野々村四郎右衛門と門奈助左衛門

影武者徳川家康』そして『徳川家康(トクチョンカガン)』におけるキーポイントを『徳川実紀』から引用する。

又朝のほど霧深くして鉄炮の音烈しく聞えければ。御本陣の人々いづれもいさみすゝむで馬を乗廻しつつ。御陣もいまだ定らざるに野々村四郎右衛門某あやまりて。  君の御馬へ己が馬を乗かけしかばいからせ給ひ。御はかし引抜て切はらはせ給ふ。四郎右衛門はおどろきてはしりゆく。なほ御いかりやまで。御側に居し門奈助左衛門宗勝が指物を筒より伐せ給へどもその身にはさはらず。これ全く一時の英気を発し給ふまでにて。後日に野々村をとがめさせ給ふこともおはしまさざりしとぞ。(古人物語。落穂集。卜斎記。)

『卜斎記』では門奈助左衛門宗勝が門名長三郎となっている。『寛政譜』によると苗字は門奈(もんな)が正しい。助左衛門宗勝は太郎兵衛直宗の二男。兄の善三郎直友は三方ヶ原の戦いで討死している。助左衛門宗勝が近侍していたのは

東照宮に仕へたてまつり、関原御陣のとき供奉し(寛政譜)

とあるので確かだろう。寛永十一年九月十日没。享年八十。逆算すると関ヶ原のとき四十六歳。
もし長三郎が正しいのであれば、助左衛門宗勝の長男、長三郎宗家を指しているのだろう。こちらも

東照宮に仕へたてまつり(寛政譜)

とあるので該当しなくもない。慶長十一年没の享年二十九であるから、逆算すると関ヶ原のとき二十三歳。『卜斎記』は御小性と書いているので、同書に従えばむしろ長三郎宗家が正しいとも思える。
『寛政譜』の記述的には助左衛門宗勝と思われるが『卜斎記』の信憑性を考慮すると断定は難しいであろう。

さて、もう一人の野々村四郎右衛門であるが、『寛政譜』に野々村家というのは見当たらない。そこで困ったときのグーグル先生を頼ると、織田信忠に殉じた野々村三十郎の子、野々村四郎右衛門幸包であるという2chの過去ログに出会った。調べると中村一氏に仕えた後、家康に仕えて使番になったとあるので事績は該当する。ではなぜ『寛政譜』に載っていないのかというと、四郎右衛門が寛永二年十二月十八日(正月二十日とも)に没し、同じ年に養子の一学も亡くなって家が絶えてしまったためである。それでは『寛政譜』どころか『寛永伝』にも載れない。四郎右衛門であるが享年五十五というのが正しければ関ヶ原のとき三十歳。