(349)鈴鹿山麓での農的創成(4)・動物の権利を考える(1)


写真はこの春から家族の一員となったヤーシャである。
最初余りに風貌が夜叉に似ており、夜叉は守り神であると言って娘が命名した。
妙高では娘が生まれた年に長男が拾って来た子猫を育て、その猫が頑張って24年間も生きてくれ、動物との共生する暮らしに潤いがあったことから、ここでも飼いたいと思っていた。
幸い近郊の小都市に動物愛護センターがあり、猫をもらい受けるために2月に講習を受け、申請して2か月後の4月の連絡で、巡り合わせたのがこの猫であった。
生後1年を過ぎた雌成猫で、一度もらい受けた人が返却した猫であった。
返却した理由はもらい受けると直ぐにわかり、恐ろしい速さで障子や網戸、箪笥などの高いところに登り、普通の家庭で飼うには余りに野生的であった。
素性も不明と記され、好んで泥水を飲もうとすることから、捨て猫であった期間が長かったように思われた。
避妊については手術は可哀そうとの判断でそのまま育てようとしたが、発情は余りに辛そうで、度々繰り返す発情期間では夜通しなき続け、このままでは我々も含めて健康を害しかねないことから、以前のネコ同様に手術した。
その後性格もおとなしくなってきたが、それでも天井近くに上ることが好きで、寝る前は恐ろしい速さで走り回っている。
それでもヤーシャがいるお陰で、暮らしにゆとりと潤いが生じていることは確かである。
そうした暮らしの中で、最近放送されたZDFで動物実験の真偽を問う番組があり、動物の権利、そしてそれを受け入れる社会を考えて見た。

動物の権利を考える(1)

ドイツでは2002年ドイツ憲法基本法に、「自然的な生活基盤及び動物を保護する」という条文が20a条で採り入れられ、いわゆる動物の権利なるものが認められている。
それ故ドイツの子どもたちは、動物への愛護精神を幼稚園から学び、医療や教育で不可欠な動物実験にも批判的で、最近の代替実験の進歩で動物実験廃止の声も高まって来ている。
それに対して日本では動物の権利が殆ど考えられず、動物実験に至っては人類のためという大義名分で廃止など在り得ない選択である。
確かに日本でも動物愛護センターの目標は、現在もまだ実施されている年間何万匹にも上る殺処分を無くすことを目標に掲げ、施設などもドイツに学んでいるが、施設内からはドイツと異なり、一匹でも多く救ってやりたいという動物への気持ちと愛情が伝わって来ない。
既にこのブログでベルリン郊外のティアハイムについて書いているが、そこではボランティアで通うスタッフからも、ドイツ語による意思疎通が難しいにもかかわらず、一匹でも多くの動物を救いたいという気持ちと愛情が至るところで感じられた。
特筆すべきは、この施設を運営するベルリン動物保護協会は、運営費の殆どを1万人を超える会員寄付依存しており、市民の意思と愛情が反映されるだけでなく、一人一人の活動を市民にガラス張りに開くことでインセンティブを創り出し、職員にもその意志と愛情が強く感じられることだ。
日本の場合こうした施設は県などが直接運営するか、外郭団体として運営されており(外郭団体の場合県職員の天下り先)、市民にガラス張りに開かれていないことから職員にインセンティブも働かず、絶えず従来の慣習を守ることが求められることから、本来の動物愛護精神も失われ、看板だけになっているように見える。
それは医療、介護、教育なども同様であり、行政が関与する全てで見られ、メンタルなインセンティブがないことから規律だけが増え、職員のストレスを限りなく上げ、それがサービスを受ける市民の側にも大きな不満を生み出し、悪循環して跳ね返ってきているように思える。
こうした悪循環を打破するには、職員一人一人の取組から施設団体の役員人事に至るまで市民の側にガラス張りに開くことが第一歩であろう。
それを実現したのが戦後のドイツ社会であり、国民一人一人が過ちを犯す存在であることを真摯に反省し、ドイツ社会を官僚支配から官僚奉仕へ180度転換させたと言えよう。
そうした私たち日本とは本質的に異なるドイツのオルタナティブな社会は、今回のZDF『試験台に立つ動物実験』を見ても、その一端が理解できるであろう。

それにしても洪水のような雨が降り続いた後は、長い長い日照りの夏が続いている。
こうした気候の異常変動を化石燃料社会の欲望肥大と真摯に反省できるとき、日本、そして世界もドイツのように変わり得ると信じたい。

それにしても暑い、暑い夏であり、農作業も朝夕一時間ほど水をやるのが精一杯になってきている。
それでも前回三分の二が壊滅した里芋畑も、毎日の水やりで下の写真のように元気に回復してきており、明日への希望へと繋がっている。