mmpoloの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-09-21

[]片山杜秀クラシックの核心』を読む



 片山杜秀クラシックの核心』(河出書房新社)を読む。バッハモーツァルトショパンワーグナーマーラーフルトヴェングラーカラヤンカルロス・クライバーグレン・グールドの9人の音楽家を取り上げている。雑誌『文藝別冊』の特集に掲載したもの。読み進めながらどこかに既読感があった。調べたら1年半前に読んでいて、しかもこのブログに紹介していた。情けない私の頭!

 しかし何度読んでもおもしろい。バッハの時代、音楽の中心はイタリアフランスだった。華やかなオペラコンチェルトが作られ、「音楽は複雑巧緻な主旋律を展開する主役と、比較的単純なリズミックで和声的な伴奏部を担う脇役に分化してゆく。多声部の均衡ある民主的発展というのは流行らなくなってくる」。

 バッハドイツの東の方の教会や宮廷で、オペラを頼まれるような環境もないところで仕事を続けたせいで、そんな時代から取り残されてしまったのでしょう。前時代の課題に黙々と取り組み続け、ほかの作曲家が興味を失いつつあったフーガカノンマンモスのように発展させてしまった。《音楽の捧げ物》が《フーガの技法》ができてしまった。バッハはとても反時代的な巨匠だったのです。だからブルジョワのわがままがまかり通ってみんなで一緒にということが後景に引っ込んだ時代には忘れ去られてしまいました。メンデルスゾーンが引っ張り出して、以後は偉い人になったけれど、ほんとうに大勢がバッハを愛するようになったのは20世紀以後ではないでしょうか。平等や民主や均衡が大切だということになった時代にこそ、バッハは相応しいのです。

 ショパンオペラ好きだった。ピアノで歌う。そのことにこだわりぬいた。ショパンベル・カントピアノに移そうと思った。「声」をピアノで出したいと思った。ツェルニーやリストのように10本の指を鍛錬して均等にメカニックに動かすことを追求するのではなく、反対にショパンは、小指は小指、薬指は薬指というふうに、強かったり弱かったりの指の力や長さのムラを演奏に積極的に反映させることを考えた。歌手が全身で歌うように、ピアニストも腕を、手全体を、ひいては全身を使って、指の力のムラを打鍵に反映させて声のムラに通じる音の強弱のムラを作り出そうとした。声帯を手首に、口のかたちを指の動きになぞらえて、声を出すように手を動かすということを考えた。そして成功した。

 ショパン夜想曲第20番嬰ハ短調 遺作という曲がある。私はアシュケナージで聴いているが、ナタン・ミルシテインがバイオリンピアノ編曲したものがある。バイオリニストのチョン・キョンファが演奏するCDを持っていたが、これがとても良かった。ショパンが「声」にこだわっていたのなら、確かにバイオリンはより向いているのかもしれない。

 片山の語るクラシック論はとてもおもしろい。さて、片山の書く政治思想史とどっちがおもしろいのだろう。悩んでしまって結論を出すことができない。


2017-09-20

[]谷村志穂チャイとミーミー』を読む



 谷村志穂チャイとミーミー』(河出文庫)を読む。名前を聞いたことのある女性作家だけれど、著書は一つも知らなかった。表紙に猫のイラストがあり、飼い猫のエッセイだろうと見当をつけて手に取った。猫、可愛い可愛いみたいなエッセイじゃないだろうなって思いながら。

 マンションに一人暮らしをしていたとき、深夜にハリウッド映画を見ていながら急に息苦しくなった。眠らないままに朝を迎え、友人に電話して猫を飼ってみたいと話した。友人からはペットショップではなく、動物病院から斡旋してもらうようアドバイスされた。なんか所か紹介された内で、もう20センチになっている人見知りするという猫が気に入った。マンションに持ち帰ったが、すぐどこかへ隠れてしまって、丸5日間姿を見せなかった。自信をなくして元の飼い主に返してこようかと友人に電話した。だったら私が引き取ります。毅然とした友人の口調に思いとどまって、ついに7日目の夜、その猫チャイが近寄ってきた。

 チャイとの濃い生活が綴られる。繰り返しおもちゃで遊び、窓辺に来た黒猫に強い興味を示し、ついには網戸へ爪をかけて開け、夜な夜な外出するようになった。窓をしっかり閉めておくと、寝室の出窓をこじ開けて出て行くようになった。出窓をリボンやガムテープでぐるぐる巻きにしても、それを噛み切って出て行った。ついに針金で縛ると、それきり外出しなくなった。

 猫の生活を書こうとすれば飼い主の生活に触れざるを得ない。二人目の男友達が乱暴者で、彼女とけんかをしたときに、チャイを持ち上げてその体に鋏の刃を向けていた。チャイが男の手を噛んで逃げ、「ばかな男はうずくまって、血の流れた手を押さえていた」。

 3人目の男と知り合い、籍を入れる。13歳年下の男だった。やがて娘が生まれる。それは幸せな生活なのだが、どこか私小説じみてもいる。猫のエッセイが読みたかったのに、私小説なんか読みたくはなかった。

 やがてもう1匹の子猫ミーミーが登場する。夫が職場から連れ帰ったのだ。3人と2匹の猫の生活が始まる。

 本書は5年前の2012年に単行本として出版された。今年文庫化されるにあたって「第16章 最後の夏」が付け加えられた。2015年チャイが22歳で亡くなる。その章のはじめで、谷村が2007年に函館に小さな家を建てたことが明かされる。毎年夏の仕事場として8月いっぱいをそちらで過ごしていた。猫を東京のマンションに置いて行って。一応ペットシッターを雇い、シッターが猫たちの面倒を見てくれる。10年前からそのような生活を送っていた。最後にチャイが亡くなるのは初めて連れて行った函館の家でだった。いや、これが最後ではないかと連れて行ったのだった。だから函館の家のことは書かざるを得ない。いや、何を書かないで省略するのかは作家の自由だ。でありながら、そんな小さくもないことを今まで書かないでいたということは、けっこう都合の悪いことを書かないでいるのではないかと邪推してしまうのだ。

 直接猫に関する記載は決し悪くはなかったが、著者の私生活が書かれている部分はあまり楽しい読み物ではなかった。


チャイとミーミー (河出文庫)

チャイとミーミー (河出文庫)

2017-09-19

[] 柴田克彦『山本直純小澤征爾』を読む



 柴田克彦『山本直純小澤征爾』(朝日新書)を読む。帯の惹句に「埋もれた天才と世界の巨匠」とある。さらに「日本のクラシック音楽の基礎を築いた二人の波乱万丈な人生」と。小澤征爾の言葉として、「僕はいつも彼の陰にいました。でも対抗心なんてまったくなかった。彼(直純)の方が圧倒的に上だったんです」というのが紹介され、山本直純の言葉として「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレ(直純)はその底辺を広げる仕事をするからお前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ。征爾が帰ってきたら、お前のためのオーケストラをちゃんと日本に用意しておくから」と言ったとある。

 終戦後齋藤秀雄は吉田秀和らとともに、桐朋女子高等学校に共学の音楽科を開設し、小澤はその第1期生となった。しかし齋藤は多忙で、小澤より3歳年長の直純に指揮の指導を任せた。直純は東京藝術大学へ進み、小澤は桐朋学園短期大学へ進んだ。

 直純が藝大3年のときに日本テレビが民放として初めて開局した。直純は準備段階の実験放送からスタッフに加わり、ドラマ音楽や体操番組の伴奏ピアノを受け持った。体操の伴奏は週1回。これだけで大卒初任給の3分の1を稼いでいた。

 小澤はさまざまな人の援助を受けてフランスへ留学する。そしてブザンソンの国際指揮者コンクールで優勝する。その後日本国内や海外での経験を積み、バーンスタイン、またカラヤンの指導を受け、指揮者としての評価を高めていく。ボストン交響楽団の音楽監督に就任する。

 直純はテレビ、映画の仕事を増やしていく。「オーケストラがやってきた」などの番組や、映画音楽の作曲、ライトクラシックの音楽の指揮などで活躍する。あるとき、NHK交響楽団定期演奏会の指揮をすることになった。しかしその後交通違反を起こし、N響の定期の指揮も取り消され、しばらく謹慎することになる。

 著者柴田が残念がる。あのとき交通違反をしなければ、直純は別のキャリアを築いたのではなかったかと。小澤の成功は誰でも知っている。しかし直純は過小評価されているのではないか。直純は小澤からもきわめて高く評価されていたのだ。ベートーヴェン交響曲全9曲を全部暗譜していたのだ。柴田のその悔しさが本書を執筆させたのではないかと思わせる。誰に対する悪口非難もないとても気持ちの良い読書だ。

 それはそうなのだったが、直純が純クラシックの世界で高い評価を得られなかったのは本当に運が悪かっただけなのか、という疑問が残るのは仕方がない。いや、だれもが小澤のようなクラシック指揮者の頂点を極めるべきだとは思わない。直純が日本のクラシックの聴衆の底辺を広げたのは事実だ。だが、柴田は別の道があったのではないかと残念がっているようにも見える。もしそうだとすれば、直純がライトクラシックの道で終わったのはなぜなのだろうか。たまたま運が悪かっただけなのだろうか。そのあたりのことを知りたい気がする。


小澤征爾と山本直純 (朝日新書)

小澤征爾と山本直純 (朝日新書)

2017-09-18

[]TS4312の桑原盛行展を見る



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 東京都新宿四谷三丁目ギャラリーTS4312で桑原盛行展が開かれている(9月24日まで)。桑原は1942年広島県出身。1967年に日本大学芸術学部美術学科を卒業している。1968年シェル美術賞展で1席を獲得した。同年サトウ画廊で初個展、その後伝説の南画廊ギャラリー上田、日辰画廊、かねこ・あーとギャラリーギャラリーa-cubeなどで個展を続けている。

 カタログに寄せた桑原の言葉より、

1964年の初め頃から、コンパスによる円を描き始めた。


・正方格子は、正方形が四方向に連続的に並んだとみなせる。

・私は、点の群れの最小単位を正方形の頂点に位置する4とした。

・そうして、この正方点格子を群れ造りの《母構造》とした。

・《格子の概念》を知ったのは、正確性を求めての工夫からだった。


私は、円は、点が活動した軌跡であると認識している。大きい円は、点の大きい活動であり、円が大きければ大きいほど円の重なりは深くなる。形の変化に豊かさが発生する。

 桑原はこれらの線を烏口を使って描いている。無数の線で描かれた円の重なりがほとんど無限を連想させて見る者を圧倒する。とくに初期15年間ほどの作品は無彩色的でイスラム美術をもっと複雑にしたような深さを持っている。今世紀に入ると華やかな色彩が加わり、奥行きが増している。

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以下は上記作品の一部を切り取っている。

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 画廊主の沢登丈夫の文章より、

……彼の画面は円だけである。彼は画面に絶対的な条件を付けて円の線を描く。その縁の軌跡を積み重ねていく。この規則的な円の集合が無機的でないところに彼の心がある。

     ・

桑原盛行展

2017年9月1日(金)〜9月24日(日)

12:00〜19:00(最終日は17:00まで)

※注意!=金・土・日のみ開廊

     ・

TS4312

東京都新宿区四谷三丁目12番地 サワノボリビル9階

電話03-3351-8435

http://www.ts4312r.com/

東京メトロ丸の内線四谷三丁目駅1番出口から新宿に向かって1分。セブンイレブンの隣のビル

2017-09-17

[]小林信彦『私の東京地図』を読む



 小林信彦『私の東京地図』(ちくま文庫)を読む。小林信彦東京都中央区東日本橋で生まれた。それは現在の地名で、1971年に地名が変更される前は両国と言った。隅田川を挟んだ今の両国は東両国だった。役人は地名の成り立ちを知らないからわけのわからぬ町名にすると小林が怒っている。

 本書は小林信彦が、自身が生まれ育った東京を歩いて紹介するという企画で「私の」東京地図となっている。これが意外と面白くなかった。同じ題名の本が佐多稲子にもあるが、これは名著に属するだろう。いや佐多と比較しては小林がかわいそうなのかもしれないが。

 何が違うのか。小林では「私の」体験したエピソードがいかにも表層的なのだ。本当に深く自身の体験した事柄に触れていないのではないか。あの街でこの街であんな経験をしたこんな経験をしたと書かれてはいるが、わざわざここに書くようなことかと思えてしまう。

 作家がどこの店がおいしいとか書くべきではないと言っている。そしてその通り何がおいしかったと書いても決してその店名を記さない。それは一つの態度だろう。だがその店が入っていたホテル名は出している。新宿京王プラザホテルの中華料理店「南園」はうまかった。西新宿センチュリーハイアットの「翡翠宮」という医食同源チャイニーズには今も通い続けている。深川ホテルイースト21に泊まりに行った。

 二階の中華料理屋は、新宿京王プラザホテルの「南園」華やかなりしころの味を受けついでいる。京王プラザに名シェフが複数いたころの味が残っているのは、細いソバでわかる。

 そう言うと、女子店員がにっこりして、シェフは「南園」にいた方です、と言う。

 渋谷の東急文化会館の跡地に「渋谷ヒカリエ」ができたことを記し、ブロードウェイミュージカルを上演する「東急シアターオーブ」がオープンすると書く。

 劇場以外のビル内を一応歩いてみたが、ぼくにはアメリカン・ファーマシー(むかし日活国際ホテルにあったドラッグストア)がなつかしく、耳栓を買った。

 そうか、アメリカン・ファーマシーがあるのか。ちょっと懐かしい。

 以前、小林の『四重奏 カルテット』を読んだときも、「小林の文章は巧みとは言いかねる。人物たちの関係が十分に説明できていない気味がある。会話においても誰が発話しているのか分かりかねるところもあった」という印象をもった。まあ、ケチをつけるのはこのくらいにしておこう。



私の東京地図 (ちくま文庫)

私の東京地図 (ちくま文庫)