倭人が見た韓人観(三人童女の埴輪)

群馬県内の古墳からの出土物には、朝鮮半島から渡ってきた装飾品などが多く出土しています。おそらく渡来人を率いた渡来人豪族の墓ではないかと思われるものが多く発掘されています。

太刀や日常用品のほか、朝鮮半島の墳墓に多い馬具や金の装飾物が多く発掘されているのが、一つの特徴といえます。

今日は、群馬県高崎市内にある綿貫観音山古墳で出土した三人童女の埴輪についてです。

三人童女群馬県立歴史博物館蔵)

この写真が、三人童女の埴輪です。
横にまっすぐ細い眼の女性が三人並んでいます。

この三人童女の埴輪は、死者が眠る石室の入口前にまさに配置されていたものです。

見た感じは、巫女たちであるようです。

両手の指先をそろえているのは何をしているのでしょうか?

当時は、楽器を持ち死者を悼む葬送の曲でも奏でていたのでしょうか?
切れ長の目は、一説によると死者を悼み泣いている表情を表現しているものとも言われます。

今となっては真実は分かりませんが、ここまでそろって切れ長の目の埴輪の出土例は決して多くはありません。

綿貫観音山古墳の他の埴輪は、決してここまで切れ長でもありません。
ただ韓国の慶州博物館で、これに似た切れ長の目をした土偶を見たことがあります。

慶州博物館の土偶

この埴輪は新羅人を示す埴輪でしょうか?
綿貫観音山古墳の石室の装飾も、新羅百済の古墳に見られる装飾が施されていたことからも、弔われた帰属は渡来系の人か、半島をよく知り半島の文化を模倣した力のある豪族の者であるには違いありません。

日本書紀などで朝鮮侵略などに活躍した上毛野氏につながる豪族の可能性もあります。

ただ埋葬様式を見る限りは、倭人ではなさそうです。


武人埴輪(群馬県立歴史博物館蔵)

周辺の武人埴輪などは、倭人の顔立ちで目も切れ長ではないところをみると、この埴輪を作った工人たちは、意図的にこの切れ長の目を施すことで渡来系の人物を示すために表現した可能性もあります。

仮に倭人の工人が埴輪を工作したとしたらですが。

そう解釈すると、今の日本人も古代の倭人も、朝鮮半島の人々に特徴的な切れ長の目を一つの特徴として捉えていたものとも想像ができます。

または泣いている様子、悲しみの様子を表現するために目を切れ長にしている可能性も否定はできません。

いまとなっては謎が多いのは確実ですが、この古墳の装飾や配置された埴輪の様子からうかがい知れることは、この古墳の被葬者は渡来系の豪族のものである可能性がかなり大きいということではないかと思います。

そして古墳に埴輪を配置するにあたり、渡来系の人々の指導のもとで古墳の装飾を行ったのではないでしょうか?

群馬の古墳は、九州でもなく畿内でもないのに、遠い朝鮮半島系の遺物、金の装飾物が多いことからも、半島、とくに新羅との関係など多く注目できるものがあります。

日本書紀などの記載を参考にしても、なかなか興味深い上毛野氏とのかかわりも注視しながら、東国の豪族の力をうかがい知ることができます。