甲斐国の戦国大名。武田信玄の4男で庶子。四郎。諏訪勝頼。正室は織田信長の養女(姪)の遠山夫人で、子に武田信勝がいる。継室は北条氏康の娘。
母の諏訪御料人は信玄が1542年(天文11年)に滅ぼした諏訪頼重の娘で、勝頼は1561年(永禄5年)に諏訪家を継承し伊那郡高遠城主になったと言われるが、近年は勝頼が継承したのは諏訪宗家ではなく支流の高遠諏訪家であったとも言われる。
1561年(永禄4年)の川中島の戦いから武田家は尾張国の織田信長に接近し、『甲陽軍鑑』では1565年(永禄8年)に勝頼室として信長養女が嫁いだとしている。同年には今川義元の娘を室とする信玄の嫡男武田義信が自害し義信派の家臣が粛清される事件が起きており、勝頼は武田姓に復して後継者となる。なお、『甲陽軍鑑』では勝頼は信玄の遺言により勝頼嫡男の武田信勝が元服するまでの後見であっあとしている。
1573年(元亀4年)の信玄死後に家督を相続し、1575年(天正3年)の長篠の戦いではで織田・徳川連合軍に大敗する。長篠敗戦後には越後国上杉家との同盟や信長との和睦(甲江和与)を模索するなど外交関係の再編に乗り出し、新府城を築城して国内の防備にも乗り出すが、1582年3月11日に織田・徳川連合軍の侵攻によって自刃し、武田家は滅亡する。