かつ問題 そのいくつかめ

 かつ問題に関し、「ダイコー会長ら3人逮捕=食衛法違反容疑−廃棄カツ横流し・愛知県警など (7/12 時事通信社)」という形となったようだ。
 廃棄物処理法違反というわけにはいかないだろうと思っていたのだが、
  ダイコー・・・・・食品衛生法違反容疑
  みのりフーズ・・・食品衛生法違反容疑、詐欺容疑
  ジャパン総研・・・詐欺容疑
      (すべて逮捕者が当時所属(実質的な状態を含む)していた企業名)
ということである。
 多分、この件については、刑事的な意味ではここで終結するのだろうと思われる。
 詐欺についてはある程度分かるとして、実際に食品衛生法のどの項目に違反したのかは、苦手な領域(というか激しくややこしくて面倒くさい)なので、誰か専門家が解説してくれているところを参照してもらうとして、投げておくことにする。
 で、勝手に想像した今回の事件の特長を思いつくまま書いてみる。

 まず、廃棄物処理法の基本的精神は排出者責任にある。
 そもそも論からいえば、問題となった現物は排出者である壱番屋が起点であり、法的に責任は壱番屋にあるという考え方である。
 しかしながら、先の記事でも具体的には述べないし今回も述べたくもないが、法の精神を適用できる現実(もっぱら事件)が少ないという現実との乖離が存在する(ひどく分かりにくい表現だなぁ・・・)ことも為政者側はそれなりに配慮すべき(あくまでも法を捻じ曲げるわけではなく運用範囲内でという意味)点であろうと思われる。
 だが、このあそび部分のぶれに関しては、当然ながら関係者双方にとって利益相反となる。
 こういった現象は、某首長が事件発生直後に「ココイチも同罪」としたとして叩かれたりした件の基礎となっているように思える。
 実際には「同罪」とは一切発言していないにも関わらず、『「壱番屋は被害者だが、(中略)社会的な責任は重い。」』と発言しただけで、『社会的な責任』をいかようにも解釈してしまいかねない(ここでは、不特定な者による勝手論に至っているため既に法の運用範囲を逸脱している可能性もある)実情を考えれば、一介のTV番組でのコメンテータならいざ知らず、いささか不用意な発言であったとも考えられる。
 あまり仮定の上に邪推を繰り返す形であるため、書きたくはなかったのだが、いわゆる警察の捜査を要する刑事的な側面を持つ事件の中での処理業者への立ち入り検査開始時の定例会見であるため、問題のない処理業者に対する自身の所管する県内業者への配慮は何らかの形で言及されていると思われるが、こと排出者側への配慮の部分で『「なぜこんなことになったのか、壱番屋も検証し、再発防止策を講じてほしい」』とすることは、かなり突き放した発言であり、結果的にダイコーが未処理のままにしていた廃棄物に対して排出者側への引き取りの協力も得にくかったのではなかろうかという気さえした。
 法人対自治体という形のない組織体同士の話のように図式として表しがちであるが、結局ミクロ的末端のやり取りは人間同士であり、廃棄物管理票(いわゆるマニュフェスト)が偽装もしくは偽造されているとすれば、処理業者に残っているモノは手続き的に自身が排出した廃棄物ではないという立場も取れないことはないという実体を理解すべきではなかったかという考え方である。
 単に法を知ればよいだけではなく、立場によっては法がどのように運用されるべきでどう向き合わなければならないのか、という観点でも熟知する必要があるのではなかろうかと思う。
 まぁ、それ以前の首長が多いので、多くを求めるべくもないのだが。

 先に廃棄物処理法違反は難しいのでは、と考えたのは、単に排出者責任を負わせれば収まるという構造ではない事件であることも確かなのだが、
  1.適用される罰則が軽い
  2.容疑を確定させるための物証を積み上げるために多くの排出者を捜査する必要がある
  3.そもそも物証が残っていないために物証をあげられるのか
  4.国民にとっての優先度はどこなのか
という点で扱いにくさがあるように思っていた。
 まず、1.であるが、横流しをして金銭の授受があった時点で健康被害がなくても問題があり、今回のように法に抵触する恐れが出てくる。また、これは4.にもかかわることだが、国民の生活を守る意味においては、横流しされた廃棄物が手元に届かないことを優先されるべきであるように感じるし、また廃棄物処理法の罰則で重いものは、総じて排出者が正しく処理業者を用いないなどの不法投棄に類する行為であるとか闇で処理業者をするなどといった社会システム的な逸脱行為であり、そうでないものは軽い傾向にある。
 多分、事件発生当時から言われていた処分受託者管理票の虚偽記載とかだと法的に適用するならば、6月以下の懲役又は50万円以下の罰金程度である。
 これからすれば、横流し側の罰則の方が重い(罰則はいわゆる積み上げ型ではなく競合(一番重いやつになる)か併合(計算方法忘れた)になる)という判断が働くのではないかというものである。
 また、2.のように処理業者だけを捜査すればよいわけではなくその裏付けとして排出業者も綿密に捜査する必要が出てくる。
 今回、問題となった横流し行為につながる企業活動が壱番屋に対してのみ行われていたのならば簡単かもしれないが、捜査が進展するにつれ排出業者は複数に渡っており全国各地に散らばっているという状況のようである。
 今回は、処理業者と1次横流し業者の所在地である愛知・岐阜の合同捜査本部という形態だったようだが、様々な問題から全国の話にするわけにもいかない事情もあったと思われる。
 また、3.のように今回の一連の事件において様々な偽装工作が行われていたり、そもそも転売するのでなければトレーサビリティなど確保する必要もないために記録が残っていないことも物証があげにくい要因となっていると考えられる。
 また、処理業者が敷地内に処理せず(=転売できず)放置した廃棄物を排出者に引き取らせることがなかなかできなかった要因の1つにもなっていることからも、裁判において確実な証拠をあげにくい傾向にあった可能性はある。
 4.は先にも触れたようにどう処理されているかより偽って店頭に陳列されることがないことが大きな関心ごとであろう。
 また、同様に排出者と処理業者のトレーサビリティよりも食品製造者(処理業者が突然産み出した食品なわけだが)から消費者までのトレーサビリティに関心があると思われ、このことは、食品卸の元社員(ジャパン総研がそれにあたる)が逮捕されていることからも食品として流通させたプロセス上の捜査に重点が置かれている証左ではないかと考える。

 この手の食品の話になると必ず出てくる意見として「まだ食える」というのがあるが、特にそれに問題があるわけではなく、かえって消費期限を過ぎたからといって一律にゴミ箱に投入する人よりはよほど食品を大切にしている(それで病気になったりしては元も子もないが)ように思える。
 食品関係を扱う者にとっては、今回の食品衛生法なりその他の食品に関する法律、ならびに保健所などは切っても切れない(まぁ、切らしてもらえないし、切ったら切られる)存在なわけだが、これらが過剰品質であるがゆえにこういった転用なり流用なり偽装などが行われるという者も少なからずいる。
 これも、感覚的な意味で全否定されるものではないように個人的には思える。
 食品衛生法などの法律は、戦後のドヤ街などに見られる都心部の人口集中とその衛生上の問題が顕在化するにあたり制度化されていったという一面もあり、昨今の様々なハード、ソフト両面のインフラの観点から同等な基準で管理することはオーバースペックだと言ってもよい領域も存在するのではないかと思うこともあるからだ。
 ただ、こういった領域は、非常事態に有効に機能することなのだと思う。
 例えば、今回のような違法行為を行う者を証拠を持って逮捕することが可能になるということもあげられる。
 また、性悪説に基づく正直者が損をするといったシステムというだけではなく、思いもよらない過失による飲食店の食中毒などに関しても、安全ののりしろがあるがゆえにある程度防げている、もしくはパンデミックレベルにまで至ることがないとも言えるかも知れない。
 消費地レベルで常日頃から病原性微生物検査を行うことが現実的でない以上、次善の策だと考えてもいいように思う。(そういう簡易キットが開発され、小鉢1つレベルに至るほどの小ロットで検査できるようになれば、食文化の幅も今まで以上に広がる気はするが、それはまたそれ。)
 また、私のおおおばあさんが昭和南地震の経験者だったのだが、当時を振り返って言うには、地震津波の怖さもあったが、残された者にはさらに劣悪な衛生状態と食べて病気にならなさそうな食品が確保できないことが問題となったそうである。
 津波で死ぬのも地獄、残されるのも地獄、地震はもうこりごり。とよく言っていた。
 そんなおおおばあさんは大地震を察知するかのように阪神・淡路大地震の数年前に亡くなったが、結局自然災害後の疫病などが一次災害のあとに尾を引くことが問題で、その根源となるのは飲料水と食料の衛生状態だということである。
 戦争末期と現在を比べるのはいささか乱暴な話ではあるが、非常時の食糧事情として、何もない、可食に耐え得るものがない(食べると病気になる)、衛生的には問題がないが食料の絶対量が足りていない、食料の一部の種類が足りないといったレベルの違いから考えると、「食料の絶対量が足りていない」というレベルよりも前の状態というのは、被害が雪だるま式に膨らんでいく構造という意味で何としても避けなければならない境界なのだろうと思われる。
 これを満たすのが、これらの通常時にオーバースペックと感じる規格なのだと思う。
 非常時がいつ来るか分かっているなら、その品質のレベルを切り替えることも可能なのかも知れないが、そうではない以上、これはこれで致し方ないようにも感じる。
 直近の熊本地震では、震災後の復旧、復興というよりも震災が起こっても起こらなくても事業継続性を確保することが求められるというさらに高次なレベルの要求事項を満たしていく中で、すぐさま普段どおりの生活を営むことができるレベルにまで引きあげてしまうことが当たり前になりつつあることを考えると、それを支え維持するためのさまざまなシステムが動いていることを感じられなくなって、そのシステムがない状態がどのようなものかを考えることさえできなくなるような事態は、悲しむべきことかもしれない。
 とりあえず、自らの行動圏における身近な法令がなぜ成立していったのかを知ることで、自らの行為が何を意味するのか、より進んで何を意味してきたことになるのか、そして今後将来にわたって何を意味するものなのかを考えれば、犯罪も起こしにくくなるのではないかと思ったりしたが、多分、悪いとも思わず平気で犯罪を起こす人間というのは、捕まった後になって初めて減刑を目論むために弁護士といっしょに条文とにらめっこするのだろうなぁ、とも思ったりした。