風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子18

葛原妙子が「幸せな大詰め」を迎えるために、ご長女の猪熊葉子さんは欠かすことの出来ない存在であったと思う。けれど『児童文学最終講義』を読むと、妙子は葉子さんよりも先にカトリックに無意識のうちに引き寄せられていたのではないかと私には思える。『児童文学最終講義』の中で葉子さんは「実はそのカトリックに触れるチャンスはもっと早い時期にあったはずでした。それは母が思い立って、私が小学校四年生の時に四谷の雙葉の編入試験を受けさせられた時です。見事私は落っこち、カトリック教育に触れる機会を失っていたのです。悔しがった母は、『ええ、もう雙葉なんかにお願いすることはないわ』と言い、・・」と書いておられる。
キリスト教というものは、「本当の愛」を追い求める者を引き寄せずにはおかない宗教なのではないかと私は思う。後に葉子さんが受洗をしようとした時、妙子は猛反対したということだが、その辺りにも妙子の心情がかえって表れているように私には思えてならない。屈折した心は、「求めて止まない想い」を人の目に触れないように隠さずにはおれないはずだから。そのうえ妙子は晩年にこんな歌さえ詠んでいる歌人なのだから。

みづからを騙すことよきよろこびてみづからを騙すことのよろしき『をがたま』

さて、葛原妙子の第四歌集は昭和29年から32年(妙子40代後半)までの作品が収められた『薔薇窓』であるが、この歌集が出版されたのは昭和53年、妙子が71歳の年だった。そしてこの歌集『薔薇窓』は第八歌集『鷹の井戸』が出された後、妙子の生前に出版された最後の歌集でもある。「『薔薇窓』について」という文の最後に、「率直に言ふならばこの集は何度も企劃されながら出版の時機を逸し、そのうちに『原牛』『葡萄木立』『朱靈』などの諸歌集が先行してしまひ、昨五十二年には遂に第八歌集『鷹の井戸』が出るしだいとなり、省みなかつたわけではないがなにか哀切である。(中略)
出版について低迷に低迷を重ねた一集『薔薇窓』がやがて出ようとしてゐる。ねがはくはさわやかな秋の日であつて欲しいとおもふ。」
と自ら記している。

その『薔薇窓』に次の一首が載っている。

淡黄のめうがの花をひぐれ摘むねがはくは神の指にありたき
                  『薔薇窓』「神の指」


みょうがの花というのは長い茎の先には咲かず、地面からほとんど直接出た所で咲くようだ。薬味などに使うのは花が咲く前のみょうがの子と呼ばれる部分だ。私は写真でみょうがの花を見たことがあって、実物を見たいと思い、夫の実家からみょうがの子が送られてきた時に皿の上に水を張って切り口をつけて寝かせておいたことがある。すると淡い黄色というかクリーム色の花を咲かせた。花びらはとても薄く触っただけで萎びてしまいそうだった。

この短歌について書いている途中で、妙子自らこの短歌について書いているものがあることを知った。

葛原妙子がこの短歌について自ら書いている「茗荷の花」の文を、『短歌のすすめ』(有斐閣)の「第3章 短歌と私 1歌との出会い、作歌の楽しみと苦しみ」の中から引用しよう。

 ・・・。私が茗荷を愛するのは半分以上この花の風情のためでそれは光にも耐えないような淡さである。

 淡黄(たんわう)のめうがの花をひぐれ摘むねがはくは神の指にありたき

 この薄黄いろい花の純潔な弱々しさはふと私に嗜虐めいた心をそそる。うなだれやすい柔らかな細首を衝動的に摘みとらずにはいられないからである。神ならば許されもしようこの無慈悲を私は今年も私の指で繰り返す。
 右の歌は私の旧作だが歌の良否は別として茗荷の花への感情は今も変わることがない。
 この季節の花、茗荷はたやすく消え失せる厨の花である。・・・。また歌作りは脆弱そのもののこの茗荷の花との出逢いによって突然にあり得べき人間の嗜虐本能を、同時に最も人間らしい憐憫の情を経験する。ねがはくは「神の指にありたき」はそれ故の嘆声だが、散文表現では不可能なこの感情が一首の歌となり得たとき作者は幸福であった。幸福とはずばりとたのしさではないか。


嗜虐的な思いと憐憫の情が交錯したとき、「神の指にありたき」という下句が思わず洩れ出てきたというのだ。けれどこの歌だけを読む限りでは、作者が言う嗜虐的な思いを読み手が連想するようには思えない。「厨の花」と書かれているから、実際は夕食の献立の一皿の添えとして花を摘んでいたのだと思うが、みょうがという名を読んだだけで私などは食卓に供せられるのであろうと想像した。花のついた紫蘇などを料理の端に添えることは良くあることだ。それなら尚のこと花びらを傷めずに摘みたいと思うだろう、そして自分の指が神の指のように優しくあることを願うだろう、と。一般の読者もそのように受け取るのではないだろうか。いずれにしても、みょうがの花を日暮れに摘んでいて自分の指が神の指のようでありたいと詠っているということに変わりはない。しかし、この短歌がそれだけを詠っているとは到底思えない。

先の文の最後のところを引用してみたい。

 さて歌には実に多く生活の事実や真剣が訴えられる。これはよい。だが作歌とは人にとってもう少し別の大切な意味がある。作歌によって人は、たった一度のこの生を幾とおりにも生き得るよろこびがあるからである。(『短歌のすすめ』中、葛原妙子=文「茗荷の花」より)

この最後の文はとても意味深長であると思う。先に引用した中に、「この感情が一首の歌となり得たとき作者は幸福であった」と書かれてあった。そしてそのことをすぐさま補足するかのように、否、本当のところを隠すかのように、「幸福とはずばりとたのしさではないか」と書き足している。けれど、妙子がこの歌を得て幸福だったのは、この最後の文に関わっていると私は思う。つまり、生き得ない生をこの歌の中に詠い込めることが出来たから幸福だったのだ、と。

葛原妙子の短歌の中で、この「めうがの花」の歌は代表歌として取り上げられるようなものではないだろう。そしてこの歌が載っている歌集『薔薇窓』も歌集としてなかなか世の中に出なかった。この『短歌のすすめ』の出版が昭和50年となっているから、この文が書かれたときには『薔薇窓』はまだ歌集として出ていなかったということになる。「歌の良否は別として」と自ら書いているように、この歌は秀歌としてはさほど人の目には留まらない歌なのだ。しかし妙子はこの歌に相当な愛着を持っていたのではないかと思う。人の目を引く「嗜虐本能」などという言葉を用いてわざわざこの歌を取り上げて、こんなところに文章を残しているぐらいなのだから。

さて、このように愛着のあるこの歌にどのような意味を込めたのか、文法から考えてみたいと思う。
「神の指に」の「に」は「〜のように」という比喩を表す助詞でもあるが、「どこどこに」という場所を示す助詞でもある。又、「ありたき」の「あり」は「〜である」という存在の状態を表す補助動詞でもあるが、「(そこに)いる」というように場所が限定された存在を表す動詞でもある。つまりこの歌は、ここから二つの意味が読み取れるように作られているのだ。(そして本当の願いをこの歌の中に秘かに込めることが出来たと思ったために幸福だったのだ。)

妙子は、花びらを傷つけることなどあり得ない完璧さと権限を持った神の指のようでありたいと詠っているように見せながら、自分も人生の日暮れには神の指によって摘まれ、神の指の中にありたいと詠っているのだ。そして、そう自らが願ったように、亡くなる数ヶ月前に信仰を告白し、ご長女の手から洗礼を授けられた。そうして、その年の9月2日茗荷の花の咲く季節に、神の指によって摘まれ、天へと召されて逝ったのだ。



猪熊葉子=著『児童文学最終講義』について
      ↓
http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20120501/p2