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織田信忠

社会

織田信忠

おだのぶただ

安土桃山時代の武将。織田信長の嫡男であり、正室濃姫養子となり、正式に織田家家督継承信長も認めた次期世代を担う人物であったが、本能寺の変信長と共に散った。その為、織田家命運が別れたと言っても良い。

概略

1557年に信長嫡男として誕生し、信長より奇妙丸と名付けられた。信玄五女・松姫と婚約が成立する。元服ののち、各大戦に参陣し、大いに武名を上げていく。

従三位・左近衛権中将に叙任後、信長より、総帥として諸将を率いる。

甲州征伐で父信長より、「天下の儀も御与奪」との意志も表明。副将河尻秀隆?甲斐国森長可信濃国毛利長秀信濃国伊那郡を与えられた。美濃尾張甲斐信濃の四ヶ国を支配し、織田家後継者として正式に認められる。

1582年6月2日、信長と共に羽柴秀吉への援軍に向かうべく京都妙覚寺に泊まる。信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべ織田兄弟と、重臣一族斎藤利治京都所司代村井貞勝らと共に誠仁親王の居宅である二条新御所に移動し、誠仁親王を脱出さる。わずかな軍兵とともに篭城し、三度の善戦を見せた。しかし明智軍足利義昭幕府伊勢貞興が攻め寄せ、更に近衛前久邸へ押し入り、屋根から二条御所内の信忠軍を銃矢で狙い打ち、信忠部隊は多く兵数を失い傷ついた。明智軍は遂に二条城内に侵入し、白兵戦となる。信忠は織田家当主として恥を残さぬため覚悟を決め鎌田新介介錯した。

その介錯を見届けた信忠叔父・信長義弟である斎藤利治二条御所に火をつけ、斎藤道三より縁が深い美濃衆の福富秀勝菅屋長頼猪子兵助団忠正らと共に敵数多討取り勇勢を震い闘い、忠死を顕けた。黒人の家臣・ヤスケも戦ったという。

享年26。父同様、その首が明智方に発見されることはなかった。

正室

7歳松姫と信長嫡男信忠との婚約が成立。だがその後解消。

武田滅亡後、八王子に落ち延びていた松姫のもとに信忠は迎えの使者を送る。それまで信忠は正室を持たなかった。信忠は父信長をも説き伏せ、武田の血が流れる松姫を正室として認めた。

だが、信忠は本能寺の変で亡くなり、松姫は22歳で出家して信松尼と称し、武田一族と信忠の冥福を祈り、生涯信忠正室として独身とした。

織田家家督継承

信長後継者として信忠を正室濃姫の養子とした。更に濃姫の弟である斎藤利治を一番の側近として重臣とした。斎藤道三美濃国譲り状を正当として認め、美濃国尾張国の織田家重要領土を与え、織田家である子の兄弟の中で正式後継者とした。織田家一門の中における序列は第1位。

織田家後継者

信忠は信長に従順ではなく、反発したり抗弁し、戦でも命を破った。能でも反発した。それを見て信長嫡子信忠を後継者として認めたという。