ザ・スミスモリッシーの歌詞はシニカルかつミゼラブル。
 代表格はその名も「Heaven knows I'm miserable now」


職を探してやっと見つけた
それで今はおそろしくみじめな俺


(略)


「お前は家でごろごろしすぎる」って
当然家を出た
俺の人生の貴重な時間を、なんで俺がくたばろうがどうしようが
いっこうに構わない奴らのために、費やさなければならないのかい


 

 この曲を聴くと、「システムと生活世界」という二項対立が思い浮かぶ。実存的な意味のレベルで言えば、システムとは「代替可能な世界」、生活世界は「代替不可能な世界」となる。システム、例えば職場はたいがいが代替可能な仕組みになっており、つまり僕がいなくても本当は仕事は回る。僕の替わりはいくらでもいる。一方、生活世界は本当に自分自身に尊厳を与えてくれる人との時間のことで、そこでは僕らはお互いに「かけがえのない存在なんだ」という感覚(これこそが尊厳)を備給されるといえるだろう。
 モリッシーの歌詞に従えば、「職を探してやっと見つけた」のに「今はおそろしくみじめ」なのは、この歌の主人公があまりに代替可能な(それがあからさまな)世界にいるからだろう。そこは「俺がくたばろうがどうしようがいっこうに構わない奴ら」ばかりの世界じゃないか!とモリッシーは叫んでいるのだ。
 またこの歌に「『貴重な時間』っていいいながらごろごろするなよ!」とツッコミを入れる<真っ当な大人>は、残念ながら生活世界が何たるかを理解していない。
 システムと生活世界のいう二項対立から眺めれば、生活世界のほうは、存在の尊厳の源泉(であるべき)なのだから、必ずしもアクティヴである必要はなく(つまり、アーレント的な「活動」をする必要は必ずしもなく)、気心の知れた仲間とだべってダウナーな休日を過ごすのも全然アリ!ということになる。むしろ、社会的に有意義とされる活動に参入していくと、必ずシステム化の弊害が立ち現れるので(生活世界のシステムによる植民地化!)、無産的でまつろわぬ生き方というのは、ときに生活世界の意味とシステムの弊害について非常に重要なことを教えてくれる。本当の意味で必要なことは、この生活世界の美徳が失われないように生活をデザインすることではないか?
 さてさて、やっと映画の話に戻すと、ザ・スミス的なロンドン(クラッシュのロンドンでは少なくともない!!)で繰り広げられるこの物語は、モリッシーの上記の精神性を受け継いでいる傑作なのだ。
 主人公のショーンはぼんくらで幼児的、仕事もテキトウにこなし、家ではゲームばっかりしているニートの幼馴染と同居している。土日はそいつとパブに行ってバカ話を繰り広げており、要するに無気力で自堕落。だから彼女に「あなたといるとあのパブで一生、年老いていってしまうような気がする」と別れを切り出されたりする。これなんかまんまモリッシーの歌詞に出てきそう。
 この映画があくまで恋愛という関係性ではなく友情という関係性にフューチャーするのは、29歳の独身男にとっては、恋愛が友情より価値あるプライヴェートライフとみなされているからだ。そんなシステムからの意味づけビームを、ショーンの私生活はシッシッと追い払う。
 彼女にフラれたショーンは、少なからず非「活動」的な自身のプライヴェート・ライフ(ゾンビ的な生活)をあらためるべきか悩んでいるようだ。しかし、ショーンは選択する前にすでに気づいている。友人とのパブや自宅の居間でのアンニュイな日常が、何物にも代え難いということを。そして、友人のようなニートをバカにする奴らだって、システムのなかではゾンビ同然じゃねえか!ということを。
 そんなテーマを、まさにまんまゾンビ映画で、かつ笑いてんこ盛りで描いてしまっている。エドガー・ライト監督恐るべし! そして、ラストに流れるクィーンの「マイ・ベスト・フレンド」は、なにものにも代えが「愛の賛歌」であり、かつ「生活世界の賛歌」として鳴り響く。

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