わたしたちがうたうとき カンパネルラの方から

「川へ行くの。」ジヨバンニが云はうとして、少しのどがつまつたやうに思ったとき、
「ジヨバンニ、ラツコの上着が來るよ。」さつきのザネリがまた叫びました。
「ジヨバンニ、ラツコの上着が來るよ。」すぐみんなが、続いて叫びました。ジヨバンニはまつ赤になつて、もう歩いているのかもよくわからず、急いでいきすぎようとしましたら、そのなかにカムパネルラが居たのです。カムパネルラは氣の毒さうに、だまつて少しわらつて、怒らないだらうかというやうにジヨバンニの方を見ていました。




”わたしたちがうたうとき”

ユーロスペースにて若い監督5人の短編映画の上映『no name films』を学校ともだち5人で観に行く。

その中の1本「わたしたちがうたうとき」を作った木村有理子監督と、映画監督の塩田明彦氏のトークショーが上映終了後にあって、それが映画そのものと同じくらい、自分には面白かった。
「こどもには『過程』が無い、ある日突然、『もう決まってしまった結論』に直面し、有無を言える余裕は無い」(塩田監督)
「ものが言えない立場の人、今いる状況から外に出ることができない人間をみる」(木村監督)

自分がこの映画をみるのは2回目なんだけど、塩田監督が言っていたように、DVDで観るよりスクリーンで観るとぜんぜん違っていた。スケールというのは本当に大事だ、映像は、自分の本来もつ力に見合ったサイズを要求するのだと改めて感じた。映されているのは幼いと幼くないの狭間にいる女の子2人(と父2人)だけだが、単に鼻歌うたうシーンでも大きければ表情から読み取れる情報も多くなるのだと。時々、「よくこんな表情とったな!」と思う映画ある。映されている人から予期せず多くのものをうつしとっている映画だ。こどもを撮った映画にはそういうものがある。「ミツバチのささやき」も、「ひとりで生きる」も、「少女ムシェット」も。内田樹が近著の映画評論で「時をかける少女」のときにスタッフ全員が当時の原田知世という少女を好きになってしまって、永遠に戻らないこの子の一瞬をとろうとしたって紹介をしてたけど、「自分のしてることがわかってない人のうつくしさ」(木村)っていうこども映画の醍醐味がこれにもあった。
それは今だけだ。ここにうつされた彼女たちは数年後、もしかしたら数ヶ月後に、この映画をみたら苦しくて泣くのじゃないかと思った。

銀河鉄道に乗る前のカンパネルラとジョバンニにはアイコンタクトしかもう繋がる術がなくて今にもちぎれそうだ。「わたしたちがうたうとき」の中盤、玄関先で、父親から突然に自分と友達との関係性の不平等を知らされる少女が、落としたみかんを拾い集めながら裏切られたような視線を医者の娘に刺すシーンで、わたしはすぐにこの話を思い出した。きっと歌の下手な子のお母さんは体が弱くて、彼女のもってくる暖かいミルクを心待ちにしている。プログラムB。12月2日までレイトショー上映。