天正3年(1575)5月21日に行われた、愛知県新城市の長篠城西方の設楽原で行われた織田・徳川連合軍と武田軍による合戦。
武田勝頼による徳川方の長篠城再掌握に端を発する。武田信玄の死後に家督を継いだ勝頼は遺言により信玄の死を秘匿し逼塞していたが家康は武田勢に対して反攻を強め、勝頼hはこれに対して遠江・三河の再掌握を試みた。
天正3年織田信長・徳川家康が大軍を率いて救援に赴いたのに対し、武田勢も長篠城に対する抑えの兵を残して出撃、合戦に及んだ。
合戦の実情は太田牛一『信長公記』や小瀬甫庵『信長記』、『甲陽軍鑑』などの軍記類に拠るが、長篠の戦いでは数と火力に勝る織田・徳川勢に対し、武田勢が突撃するも攻めきれず、却って総崩れとなった。織田・徳川勢は追撃戦で名のある武田の武将を数多く討ち取り、大勝を収めたと言われ、高野山成慶院の武田家過去帳類でも天正3年に死去している家臣が多く確認される。『信長記』では織田軍は大量の鉄砲(一説に三千挺という)を用いて騎馬中心の武田軍を破ったとしており、日本の戦史の中でも特筆される戦いと評されている。
また、江戸時代には『信長記』や『甲陽軍鑑』の記述を元にした長篠合戦図屏風が数多く製作されている。