谷崎潤一郎『鍵・瘋癲老人日記』

谷崎潤一郎『鍵・瘋癲老人日記』新潮文庫、1968年10月
両作品とも面白い。「鍵」(1956年)も「瘋癲老人日記」(1961年)も、ともに日記形式であるのが特徴。「鍵」では、夫婦がたがいに秘密の日記を付ける。とは言うものの、夫も妻も互いの日記を盗み読みしており、しかも盗み読まれることを前提に日記を書いている。日記に書かれる「内面」を読み合う心理ゲームの様相を呈する。心理の駆け引きという点では、横光利一の「機械」に匹敵する面白さである。
ところで、この物語の最後は妻の日記で締め括られる。そこで、妻はそれまでウソを書いていたことを告白し、自分の日記と夫の日記を読み合わせて、夫婦の間に何がおきていたのか、その「真相」(「深層」とも言えるかもしれない)を探っている。
この告白が面白いのは、なんと妻が夫を殺したかのように読めるからだ。妻は夫の身体が「死」に至るように嗾けていたというのだ。まったく恐ろしい女だ、これでは「悪魔のような女」ではないか!――読み終えたときにこんなことを感じた。「悪魔のような女」という言葉が浮かんだのは、ほかでもない、映画『悪魔のような女』を思い出したからである。もしかすると谷崎は「鍵」を書くとき、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの有名な映画『悪魔のような女』を参考にしたのではないだろうか。谷崎はこの映画を見ており、またこの映画に出演していたシモーヌ・シニョレに惹かれている。もちろん、話は全然異なっているのだが、細部の設定で似ている箇所がある。二つの作品を無理矢理こじつけてみると、たとえば小説の「鍵」というタイトルについて言えば、鍵が『悪魔のような女』のなかで重要なアイテムとして登場していたことと関係があるのかもしれない。また、小説「鍵」では眼鏡を外したときの夫の顔を、妻は非常に気味悪がっていたが、『悪魔のような女』では夫の義眼が不気味なものとなり、それが心臓の弱い妻にショックを与えることになる。このように「鍵」と『悪魔のような女』を対比して研究することが可能なのではないだろうか。
谷崎は「過酸化マンガン水の夢」(1955年)という作品を書いている。そのなかで『悪魔のような女』が言及されていた。ここで谷崎は『悪魔のような女』の欠点などを論じていて非常に興味深い。たとえば、「何より校長と情婦とがそんヤヤこしい手数のかゝる方法で細君を謀殺し、それが発覚しないで済むと思っていたのが可笑しい」とか「直ぐに露顕して捕えられてしまうのでは餘り馬鹿々々しい」などと批評している。この文章を手掛かりにすれば、谷崎が『悪魔のような女』の何に触発されたのか、それが「鍵」のなかでどのように現れているかについて考えることができるだろう。もしかすると、「鍵」も『悪魔のような女』も有名な作品なので、誰かが研究しているかもしれない。
「瘋癲老人日記」は、美しい嫁に執心する老人の性欲を描いた作品。老人が、嫁を相手にさまざまな欲望を思い描いていくさまは、『シンセミア』の中山正に通じるのかもしれない。妄想を描く方法が、谷崎と阿部和重で共通しているのではないか。

鍵・瘋癲老人日記 (新潮文庫)

鍵・瘋癲老人日記 (新潮文庫)