三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

「なぜフェミニズムは没落したのか」

上野千鶴子にケンカを売る」という帯の惹句につられて、つい読んでしまった。
上野に代表される「80年代フェミニズム」と、林真理子に代表される「フェミニズムのようなもの」を対立させ、前者は後者の支持が得られなかったから没落した、というのが著者・荷宮和子の主張。まあ、その通りなのだろうが、正直読んでいてアホくさくなった。上野のフェミはイデオロギーだが、林/荷宮の擬似フェミは「気分」や「趣味」でしかない。「共産主義が没落したのは、ダサいネクタイを締めていたからだ」というのとさほど変わらない。
つっこみどころは山のようにあるのだが、保守反動の旗色を鮮明にしたところから、一突きしとこう。
自衛隊イラク派兵決定前夜の時期」に発表したという前ふりで、荷宮は以下の記事を自己引用する。

(前略)
つまりブラウン(三鷹註:熊のぬいぐるみ)は、一緒に過ごしていて「幸せ」を感じられる相手と日常生活を営むことが出来れば人間は「幸せ」になれるのだと人間達に教えてくれているのである。そのことに気付いた時にすべきことは「平穏な日常生活をこれからも維持すること」である。そしてそれを実行するためにも「有事=非日常」の肯定につながることは全て葬り去らなければいけないのである。

(「日常生活の愛おしさ」/『トクプレ』03年12月)

そして、こうした自分の心情は、上野フェミには理解不能だろう、というのが荷宮の主張だ。
小浜逸郎にならって人間関係を「エロス的」と「社会的」に二分するならば、「平穏な日常生活を維持したい」という荷宮の「心情」はエロス的なものであり、女性に限らず多くの読者の共感を得るだろう。三鷹自身も同感である。だが「有事=非日常の肯定につながることの否定」には繋げられない。「有事=戦争」は、エロスではなく社会の範疇だからだ。「心情的には嫌でも義務としてやらなければいけないこと」と言ってもいい。荷宮自身は、ぬいぐるみを抱いて「戦争は嫌い」と言っていれば済むかもしれないが、その荷宮の生活の基盤となる日本社会は、現実には自衛隊在日米軍によって守られている。
「日常」レベルでもいい。たとえば荷宮が暴漢に襲われたらどうする? 家が放火されたらどうする? そこに通りかかったのがもう一人の荷宮だったら「平穏な日常生活を維持したい」「非日常は嫌」と見て見ぬ振りをして逃げてしまうかもしれない。そのとき荷宮を守るのが、具体的には警察官であり、消防官であり、広くは「有事」に立ち向かう気概を持つ個々の「社会人」ではないか。
上野フェミは、エロスを通じて社会を論じ、必然的に「男社会の変革」へと向かうが、擬似フェミは「男社会は違うけどフェミも違う」とエロス的な実感を垂れ流しているだけで、社会への回路が無い。唯一あるのは「社会的関係をエロス的に評価する」だけで、エロスを切り捨てたところで成立している社会の、例えば「労働の現場」での説得力はゼロだ。現場で働く「男」からすれば、フェミとは社会的協働が可能だが、擬似フェミとの協働可能性はゼロ。商売としてカモる対象である「お客さん」でしかない。