悪の表現は悪なのか
石原都知事が作家時代に書いた小説「完全な遊戯」はまさに反社会的な内容である。そのことが「非実在青少年」の騒動で知られる所となり、古書の値段が釣り上がっているという。
- 作者: 石原慎太郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2003/08
- メディア: 文庫
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いかがだろうか。精神を病んだ女性を強姦・輪姦・虐待したうえに殺害したにもかかわらず、犯人たちは何の罰も受けない。彼らはわずかのためらいもなく犯罪を実行し、自責の念を微塵も抱かず、すべてを「遊び」と言い切る。
どうだろう?弱者を踏みにじって快楽を得た者が罪を問われず、また自ら罪を感じることも無い。犯罪を否定する要素は無い。むしろ犯罪を奨励していると騒ぐ者が居てもおかしくないようなシロモノだ。
しかしこのような作品もしかるべき枠組みの中では存在する自由がある。少なくとも石原都知事が作家として活躍した頃にはあった。
誤解しないでいただきたい。僕は「完全な遊戯」を規制しろとは言わない。けしからん小説だし、不快には思うが、規制すべきではない。むしろ、この国の中で、こうした小説が出版される自由が保証されていることを評価したい。
「レイプを肯定的に描かない」というのは、僕個人の規範にすぎない。作家によって倫理観は違う。もっと潔癖な人もいるだろうし、逆に暴力や犯罪や反社会的行為をもっと肯定的に描いている作家も多い。僕は「完全な遊戯」のような作品は書かないが、その基準を他の作家に押しつけたくない。
傾向は全く違うものの同業者である山本弘が「表現の自由」を語り容認するのは当然と思う。誰がどのような表現をしようと「醜悪だから」「不快だから」などという理由で禁止される筋合いは無い。
山本氏の守りたいものは「自由」であり、「表現する自由」と同等に守られるべきものもまた明確にされている。それは「見たくないものを見ない自由」であり、口を酸っぱくして言われ続けたゾーニングだけが相反する二つを両立させる手段となる。
しかし少し前、自由を守るということ以外にもう一つ、こういった「悪い」作品、悪辣な表現物の存在を容認する理由を語った人が居た。こちらも表現する側の人間である。それは安倍吉俊。
世の中には様々な悪があり、我々はその悪の『実行者になる』、『被害者になる』、『表現物に触れる』という三つの手段でしか学ぶ事ができません。
もちろん『犯罪的な内容の表現物を読んで犯罪について学べ』という意味ではありません。そういう表現物に対して良識を持って立ち向かう人達がいる社会の空気からしか、人は善悪や分別を学べないのです。教科書に『これは善です、これは悪です』と書いて暗記させても、それは分別を身につけたことにはなりません。繰り返しになりますが、現在市場にある表現物の中には、非常に暴力的で残虐なものや、社会通念上良くないとされるようなものがあります。それに対して、良識ある人達が声を大にして『これは良くない』という事はとてもいい事だと思います。なぜなら、良くない表現物があり、それを良くないと指摘する大人たちがいる、という、その構図そのものが、子供が分別を身につけるために絶対に必要な大切な教材だからです。
とても大切なことを語ってくれたと思う。
「悪」の存在を認識すること無しにそれをどうやって克服することができるだろう?
この世のことごとくを善によって埋め尽くし、白く塗り潰し、黒はおろか灰色すら無い世界で、人は善を認識するのだろうか。
「灰羽連盟」でカトリックからも評価されていると噂の安倍氏だが、キリスト教徒に聞かせても良いような真摯な問いかけではないかと思うのだ。