佐野洋子『覚えていない』を読む

 佐野洋子『覚えていない』(マガジンハウス)を読む。主に1990年前後に雑誌等に掲載されたエッセイなどを集めたもの。佐野を読む面白さは、女性の極論的本音を知ることができると思われるからだ。女性の思考が男性とちょっと異なると感じたのは4コママンガの秋月リス『OL進化論』を読んだときだった。OLたちの思いがけない思考が面白かった。それらのなかで今でも一番印象に残っているのは、普段から憧れていた男性から急にデートを誘われたとき、一瞬舞い上がって喜んだものの、今日身につけているのが小母さんパンツだったことを思い出してデートを断ってしまうエピソードだった。私らいいじゃんパンツなんてと思ってしまうのだが、どうやら彼女たちに普遍的な思考らしかった。
 佐野が、テレビのアナウンサーが、年取って容貌がおとろえた事を理由に番組を下ろされ、それを女性差別だと言って訴えて戦っていたことについてコメントしている。

……ちょっと待ちなよ、オバサン。あなたがアナウンサーに採用された時は、あなたの能力のうちに容貌というのもしっかり入っていたのだよ。同じ能力あるいはちょっと上回る能力を持っていたライバルたちをあなたの容貌という武器でけ落として勝ち抜いたのだよ。その時、あなたは、私の容貌が点数のうちに入っていたら、それを差し引いてくれとはたのまなかったはずだ。だったら、年取って能力が低下したんだったら、それはマイナス点になっちゃうんだよ。

 真冬に群馬県の山小屋に友人のさくらさんと行った。雪が降って美しい景色だが退屈なので、ベストセラーになっていた渡辺淳一『うたかた』上下2巻を買って、さくらさんと2巻を別々に読み始める。

「ねぇ男がね教えるの。”その先に見えるのが大島だ”」。宿屋でもったいぶって、”大島だ”と教えている男を想像するとおかしい。「キャー大変」私は下巻を読み上げる。「安芸は裾を左右に分かち徐々におしあげると2本の白い肢の彼方に黒々とした叢が見える。安芸はいったん手をとめ、それから懐かしいものに出会ったようにうなずく」「あんなものの前で、うなずいている男って想像できます?」「今度は食べ物よ。何だらかんだら”えんがわが添えられているのも嬉しい”嬉しいのよこの男は。”和食は目でも食べる”この男全部講釈たれるの」「女笑ったりしないの」「しないわよ、”お料理もデザインですね”なんて答えるの」「ちょっと恥しくなってきたわよ、この男、着物着てでかけるわよ、真夏に、銀座四丁目に”白の上布を着て素足に草履を履いて家を出た”やだこんな男と銀座あんた歩ける? やだ女も着物着てきた。(後略)」

 「華やかな荒野を」という小篇がある。

 私が初めてモリ・ヨーコに会ったのは亀海昌次の恋人としての20歳の娘のモリ・ヨーコだった。20の娘は伊藤雅代というごく平凡な名前を持つ特別な娘だった。
 同じ様な年頃の娘が沢山いたが、シューチョーというニックネームのモリ・ヨーコは、特別だった。

 亀海と婚約して、婚約ハキしたシューチョーが佐野を呼び出したことがあった。「あの時、私は何の役にも立たなかった」と佐野は書く。モリ・ヨーコより2歳年上で結婚していたにも関わらず。それから何年も経って、彼女は佐野の事務所に訪ねて来たことがあった。可愛い混血の女の子を連れて。「その頃、多分彼女が一番つらい時期だったという事を私はずっと。あとになって知る。/その時も、私は何の役にも立たない無能な友人だった。/そして『情事』によってあざやかな小説家モリ・ヨーコが出現した」。
 そうか、モリ・ヨーコは森揺子だったのか! 
 モリ・ヨーコは佐野を香港へ誘う。買物にいかない? おいしいものを食べに行きましょうよ、おしゃれしてパーティーに行きましょうよ、でも佐野はそれらを断った。「多分、六本木のキャンティで私はモリ・ヨーコの世界からそっと捨てられた」。
 1行空けて、佐野は続ける。

 モリ・ヨーコは決して死んだりしない。私が死んでもモリ・ヨーコは決して死んだりしないのだ。
 死がいかに不条理であっても、そんなはずはないとモリ・ヨーコの突然の死を私は受け入れられなかった。(中略)
 女流作家、モリ・ヨーコは全ての人のものだった。
 だから私のものでもあった。
 もしも赤いバラが永久にこの世から失われたら、世界はどんなに淋しいだろう。
 私は私の赤いバラを失った。(中略)
 ごめんね、シューチョー。私はまだまだ時間があると思った。やがて、年老いた時に、何も言わずに、年老いた孤独や生きて来た共感を分かち合えると思っていた。それまで、私は、モリ・ヨーコにせいいっぱいモリ・ヨーコをやって欲しかった。
 もっとやれ、もっとやれってけしかける気分だった。いつまでもけしかけようと思っていた。そして、私は私の場所で待ってるつもりだった。わたし淋しい。

 優れた追悼だ。佐野の気持ちが伝わってきて少し辛い。

覚えていない (新潮文庫)

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