キリスト教の二の舞を恐れる人びと

まぁ表現の自由の問題とか長年積み重ねられてきた議論は色々ありますのでさて置くとして。それとは別の実務面から要請される彼らイスラム宗教界の「危機感の表われ」でもあるのかなぁと。



「悪魔の詩」作者が新作発表 イランの強硬派など反発 - MSN産経ニュース
そういえばこの騒動の『元祖』とも言うべき人が居たなぁと思っていたら、このタイミングで新刊出版だそうで。まぁなんというか機に聡いというか、しかし昨今の情勢とあわさってこれまた売れちゃうんでしょうね。実際よく考えたら24年前のあの頃から構図としては何も変わっていないわけで。24年間まるで成長していない私たち。それどころかむしろよりひどくなっているとさえ言えるかもしれない。多文化主義の失敗はこうして世界規模でも起きてしまっている感じでしょうか。
イスラム教侮辱映画、ヒズボラ指導者が「危険な影響」を警告 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News
時事ドットコム:「悪魔の詩」懸賞金を増額=「著者処刑の好機」−イラン財団
「より」宗教の聖域を守ることに固執しようとしている人たち。その為には懸賞金を掛けて殺人をも厭わない。その姿はテロリストに懸賞金を掛けて追い詰めようとするアメリカさんちと相似すると、色々愉快なお話なのかもしれません。


さて置き個人的には、それは攻撃的な反応というよりは自己防衛的な反応である、という面があるんじゃないかと思うんですよね。
だって(特にヨーロッパでの)キリスト教の現状を見て学習すればするほど、現状の彼らキリスト教の宗教社会が世俗化と相対主義の波に洗われることで、完全に衰退の道を辿っているのは明らかじゃないですか。あまりにも個々人の内側へとその『聖域』は分散され過ぎてしまった。その当然の帰結としてキリスト教が本来持っていた、信仰やその象徴といった『聖域』は、縮小され消滅の一途を辿っているわけです。無神論者のような人びとにとっては「そんなもの何の価値もないじゃないか」というのは確かにその通りなのです。
本来であれば唯一無二の存在であった宗教の聖域。しかしそれは最早そうではなくなってしまった。


もちろんそれは多分に自身が望んだことでもあります。おそらくそれは称賛すべき美しい善意によって。
ところが現在のキリスト教の悲愴な撤退戦はご覧の有様です。政治と法律の舞台から身を引き、公共の社会から追い出され、そして今尚進歩的な人びとから廃すべき古き因習として攻撃を受け続けている。最早彼らにはかつてあった不可侵の聖域を取り戻すことなんてほぼ絶対に不可能でしょう。今更「預言者を貶めることは許されない」なんて言えるわけがない。
そうした流れに対し、市民社会から失われつつある公共哲学の基礎として宗教の力を再利用しよう、という言説は特にアメリカなどでは20世紀末からの一つの流行ではあります。しかしそれは結局ある種の揺り戻しにしか過ぎないわけで。どちらにしても、もう既に不可逆となる一線を越えてしまったのです。
一度失った聖域は二度と帰ってこない、という教訓。


こうしたキリスト教社会の現状を見ると、彼らが危惧を抱きより頑なな態度を取ろうとするのも、やっぱり無理はないかなぁと思うんですよね。将来的にありうる可能性の高い結末の一つを、キリスト教の現状が証明してしまった。その一線を越えることはいつか自らの存在意義の喪失に繋がりかねない。だから絶対に表現の自由なんて認めるわけにはいかない。むしろキリスト教の歴史を学んだ人ほど、そうした場所に行き着いてしまうんじゃないでしょうか。ぶっちゃけポジショントークといってはそれまでではありますけども。
最初に飛び込んだ人の末路を見て怯える二番目以降の人びと。それは後を追おうと思いたくなるような光景ではとてもなかった。そりゃあちらの宗教指導者の皆さんはそうした態度を採るしかありませんよね。