなし、そしてソ連崩壊といった出来事を経て、「もう戦争などありえないだろう」とヨーロッパに住む特に若い人びとが考えるのも無理もない話です。
そうなると問題となるのが欧州連合の存在意義そのものでした。最早かつてのような統合推進となるべきモチベーションが通用せず、では多くの一般市民を一体どうやってその必要性を納得させ賛成させればいいのか?


それに対する新たな正当化の理由として生まれたのが「ヨーロッパの市民」といったヨーロッパの一体性の更なる強調という手法です。我々はこれから一つの強いヨーロッパとしてやっていくのだ、と。よくヨーロッパではナショナリズムを克服して欧州連合を進めている、なんて語られることがありますけど、それは微妙に間違っています。彼らはこれまであったものを昇華し、結果的により大きなナショナリズムである『強い欧州連合』へと回帰しているに過ぎないのです。それは正しく本来のナショナリズムのもたらす機能と同様のものです。つまりそれによって共同体としての『一体性』を担保する。
それは彼らの攻撃的な意思の現れであると同時に、これまでの統合推進のモチベーションが通用しなくなった故に、代替として生まれた防衛的な意思の表出であるとも言えるのです。逆説的に彼らは『欧州連合』を進めるその歩み・拡大を止めることが出来ない。前に進むことを止めてしまっては、その存在意義そのものを失ってしまうことになりかねないから。


昨日の日記で書いた象徴としての『ユーロ通貨』はこうした議論の中で語られるお話であります。「一つのヨーロッパ」という一体感をより醸成させる為の補助装置。
彼らはその一体性を担保するものを、以前よりもずっと強く、無くすわけにはいかなくなったのです。もうかつてのような「ヨーロッパの平和の為に」という理由が磨耗し当たり前になってしまったからこそ。