東北被災地視察その2

13日 午後6時30分 国土交通省東北地方整備局を訪問し、福井照衆議院議員と合流した。
整備局の川嶋直樹企画部長は福井代議士が国交省時代に一緒の課で仕事をした後輩ということで、防災対策本部で説明を受けた。
また、徳山日出夫局長は本省勤務の時代に、私は自民党県団議道路調査会の一員として何度か勉強会を一緒にしたことがあったのでお会いしたかったが不在であった。

(写真説明)
国交省東北地方整備局防災対策室で川嶋部長から(立っている人)説明を受けている様子、左から福井照衆議院議員、中西、西森潮三県議、大旺新洋の尾崎社長

川嶋部長の話では、徳山局長が震災直後から的確な指示を出したおかげで、救援活動がスムーズにいったそうである。
その活動は、月刊「文芸春秋」5月号に作家の麻生幾氏が「無名戦士たちの記録」という題で書いた記事にも紹介されているが、川嶋部長から聞いた要点を紹介する。
地震の直後、整備局の室内は書類棚が倒れ、足の踏み場もなくなるほど書類などが散乱した。
その状況下で、動揺する職員を集めて徳山局長は「みんな落ち着いて聞いてくれ、これから大変なことになる。我々はまず市町村長との通信手段を確保する。そして救援活動をするためには道路の『啓開』が必要だ。それに全力を尽くせ」と話したそうである。
通信手段の確保のために、整備局の持っている通信機を16市町村の30箇所に配り、現在もまだ9箇所で使用されているという。
また、全国の地方整備局から通信部隊が応援にきたので、運用は彼らにも協力してもらったとのことである。
多賀城自衛隊の話でも紹介したが、通信手段の確保が最も大切である、徳山局長の的確な指示で東北地方整備局と管内市町村との通信は確保された。
また、整備局のホームページに被災した市町村の物資補給に関するニーズを情報提供する「臨時掲示板」を掲載したことも大変に役立ったそうだ。
さらに、東北地方整備局仙台空港にヘリコプターを持っていたが、地震直後に熊谷順子防災局長が「ヘリを上げます」と徳山局長に具申して、通常なら整備局の職員が乗って飛び立つのを、37分後にパイロットだけで発進させた。
この熊谷課長の判断によって貴重な映像が撮れ、また、その後仙台空港を襲った津波からもヘリが水没することから免れることができた。
なによりも、救援活動をするための「道路啓開」が迅速に行われたことが、徳山局長の大きな功績である。
それはまず、東北地方を南北に貫く道路を確保し、その上で岩手県宮城県の海岸線にある市町村とを連絡する道路を確保していく、通称「くしの歯作戦」を実施したのである。
被災直後の写真を見ると、がれきの山でどこが道路かわからない。
建設業界の協力を受けて重機を入れて道路啓開をしたが、宮古市内ではがれきの山の中にたくさんのご遺体があり、自衛隊の協力を得て手作業で処理を進めたという。
話を聞いて、道路啓開の迅速さの裏には徳山局長をはじめとする東北地方整備局職員の努力があったことが解った。
また、整備局では防災ヘリからの映像と国道の監視カメラの映像を見せてもらった。
その中で、走っている車や人が津波に呑み込まれている映像があり、それらはテレビでは流していないそうだ。