教祖に対する統合失調症の診断は誤診である

「就活」という強大な敵との闘いに身を投じた就活生組合代表の宮内春樹さんがアッラーフから啓示を受けたことに関して、ネット上では、「彼は統合失調症である」という見解が流布しています。たとえば、@bintronさんはTwitterで次のようにツイートしています。

それだけ追い詰められる敵と戦ってたって察してやれよ。そして知り合いは精神科連れてってやれよ。これ完全に統合失調症だって。RT“@togetter_jp: .@holysenさんの「就活生組合代表の宮内春樹氏が神の啓示を受ける」http://togetter.com/li/246871?f=tgtn

http://twitter.com/bintron/status/162012749340217346

他人が作った宗教をうっかり信じてしまった信者たちの言動は、ただ単に痛いだけで、それが精神疾患によるものだと思う人はいないでしょう。しかし、教祖たちの言動はそうではありません。「私は神の子でありメシアである」とか「私は悟りを得て解脱した」とか「私はアッラーフから啓示を受けた」というような言動は、統合失調症であると診断される十分な根拠となります。この点については、宮内さん自身もTwitterで次のようにツイートしています。

最近やたら統合失調症認定受けるけど、イエスも釈迦もムハンマドも現代の病院いったら統合失調症認定食らうよね、きっと。

http://twitter.com/HaruYauchi/status/179996010158886912

教祖たちを応援することによって地球上の宗教多様性を増大させようと目論んでいる我々にとって、これは由々しき事態です。なぜなら、「教祖の言動は統合失調症によるものだとみなされるおそれがある」という事実を、これから教祖になろうとしている人が知ったとすると、「統合失調症だと思われるのはいやだなあ」と思って、教祖として名乗りを上げることを躊躇してしまう可能性があるからです。

しかし、たとえ精神科医統合失調症だと診断を下したとしても、教祖の言動は統合失調症によるものではありません。なぜなら、教祖の言動というのは、自身の妄想が現実だと思っている人物を模倣する演技だからです。精神科医は、彼の演技にだまされることによって統合失調症という誤った診断を下してしまうのです。したがって、「統合失調症だと思われるのはいやだ」と思っている教祖の卵たちに安心してもらうために、我々ははっきりと主張しておかなければなりません。「教祖に対する統合失調症の診断は誤診である」と。

統合失調症だという診断を下されない教祖になることは可能である

「教祖に対する統合失調症の診断は誤診である」という我々の主張に対して、教祖の卵たちの多くはおそらく次のように反論するでしょう。「たとえそれが誤診だとしても、統合失調症だと診断されるならば同じことだ」と。そのような反論に対して、我々は次のように反論したいと思います。「統合失調症だという診断を下されない教祖になることは可能である」と。

すべての宗教は、人間による創作物です。その点において、宗教は小説と同列の存在です。宗教の創作者である教祖も、小説の創作者である小説家も、自身が創作したものが虚構であることを知っています。しかし、教祖と小説家との間には大きな相違点があります。それは、多くの場合、前者は自身が創作したものが虚構であることを公言しないのに対して、後者は自身が創作したものが虚構であることを公言するという点です。

自身が創作したものが虚構であると公言する教祖がほとんどいない理由は、そのような教祖は、自身が布教する宗教をいかなる人間にも信じさせることができないからです。もしも教祖が、自身が創作した宗教を誰かに信じさせたいと思うならば、彼は、その宗教は自身が創作したものではなく、自身に与えられた真理であると主張する必要があります。教祖の多くが、自身の妄想が現実だと思っている人物を演技するのは、自身が創作した宗教の信者を増やしたいと願っているからに他なりません。

宮内春樹さんは統合失調症ではありません。同様に、イエスも釈迦もムハンマド統合失調症ではありません。しかし、自身が創作した宗教の信者を増やしたいと願う教祖は、必然的に自身の妄想が現実だと思っている人物を演技することになります。そのような教祖が精神科医の前でも演技を続けたならば、統合失調症であるという診断が下されることは不可避です。

自身が創作した宗教の信者を増やしたいと願うことは、教祖であるための必要条件ではありません。言い換えれば、自身が創作した宗教の信者を増やしたいと願わない教祖が存在することは可能だということです。そして、自身が創作した宗教の信者を増やしたいと願わない教祖は、自身の妄想が現実だと思っている人物を演技する必要がありませんので、統合失調症であるという診断を下されることもありません。ですから、教祖として名乗りを上げたいけれども統合失調症だとは思われたくないという人は、自身が創作した宗教の信者を増やしたいと願わず、自身の妄想が現実だと思っている人物の演技をしなければいいのです。

信者が存在しない宗教にも存在する価値がある

統合失調症だと思われたくない教祖は、信者を増やしたいと願わなければいい」という我々の主張を聞いて、「信者が存在しない宗教に存在する価値があるのか」と疑問に思った人がいるかもしれません。確かに、多くの宗教には、それを信仰する信者が存在しています。例外は、空飛ぶスパゲッティ・モンスター教や、我々が布教している共存型一神教など、きわめて少数のものしか存在しません。宗教が存在する価値は信者によってそれが信仰されることによってのみ生じると考える人が大多数だとしても不思議ではありません。しかしそれは、いずれは消え去るであろう前時代的な宗教観です。これからは、「信者が存在しない宗教にも存在する価値がある」という宗教観が常識となるであろうと我々は予想しています。

すでに述べたように、人間による創作物であるという点において、宗教は小説と同列の存在です。小説を読んで、それが現実に起きたことだと思う人はいませんが、それでもなお小説には存在する価値があります。小説と同じように宗教も、これからは、それが人間による創作物であるという認識の下で楽しまれることになるであろうと我々は予想しています。そして事実、経典を読んだり祭礼に参加したりすることは、たとえその宗教の信者ではなくても十分に楽しい行為です。

日本の人口に占めるキリスト教の信者の比率は1%弱と言われています。それにもかかわらず、キリストの誕生を祝ったり、牧師や神父が司式する結婚式を挙行したり、『ふしぎなキリスト教』のような入門書を読んだりする日本人は少なくありません。日本人の多くは、「宗教は、たとえ信じなくても楽しむことができる」ということに、すでに目覚めているのです。宮内春樹さんが創設した聖久律法会に関しても、その信者たちの多くは、彼がアッラーフから受けた啓示を本当に信じているわけではなく、信者を演じるある種のゲームに参加しているだけではないかと我々は疑っています。